2010年12月8日水曜日

デザインを教えること

今日、教えているT美大プロダクトデザインコースの卒業制作最終審査会。みなさんご苦労様でした。
他の先生方もおっしゃられていましたが、今年の発表はどれも安心して聞けるものでした。O先生いわく怒り出したくなるような発表は一つもなかったと。うん、本当にそうでした。(でもね...、がこの後に続くんだけど、それはまたあとで。)
私は本当に、デザインということを教えることができるのかどうか、よくわからなくなっています。学生達の課題に「私なり」の正解を出すことはできる。でもそれは「私のデザイン」でしかない。100人のデザイナーが同じ対象をデザインしたら100のデザインが出てくる、その状況はそのままに、それを競わなくてはならない。いつかプログラマにそういうことを言ったら、工学では100人がやっても到達できる1つの答えがあることに意味がある、といって笑われました(決して悪い意味ではなく)。でもそれがそうなら、私はいったいデザインの何が教えられるのだろうか。
でも、こう思いたい。デザインすることのソウルというかスピリットのようなもの。(日本語で言うべきですね、つまり)デザインの精神(というと「精神論」という言葉が頭に浮かんできて、しょげる)。つまりデザインって楽しいことなんだよ、ほらねっ、ていう感じを共有できたらな、と思う。厳しいこともたまに言っているかも知れないけど、厳しいことも(種類によっては)楽しいことだ、というのが私のスタンス。楽しいハッピーなだけのストーリーはおもしろくない。甘いだけのお菓子がおいしい、というのは子供さんだけでしょ。おいしいチョコレートは苦いんじゃない? プリンにかかっているカラメルシロップの苦みは大切なものでしょ。
そのためには、もっともっと自分にとってのデザインの苦しい(?)楽しさをピュアに思い出さなければならない、と反省する。理屈は置いておいて。

でもね。なんだか、物足りない。それは学生の作品に感激していないから? 満足していないから?
そうではなく、たぶん、こういうことかもしれない。デザインはどこまで行っても、いつでも、かすかに、不満が残るものだと、いうこと。現時点で学生はベストを尽くしたといっていい。でも「だからこそ」かすかに残る不満(それは根本的にデザインが抱えているもの)が、それと知れるのだと。ベストを尽くしていなければ、やり残しの中に「かすかな不満」は紛れてしまって見えなくなってしまうのだと。
そういう活動って、いとおしい感じがする。生きた活動って感じが。
(101208)

2010年11月30日火曜日

不動点を探して

私自身の価値や興味を構成している重要点の一つは、「普遍性」という観点である。普遍性とは、できるだけ多くの物事について、だきるだけ多くの場合に、成り立つ性質であり、それがなんなのか、とても気になる。言い換えると、条件がいろいろに変わっても変わらない不動点を見つけたいと思っているのだ。5年後、50年後に読んでも「ああそうなんだ」と思えることに気づきたい。 
不動点を見つけるためには、自分が動かなければならない。あるいは自分の視点をできるだけ大きな振れ幅で動かすこと。そうやって動的に見つめ続けてはじめて、動かない点が見えてくる。じっとしていては、何も見えてこないのだ。
(101130)

2010年11月29日月曜日

創造するということ

デザインは芸術と同様、何かを創造する仕事である。「創造する」ことの現象的な実体は、決めること、あるいは選択すること、判断することだ。ある問題に対して、Aでなく、Bでなく、Cを選びとることを決心すること。いろいろなレベルのデザインというものがあるけれど、どれも同じことだ。
もっともミクロなデザイン、私の行っているデザインの例で言えば、コンピュータスクリーンのあるシーンのあるアドレスにあるピクセルを「赤くすること」より正確にいえばRGBの値を決めることだ。また「赤くすること」の中には「青くしない」「黒くしない」など、多くの捨象を含んでいることにも意識を払っておきたい。
マクロなデザイン、たとえば社会システムのデザインも結局はある選択肢の中から他のすべてを捨てて、ただ一つの解を選びとることだ。創造と呼ばれている行為は、そういうことなんだと思う。絵画にしても音楽にしても行為としては同じだ。

もう一段、行為の階段を下りてみる。

a. 選択肢の群、つまり解となる可能性のあるものを列挙すること。
b. 選択の基準を、決めること。

a. は、つまりアイデアを出すこと。
b. は、つまりデザインコンセプトを決めること。

この二つが決まって、はじめてデザインという選択行為が完結できる。
注意したいのは、a. と b. は、この順序で起こるということ。この順序性は創造にとって肝要なポイントであると私は思う。
普通に考えると、選択基準があって選択肢を絞っていくのが自然な流れであるように思える。しかしデザインコンセプトは、デザインの条件ではなくデザインの結果である。多くのアイデアから可能性のあるものを抽出する過程で得られた抽象的な概念がデザインコンセプトである。はじめにデザインコンセプトが提示されてそれにそってアイデアを出していくのは、話が逆である。実際にはそのように進めるよう指示されることも多々あるのだが、その場合でも、出したアイデアがよいアイデア群であるほど、そのアイデアはデザインコンセプトをより生き生きと再定義しているはずである。
(101129)

2010年11月27日土曜日

デザイン思考

先日(101125)、HCD-net(*)が主催するサロンに出る。題は「デザイン思考とHCD」。
自分ももう30年もデザインをしてきたが、デザイン思考(Design Thinking)という考え方は、確かにあるように思う。そしてその思考方法が、いわゆるデザイン以外のいろいろな方面でも有効であると思っている。しかしもし「それは具体的にどういう考え方?」と聞かれたら、うまく答えられない。
発表者の田村さん、佐々木さん、山崎さん、三者三様に、デザイン思考のいろいろな側面を率直に語られていたが、デザイン思考が具体的にどんなものかは、最終的にははっきりと提示されなかった。私はそのなんとなくゆるい終わり方はよかったな、と思った。もしも、誰かがデザイン思考とは、ああしてこうしてああすることなんですよ、などとまとめたら、さぞがっかりしたと思う。がっかりというか、それは違うんじゃない、ときっと思っただろう。
私は、前にも言ったかも知れないけど、こんな風に考えている。たとえば工学は問題解決とものを作り上げていくということにおいてデザインと近いところにある領域であるけれど、その基本的な考え方は、正しいと立証されたことだけを使って、論理的に正しいやり方で、それを積み上げていく。だから再現性があるし、誰がやってもうまくいく。そうでなければ工学とはいえない。しかし、ものを実際に作りあげる現場では、すべて立証されたことだけを使って組み立てられない局面がたくさんある。たとえば自動車メーカーは、同じ日本という市場に対して各社各様の最適解としての新車をリリースしている。もしもすべてがわかっているのなら、どの自動車メーカーが作っても同じものにならなきゃおかしいでしょ。たとえば、マーケットも消費者も、ぜんぜん確実なものではない、そもそも消費者というくくり方が正しいのかもよくはわからない。そう考えたら、本当にわからないものの上にわからないものを重ねていくことによってしか、ほとんどのものは作れない。別に市場を持ち出さなくて、たとえば宇宙に送るロケットだって、つくる国が違えば、違う考え方のロケットになる。
この、よくわからない条件と問題に対して、とにかくあがきながらも解を求める行為を私は「デザイン」と呼ぶのではないかと思っている。だから「デザイン思考」といわれても、その内容はよくわからない。少なくともスッキリと明快に語ることはできない。もしも、ある一つのデザイン要素、たとえば自動車の「最適な配色」を決める方程式が導けたとする。そのときに、その方程式に具体的な値を入れて、来年の新車の「正解」の配色を決める、という行為を私はデザインとは呼ばないだろうということ。誰がやってもポンと正しい答えが出せる仕事をしている人は、デザイナーではなく、単なる「ボタンを押す係の人」にすぎない。違う?
だから正確にはデザイン(=デザイン思考をすること)は、よくわからないことをする、のではなくて、よくわからないことをすることを、デザインと呼んでいる、ということなんだと思う。

案内にあった『米IDEOの提唱する「デザイン思考(Design Thinking)」...これはもともとHCDプロセスを基礎として...』というのは、誤解を招きそうなフレーズだと思った。IDEDが確かに書物で言及したかも知れないけれど、デザイン思考という言葉も概念もずっと昔から存在したと思う。デザイン思考の中でも特に「IDEOが提唱するデザイン思考」というものは、あるかもしれないが、デザイン思考という概念をIDEOが発明したわけではない。同様に、HCDプロセスが存在するはるか以前からデザイン思考という概念はあったので、HCDプロセスを基礎としてはいないと思う。
それともサロンでは「IDEOの提唱するデザイン思考」についてだけ、語られていたってことだろうか???
* HCDは、Human Centered Designの略で、HCD-netはそれを推進するNPO法人。(http://www.hcdnet.org/)
(101127)

2010年11月10日水曜日

認識と世界

世界を変えること。
自分が変われば世界が変わる。世界とは自分が認識するところのものだから。


自分を変えること。
自分の性格や性質を変えるのはむずかしい。自分の認識を変えること。
自分について、他者について、世界と現象について。

人は一人では生きられないということの意味。
他者がいないと自分を認識できない。
他者という鏡に映すほかに自分を見る方法がない、ということ。
(101101)

正しい vs. おもしろい

先日デザインの研究会で、S先生のフリップにあった言葉。
技術は「知識」を対象としている。そこでは「正しい」ことを「説明」することが求められる。それに対してデザインは「実世界」を対象とする。そこでは「おもしろい」ことが「表現」されなければならない。
私はこれまで「正しさ」に惹かれてきたけれど、それはきっと「おもしろい」に結びついていたからだったのだろう。(これはよく考えると同語反復ですね。「惹かれていた」時点で、「おもしろい」が確定しているのだから。)
それではもしも、おもしろくない正しさがあるとしたら? そんなもの意味ないじゃん、と思う。(またしても同語反復だ。だって、意味ない=おもしろくない、といってもいいでしょう?)
とにかく、今さらだけど、正しいよりもおもしろいを上位において生きていきたいと思うわけだ。これは私がデザイナーだからそうしたい、ということではなくて、それが自然と思う自分だからこそ、デザインを選んだのだ、ということ。
(101110)

2010年11月6日土曜日

デザインプロジェクト

今、関わっているのデザインプロジェクト。
デザイナーも開発者も経営者も企画者も、その立場として、そして個人として、各自のシステム体験(それは作り手としての体験も使い手としての体験も含んだもの)に基づいて発言し議論をする。各自の体験は、時に失敗体験であり時に成功体験である。もちろん自分の体験で述べてはいるが、皆の頭の中にあるのは、使用者一般の人のことだ。それからもっとも幸いなことは、「世間で言われていること」を述べる人は一人もいないことだ。
失敗体験とは、自分として理解不能だった概念、勘違いを引き起こされた表現、何度も繰り返してしまった操作ミスなど。成功体験とは、自分が出会った使いやすさに感激したシステムや、自分が発見した理解のルール、苦労の末たどり着いた自分としての結論、自分が創出して成功したアイデアなど。それやこれやを頭の中に抱えて、みんな議論に臨んでいる。
こういった議論は多くの場合収拾がつかず、会議は果てしなく深夜まで続く。そしてたいていの場合、体力の限界、声の大きさ、地位の高さ、そういったものに結論をゆだねることになる。そして何故か、専門家=デザイナーの見識に任されるということは少ない。
そして残念ながら、そうやって体力や声の大きさや地位などにゆだねられた結果が、よい結論である確率は多くても半分には満たないだろう。
だったら、そんな議論はやめるべきだろうか?
そういうプロセスを両手を挙げて賛成しないが、私には新しいものを産むためには、ある程度しかながないと思える。そういうことは疲れるし不毛だからという理由で、結論をユーザビリティ評価などに委ねてはならない。客観評価というと聞こえはいいが、それは誰も責任を問えないものに、結論を委ねることではないか。そういった評価をするなとは言わないが、実際問題として議論の参考にできるような結論を導ける評価を行うことは、議論をする以上にむずかしいと私は思う。またユーザビリティ評価の危ない点は、議論を停留させ思考停止を引き起こす。客観性の衣をまとったユーザビリティ評価は、それが本当に持っている意味以上の力(権力)に、容易になりやすいということ。その結果に誰も反論できない。だって反論したり問いただす相手は、客観性の雲の中に消え失せているから。気をつけないと与えられた客観性は、場所ふさぎのでくの坊になる。そういった評価の先には、創造的な製品はあり得ないと思う。
私たちがとりあえずしなければならないのは、議論の精度とスキルをあげることではないかと思う。
もう少し時間をもらえれば、智慧も勇気も出てくるでしょう。
(101029)

デザインを学ぶ学生たちに

今、あなたたちは山登りの練習を終えて、デザインという山の登山口に立っている。これから向かう峰や高原、森の中の湖や、立ちはだかる壁、風わたる草原や落ちそうな尾根に、出会うだろう。雨の日も晴れの日も、雪の日も風の日もある。
今、大きな山脈を越えてきた私は、君たちに手を振って声をかける。山はすばらしかったと。夕日の山肌も、朝焼けの雲海も、吹雪の中に見えた山小屋も降るような星達も。私はこれから別のルートで、もう一度、頂をめざしたいと思う。
(101029)

今考えるべきこと

メディアも政治も日本は貧困(プア)であるとは思う。
いやそれでも日本は安全だし世界に誇れる国なんだよ、いやそれはもはや幻想に過ぎない...どちらの議論もまっとうだ。
何故プアなのか、どうしていつまでもそこにとどまっているのか、自分にはよくわかるような気がする。なぜなら自分は日本に似ているから。
つまり、たった今、何を考えるべきか、という視点が欠如しているのだ。日本全体、そして私自身、いったい今、何を考えたらいいのか、指し示すことができない。だから何をしようが、何を言おうが、「...ということもあるんだけどさ...」という語尾になってしまう。
今考えるのは、エコの話なのか、世界平和のことなのか、人の欲望についてなのか、それとも愛のことか、倫理のことか、科学のことか、快楽のことか、芸術のことか、デザインのことか、正義のことなのか。
そう思うのは、自分がだけがただ単に見えていないだけなのか。
そんなわけで、日本を糾弾することも擁護することも、今の自分にはできない。

ただ、そのことを背負っていること、それでも自分を愛する程度の愛がそこにあることを思っていたい。
いや、これは日本についてだけの話ではない。人間に対しての話なんだ。
(101025)

豊かさ?

これは昨日の朝に瞬間に感じたイメージなので、今はもう他人のことのように語るしかないのだけれど、それはこんなこと。
いろいろなことがうまくできなくなったり、わかっていたと思っていたこともなんとなくモヤモヤとしてきたりする。でもそんな中でときおり、当たり前のことの中に今まで考えたこともなかったような面が見えてきたりもする。それは気づかなかった人生のなんというか味のようなもの。
たぶんそれは、何かを失うことによってしか得られないような何か。たとえば、しみじみと浸るようなあたたかい悲しみとか、あるいは望んでもかなえられない願いを胸に抱えて生きる寂しさとすがすがしさのようなもの。
そういった体を吹き抜けるような寂寥感や焦燥感、はたしてそういったもののない人生が豊かと言えるのかどうか?

自分がデザインするものの中に、そのような深みというか味のようなものがにじみ出たらいいのだけれど。特に人が作って、使うソフトウェアやシステムは完璧なものたり得ない。であれば、不完全さは「完全でない」という以上の、何らかの綾になってもいいのではないか。
いや私個人の名前がでるとか、そういうことではなく、プロダクト、特にソフトウェアにはそういう人間の味が「乗って」いていいと思うのだけれど。感傷的すぎるだろうか。
(101023)

観念の幻または逃げ水

想いをもって語られた言葉は聴かれなければならない。人が生きることの目的の一つは、想いがのった人のことばを聞くことではないのか。憎むべきは想いとは無縁で語られたことば。

今自分の頭の目の前に、「想い」ということが意味する観念の全体イメージがはっきりと細部までが見えている。それは生まれてから今までの体験が凝縮されたものとも言えるし、今ここにまったく新しく創出したものともいえる。
それは細部を備えた完全なるイメージだ。だから結局それはないともあるともいえるものだ。
でも、確かにわかっていることは、このイメージはすぐにでも手のひらの上の雪のように、消えてしまうこと。
(101022)

道具と機能の関係

われわれは、ある道具を作るときに、つい「機能」を盛り込もうと考えがちだが、本来機能は一つ二つと数え上げて、道具に「付与する」ようなものではなく、使う人が自然と道具の中に見いだすものだったのだと思う。
われわれデザイナーにできることは、使用者が自ら用を見いだせるように、デザイン実体をしつらえることではないか。なんだかうまく考えていることを表現できていないように感じるが、要はあまり作り手側が、機能を固定的に考えすぎないように、ということ。
製品のカタログの最後のページを飾る「機能表」を見比べるような競争から、デザイナーは一歩、身を引いていなければならない。(機能表を見比べるのは楽しいことではあっても。)作り手側が考えもしないような思わぬ使い方を使い手がするなら、その製品は成功であって、もし想定された使い方でしか使われないとしたなら、その製品は失敗なのだと考えたい。
(100725)

モノづくり

最近いくつかのプロダクトに関わっていて、ある共通したパターンに遭遇している。それはデザイナーとプログラマの感覚の相違から来るものだ。それもかなりお互いの行為の深いところから発している根本的な違いのようだ。
私自身はいくつかのプログラムを自分で書いてきたが、基本はデザイナーという人間である。でもこのことに関しては、デザインはもっと強くプログラマに伝える必要があるし、プログラマはそれがどういう意味を持つのか「まじめに」深く考えるべきことである、と思う。

いくつかのプロダクトは、どれも今までのシステムの概念を打ち破ろうとする実験的、野心的なものだ。その立ち上げにデザイナーとして参画できていることは、画期的なことだと思うし、それだけにいい意味での気負いもあった。
これらのシステムは、いずれも使用者がそれを使って何か生み出したり発見できるような、ある種のクリエーティブなツールだ。
プログラマもデザイナーもどちらもものづくりに関わる仕事であるが、プログラマのそれは、集中的集約的なものだ。プログラムという成果物は、その他の人工物に比べて、高度に整合性を問われるものである。その中では何がどのようにできるのかを「一切を余すところなく」「一分の破綻もない」ように記述しなければならない。そのために、すべての関係する変数やデータ構造、ルーチンを頭の中に置いてコードを書き進めねばならない。だからプログラマがコードを書いている時には、まわりは一言たりとも話しかけてはならない。プログラムに集中できて「乗ってきた」ときは、自分が描く世界のすべてをコントロールできているような絶対的な支配感と高揚感がある。それは根源的な快楽を伴うといっても過言でない。ランナーズハイという言葉があるが、まさしくそういった状態で、エンドルフィンがおおいに分泌されていると思う。たとえばプログラマが彼らの道具であるテキストエディタに強いこだわりを見せるのは、手と頭を直結した一体感が思考を研ぎ澄まし続け、このハイ状態をいかに継続できるかに大いに関係しているからだ。
それに対してデザイナーの仕事は、包括的全体的、またあるときは発散的であるといえる。そして同じように全体性を大切にするものである。プログラムと違う種類のやはり整合性や緻密さが鍵になる。デザインにも課せられている条件や仕様はあるがそれは曖昧であり、条件と言うより希望あるいは方向性というレベルでしかない。したがってデザインは仕様が与えられたとしても、それをまず疑って、本当に何が求められているのかを類推あるいは創造することから始めなくてはならない。
(100724)

2010年10月20日水曜日

言語学について

コンピュータと人との対話のためのインタラクション言語は、言語学のサブカテゴリと捉えることは可能なのだろうか?
言語は私たちの思考方法そのものを規定するものである。言語学はそのことも含めて、言語の成り立ちや構造を「解明」することが目的である。言語学にとって、それらが何らかの形で理解できて、他の者に説明することができれば目的を果たしたことになる。もちろん言語は生き物であるので、解明に終わりはないのだけれど。
しかし私たちのインタラクションデザインという行為の目的は、コンピュータと人とがうまく意志疎通(コミュニケート)できることであり、うまくコミュニケートできる言語の構成や形式を創り出すことである。言語学の中では、よりよい言語を生み出すための方法論は論じられているのだろうか。「言語設計学」といったサブ分野はあるのだろうか。そこではいろいろな言語の「性能」といった視点が論じられることはあるのだろうか。
※ここにも分析と統合の違いが見える。
(101020)

2010年10月19日火曜日

俯瞰すること

知人の家で飼い始めたシェルティーの小太郎は、散歩デビューに失敗したそうだ。いつも二階のベランダから外を見ているのに、抱かれて表に出て地面に降ろされた途端に固まってしまい一歩も動けなくなってしまった。
これは人間である私の勝手な想像だけれども、彼とて二階のベランダから眺める世界と、自分がそこに立った世界を違うものと考えたわけではないだろう。ただ、いざその場に立ったら、新しい足下の世界を自分の中にどう位置づけたらいいのかわからなくなって、混乱してしまったのだろうと思う。
前に10階以上の高層マンションに、生まれてから10歳過ぎまで過ごすと、人格形成上の問題が生じるといったことを聞いたことがある。(数字や細かい話はまったく定かでない。) マンションの階上から俯瞰する図面的な世界、それは現実世界の写像である。しかしその写像の瞬間に、はげ落ちてしまった微少な部分に何か大切なものが、潜んでいたんじゃないだろうか。
私たちは、デザイン活動の中で「俯瞰」する視点の大切さを幾度となく話してきた。しかしそれはあくまで、そこに立って実際に世界を生きてきた人を前提にした言い方だったのだと思う。世界を生きる前に、地図を得ることは安全ではあるかも知れないけれど、体験という大切なものの純度を損なうことも意味しているようだ。
(101019)

2010年9月23日木曜日

ダブルミーニング

ひとつの言葉が複数の意味を持つ、
ひとつの料理が複数の味を持つ、
ひとつの作品が複数の価値を表す、
ひとつの人生が複数の大切なものを持つ
複数の価値が和音のように響き合う
複数の楽器の音色がよりそい、反発し合う交響楽
芸術や人の営みの味とはそういうものではないか。
(100923)

2010年9月22日水曜日

想像力と現実に起こること

検事の何某がFDの証拠を捏造して、無辜の人を陥れようとした事件。あいた口がふさがらない。
わたしにとってこの事件は、こんなチャチな考え方をするチャチな人間が良識の最後衛(宗教なき人にとっては、自分の良心以外での正義の実質的なうしろだて)に「居うる」という事実の「再」確認を迫った。
自分はこういうことが「起こりうること」を識っていたと思う。しかし識っていたことを忘れていた。
どんなに卑劣な犯罪も汚辱にみちた行為も、それが頭で想像できる範囲であるかぎり、それは起こりうるということは、必然であって、驚くべきことではないと思う。もちろん、本当に気高く自己犠牲的な無私な行為についても同じことだ。
人間の想像力の振れ幅は右から左へ非常に大きい。想像を絶するなんてことなんてほとんどないといってよい。(あるとすれば、それは想像力が不足しているのではないか。)
そして人は想像したことを、物理的に不可能でないかぎり実行に移す。60億を超す人口がいるのだから、それはかなりの高確率で起こる。だからこそ、そういったことを前提としてシステムは考えるべきであると思うのである。
(100922)

2010年9月20日月曜日

上には上がある

山に登ると頂上に見える頂がある。そこに到達すると、実際には頂上ではなくそこは単なるコブに過ぎないことがわかる。そして遙か上に本当の頂上と見える頂がある。しかしそこにたどり着くと、それもやはり通過点でしかない。それでも登山の場合はいつしか頂上にたどり着く。
それに比べると人の生き方の行程においては頂上というのはない。それにそもそも別に頂上なんて目指さなくてもよい。ひたすら下ってもよいし、途中で見つけた美しい湖のほとりに骨を埋めてもよい。
しかしそれ故に、頂上を目指す行為もまた崇高なものだ。(自分としてはただそういった事情を知っていたいと思う。)
(100920)

2010年9月18日土曜日

アートとデザイン

「情報デザイン入門」(渡辺保史)ずっと前に買ってあって、会社の本棚に置き去りにされていた。冒頭の情報デザインの整理は普通の人にもすごくわかりやすくまとまっているなと思った。また情報デザインは、どういった分野にも、そして誰にでも必要なものだという主張は強く同意できる。
しかし中盤以降に紹介されている内容は、私にとってはデザインというよりアートの作例のように思えた。「情報アート」という言葉はないと思うけど、それらの活動は私にとってはデザインとは呼びにくいものばかりだった。
チャンスがあれば、ぜひ筆者にデザインとアートに対する思いを聞いてみたい。
(1)デザインとアートの違いをどうとらえているのか? 差異はあるのか?
(2)取り上げている作品をデザインと呼んだ理由は?(なぜアートと呼ばなかったのか)(あ、「情報デザインの本」だからですかね?)

というか、私自身がアートとデザインの線引きを示す方が先だね。
微妙な作例はあると思うけど、自分としてはかなりはっきりとしているつもりなのだけど...。
いずれそのことは書かなければならない。
(100918)

2010年9月14日火曜日

アフォーダンス

D.A.ノーマンが「誰のためのデザイン」でアフォーダンスを取り上げて久しい。当初インターフェースデザイン、あるいはデザインを読み解くすばらしい鍵のように思われた。しかし今あらためて考えてみると、それによって直接にデザインの問題が解決したわけではなかった、と私は思う。
自然物にせよ人工物にせよ、そこに存在するモノが人間に向けて(動物に向けて? 何らかの認識体に向けて?)何かのメッセージを発していると考えることは、可能であるとは思う。それによって話がわかりやすくなっているかも知れない。しかし、そう捉えることによって、いったい何が見えてくるのかよくわからなくなった。
そのドアの取っ手が引くように見えることの要因は、モノ側にあるのではなくやはりそれを見る人間側にあるのである。そしてその形が引くように見えること自体に普遍性はないと思う。つまりこういう形は絶対的に引く形であるということでなく、特定の時代や文化を背景として、そのように捉えられる、ということだ。ところ変われば品変わる。
事実を単純にいうなら「今の多くの使い手にとって、この形状は、引くモノと見られる傾向にある」ということにすぎない。もちろんデザイナーは、その形の見えが引くモノと捉えられることを、知っていなければならない。というか考え深い、というか普通のデザイナーはそのことも、そしてそれ以上のことも知っているし、知っていた。もっと言えば、そのことに心血を注いでいた。その中で時に失敗作はあるだろうし、制度として正しい方向付けができなかったデザインもあるだろう。だからといって、心理学者が解き明かす前には、デザイナーがそういったことを知らなかったかのように語ることは、ふー、許し難いと思う。大雑把にいってデザイナーとは、まさしくそういうことをやってきた職業なのだ。
(どうもノーマンのことになると、エキサイトしてしまっていけないですね。)
もう一度ギブソンをしっかり読まなければならない? もう読まなくてもいいかな?
(100914)

2010年9月11日土曜日

9.11

私自身は、どちらかというと偽善者だと思うが、偽善者をはげしく糾弾する態度も、また自ら名乗る偽悪者も、基本的には角を一回だけ曲がっただけの偽善者に過ぎないと思うのである。
善を説くことも善を糾弾することも、非論理性を内包せざるを得ない、と直感的に思う。つまり、言葉で善を語るべきではない、ということだろうか。
(100911)

2010年9月9日木曜日

プロダクトデザインの資格認定

プロダクトデザインの資格認定の動き。JIDA。
デザインに関する資格認定について。私には何となく自身の資質を放棄しているように感じる。
確かに日本においてデザインの地位(フィーも)がなかなか高まらない、という現状はある。こんなに意味も価値もある活動なのに、あまりに本当の意義が理解されていないと私も強く思う。だからといって「資格認定」というお墨付きの形で、その意義を説明抜きで納得させようというのは、結局自身の首を絞めることにならないだろうか?
本質的な問題は、デザインの意義が「理解されていない」ということにあるのだと思う。デザイン文化の本質的な尺度は、そこに住む人々がある一定の水準でデザインを理解しているということなのだと思う。
デザインの意義や評価に関する日本での一般の人達の状態は、一言で言えば思考停止、判断停止ということなのだろうと思う。決して意味がないとか価値がないと断定的に考えているわけではない。少しは考えては見たけど結局よくわからない。人の話を聞いたり本を読んでも答えがまちまちで本質的なことがみえない。じゃ、とりあえず考えるのを止めて、100円ショップで買った茶碗でお茶でも飲むか、と...。
こういった事態に対して「理解されること」に優先して、とにかくお墨付きなんだから、これはいいものなんだ、という思考停止をさらに助長する形で解決を図るのは、最終的に事態をさらに複雑にして悪化させることになると思う。仮にそれがうまくいって、よいデザインはそういう過程を経なければできないのだからお金もかかって当然だ、となってデザイナーが多少裕福になったとしても、結局デザインの真の理解が貧しいままでは、デザインが泣いちゃうよね。
じゃあ、どうするか。理解されるように不断の努力や説得を繰り返すしかないのではないですか。そのことにイライラせず、長期的な視点で訴え続けるしかないでしょう。
お墨付き(=権威)は、ある意味でもっとも反デザイン的なものではないかと思いますが、どうでしょうか。

2010年9月5日日曜日

デザインの採点

今朝おき際のベッドで、T美大のデザインの採点方法について考えた。
こういう方法はどうか。 取り組みの深さとか、作品の完成度の高さとか、デザインが本当にわかっているかとか、授業で伸びたかどうかとか、人柄とか、出席率とか、いろいろあるけど、私(教師)がクライアントあるいは上司だったらどう満足したか、を基準とすること。次の機会にもその人にデザインを頼みたいかどうか。
会議(授業)に半分も出てこないようなデザイナーには作品がよくても強い不信感を感じる。(「もうお前には頼まん!」)自分のデザインの受け手が、不信感を抱く可能性がある、ということに想像力を働かせるべきである。それはデザイナーとして必要な技能だ。
もちろん嫌でも頼まざるを得ないほどの作品レベルなら、しかたなしに次にも頼むかも知れないけど。しかしもし自分の作品にそこまで自信があるなら、もう学校なんて来なくてもいいよな、と思う。
来年は、そのように事前に伝えようと思う。
(100905)

理解することと判断すること

理解することと判断すること、それらはもちろんリンクしているのだが、基本的には別の種類のことだと思う。判断は一つの個別の能力だ。
よく判断するためにはよく理解していなければならない、というのは大まかには正しい、「かも」知れないが、理解しているから判断できるかというとそうでもない。また理解は判断の必要条件とも一概にいえない。つまり、理解していなくても判断は可能だとも思うのだ。(もちろん、判断できているのだからそれはそれで、それもある種の理解なのだ、というくくりかたも私は認める。それは知識フレーミングの問題。)
現象的にとらえた方がすっきりするのかな。人が何かを理解しているかどうかは、その人の自覚に関わることだ。だから端から「彼が理解しているかどうか」を言うことはできない。ある人の判断が行動につながったとき、それを見た人がその行動=現象に適切さを感じれば、「ああ、あの人は本当に理解しているんだな」と思う、とそういうことだ。しかし、それと本人がわかっている、と思っていることは別のことだ、と言いたいのである。
(100905)

理解のカタチ

理解のカタチが一つであるかのように語る、考える、あるいはそう書かれているもの、そう発言する人には細心の注意を払うべきだ。たとえば「文字ではなく、絵にすれば誰でもわかるようになるんですよ!」というような。
それが間違えているという意味ではなく、そうでない理解のカタチが必ずあるということを絶対に頭から外してはならない。たとえば、文字ではなく絵で表現することは本質的に重要なことであるのだけれど、文章的に理解したい場合や人は必ずある。
それから、「理解しやすさ」というものが一つの尺度で測れない、つまり一次の数直線にプロットできない、ということも重要である。ワールドカップで得点王を決めることは簡単だが、MVP(最優秀選手)を決めるのは簡単ではない。評価者の意見も割れるだろうし、納得のいかない評価員もいることと想像できる。
(100905)

2010年8月16日月曜日

シンクロニシティ

自分の状態と自分が認識する外界の状況はシンクロする。
自分が何もかも不明の中にいるように思うとき、社会もまた不明の中にいるように感じる。
自分があらゆる物に愛を感じるとき、いろいろなものが愛に輝いて見える。
はやり言葉と同じように、ある感覚が開くと、その感覚にフィットする周囲の状況や事象が、自動的にフォーカスされるようになる。それでそのような事柄が身の回りにあふれているように感じる。そういうことだ、たぶん。
(100816)

2010年8月14日土曜日

デザインの二つのアプローチ

デザインには二つのアプローチがある。一つは、あるもの(デザイン対象)の構造や、製法にかかわる設計の局面。いかに効率よくそれを作ることができるか、どうすればロバストになるか。つまりそれをどう作るかを問うている。
もう一つは、あるものが現象としてどのようにヒトの眼や耳に映るか、にかかわる設計の局面。人にとって、それがどういう意味や価値を持つようになるのか、を問う視線。これはつまり、何を作るべきかを問うている。
前者のHow toが工学が目指しているデザイン(設計)であり、後者のWhatが、狭い意味のデザインが目指すデザイン(設計)なのではないだろうか。
今起きている工学とデザインの歩み寄りとは、HowとWhatを結びつける試みと捉えることができる。つまり、これは本当の意味での一つのデザインという行為の完成に向けての道程なのだと考えたい。
(100814)

2010年8月13日金曜日

思い込み

「こんなに私には自明のことなのだから、それは正しいにちがいない。それ以外の解ややり方があるはずがない。」と、思うこと、そこから逃れるのは、何人といえど容易でない。どんな高名な科学者や宗教家さえも。それは一面の真実をついているとはいえ、自分の場合は特に後で考えると単なる思い込みか勘違いであることが多い。
しかしまた、そういった客観的にはやや怪しい、本人にとっては確信に満ちた言明が、歴史を作り、思想を開き、ある時は科学的な大発見を導くことも紛れのない事実だ。
(100813)

2010年8月10日火曜日

納得と共感のデザインにむけて

正確で客観的な実証や論考を待たずに、積極的に納得と共感をベースに判断をし、モノづくりに当たること。
(100810)

2010年7月25日日曜日

道具と機能の関係

われわれは、ある道具を作るときに、つい「機能」を盛り込もうと考えがちだが、本来機能は一つ二つと数え上げて、道具に「付与する」ようなものではなく、使う人が自然と道具の中に見いだすものだったのだと思う。
われわれデザイナーにできることは、使用者が自ら用を見いだせるように、デザイン実態をしつらえることではないか。なんだかうまく考えていることを表現できていないように感じるが、要はあまり作り手側が、機能を固定的に考えすぎないように、ということ。
マーケットに流布している製品のカタログの最後のページを飾る「機能表」を見比べるような競争から、デザイナーは一歩、身を引いていなければならない。作り手側が考えもしないような思わぬ使い方を使い手がするなら、その製品は成功であって、もし想定された使い方でしか使われないとしたなら、その製品は失敗なのであろう。
(100725)

2010年7月11日日曜日

統合的な理解

分析(Analysis)と統合(Synthesis)という分け方ある。自然科学を母体とする工学では分析が重んじられるが、工学の目的が物づくりに置かれるならば、統合に関するスタンスを明快に確立することが必要であると思われる。
分析は現存しているさまざま事象を知るため、理解するために行う行為であると考えられる。これに対して統合は、何かを作り出すことである。これは大筋では了解できることではあるが、分析=理解、統合=作り出すこと、と簡単にまとめるべきではない、とも思う。
ここでは「統合的な理解」(Synthetic Understanding)ということを考えてみたい。理解するためにも統合という観点は必要だ。必要どころか、それがなければ本当の「理解」とはいえないのではないかと思う。分析、つまり小さく切り刻んでなんとか了解できる単位にした後、それらを完全でないかもしれないが統合を試みる。その統合が正しいと思えるとき、はじめて一段上のレベルでの理解が得られたことになるのではないか。
物事を深く理解している人が持っている智慧、知識とは、分析的な部分の知の集合を超えたものだと思う。ゲシュタルト心理学でいう、部分の集合が全体ではない、ことの裏返しで、真の理解とは全体をそのままに理解しているということで、それは部分の理解の集合ではない。

デザインが統合に関わっている、という意味は、デザインとは何かを創り出すことであるということと同時に、デザインの方法は統合的な理解を目指し、指向しているのだと、私は思う。


ところで、フランスパンを手で食べやすい大きさにちぎって食べますよね。すると大量にパンくずが出ます。でもフランスパンの一番美味しいところって、その「くずであった部分」なんじゃないでしょうか。もちろん、くずになってしまってからでは、それはそれほど美味しくはないのだけれど。(そんなわけで、行儀が悪くても、直接パンにかじりついてしまったりする。)
そういうものじゃないでしょうか?
(100711)

新しいデザイン学の構想

先週デザイン学会があったが、その中で新しい「デザイン学」のアプローチが提示された。それはデザインの内的な進展というより、それまでデザインと直接に関係を持たなかった工学など分野との学際を目差しているものと、私は捉えた。とりあえず自分としてはこの活動を支持したいと思っている。
 デザインと工学は物を作るという現場を共有しているにもかかわらず、これまではあまりその関係性を正面から取り上げては来なかったように感じる。自分の知るかぎりでは、一部の先端の工学者が先験的にデザインの本質的な意味と融合の必要性を説いてはいたが、実質的な学際は存在しなかったのではないかと思う。
今回のデザイン学へのアプローチは、そういうことを目指しているのだと私は理解した。

 自分なりの理解としては、次のような流れになっている。
まず、工学は自然科学を基礎としている。そして自然科学の方法論の基本は事象の分析(Analysis)にある。したがって工学もそのもっとも深いところで「分析」を活動の基礎においている。少なくとも自分にはそのように見える。ちなみに自然科学の母は数学であり、数学の母は論理学ということになるのであろう。したがって工学における物づくりとは、分析に基づく効率性の高い無駄のない機能性あるいはタスク遂行の実現ということになるのだと思う。(たぶんこれは簡単すぎる解釈で、実際にはもっといろいろな立場があることだと思う、ということで先に進める。)
 デザインは芸術を基礎としている。(、と述べたいところだが、デザインに身を浸す人間としては、それは一面的なとらえ方だが、と一言いいおいてまた話しを先に進めてしまう。)芸術の本尊は、ものを作る、あるいは何かを表現するということである。これを分析に対比させて統合(Synthesis)と呼んでいる。ここでの作られ方、表現の根本にあるのは、作られたものを見たり受け取ったりする側の「人間」としての「受取り」である。(ここは我ながら重要な指摘であると思う。)
 21世紀初頭の現代における物づくりは、たとえば仕事のための道具のようなものであっても、効率性と機能性だけでは語れないところに来ている。特に昨今のコンピュータ関連の道具達は、道具のありかた自体が人間に近づいている。象徴的な意味ではロボットはもちろんそうだし、ソフトウェアあるいはネットワークという巨大な知的構造物は、ものを持ち上げたり運んだりする力仕事ではなく、人間の知性や感性の部分に直接的にタッチしてくるものである。
 これらの前提を並べれた上で見えてくることに多言を要しないと思うが、デザインと工学を「融合」(あるいは「統合」、いずれにしても表現としては適切でない気が多々するが)した、新しい「学」を構想することは必至のことであると思える。
 ここでデザインと工学以外の分野を排することを意図していない。私の意識が回らないだけで、もっと多くの分野も関係性があるのだと予感的に思う。

この言明の難点は、そういうことは昔から多く言われてきたし、行われても来たのである、という切り返しに対して、あまり説得力がないことである。ということで、さらに今までとはどう違うのかを、はっきりさせていかねばならない、と思う次第であるが、今はここまで。
(100711)

2010年7月8日木曜日

機能

思えばずっと昔から「機能」という言葉に、なんとなくざらついた感触、というか、いつも括弧付き(欧米人が両手の人差し指と中指を二回握りながら話すような)でしゃべっていたような気がする。日常でももちろん普通に使う言葉だし、嫌っているわけではないが、つねに距離をおいて自分の仲間ではないことを表明しつつ使ってきた。そして、その理由が今突然、何となくわかったような気がしている。
「機能」という言葉は、すでにそこに存在しているモノやコトに対して、その一部分を切り出し文節化して、その部分(物理的な部分である場合もある)に名付けたものである。そしてその分節化は、恣意的なもの、ないし慣習的なものであるように思える。しかし、そうやって切り刻んだ部分は、どこまでいっても部分でしかないのに、機能を網羅して語ることによって全体が語れるように錯覚してしまう傾向があるように思う。それが違和感の元になっている、ということだ。
(100708)

2010年7月6日火曜日

はやり言葉

言葉あるいは概念には次のような傾向があるように感じる。
個人的に、流行語やはやりの言い回しを使うことは好きではないしどちらかというと、意識的に避けている。しかしある言葉が流行ると、その言葉で表されるシーンや実態が増えるような錯覚におちいる。
たとえば、最近「だだもれ」という言葉が、一部で流行っている。何かが漏れっぱなしになってしまう状況を表す言葉だが、その言葉が使われ出すと、そう言って表現すべき状況が流行に乗ってくる。(先日、T大のメディア論のM先生が朝日新聞の中で使っているのには笑えた。)
これは、たぶんその状況を感じる感覚の回路が開かれて、さらに反応しやすくなるのだと思うが。
(100706)

2010年6月24日木曜日

あけたことのない扉

まだあけたことのないこの扉をあければ、
まだ飲んだことのないこの薬を飲めば、
まだ一度も話をしたことのないあの人と話をすれば、
まだ行ったことのないあの駅のホームに降りたなら、
いつも話しているあの人と、一度も話したことのない話をすれば、
まだ見たことのないあの湖のほとりで足を浸せば、
まだ人がその影すらも識らない星についたら、
この砂丘のむこうに広がっているだろう海がみえたら。
それを阻んでいるのは、自分の心なのだと私は知っている。
(100624)

2010年6月21日月曜日

バカボンのパパは天才なのだ

バカボンのパパは天才なのだ。あの歳で(って、いったい何歳なのか知らないが)「これでいいのだ」と言えるところが。歳を重ねると自然にこれでいいのだと言えるようになるものだと思っていたが、それは違っていたのだ。いろいろなことが逆にこれでいいのだ、と言えなくなってきたような気がする。昔よりも、様々なことの詳細がわかってきたとは言えると思うのだが、全体としてそれ故に言い切れなくなってきた。
もっともっと歳を重ねれば、道は開けるのでしょうか。まだまだ足りないんですね?
(100621)

その後の調査によると、バカボンのパパは41歳だそうです。
(110204)

2010年6月15日火曜日

考えよ!(学生に)

「考える」ことは、最重要な行為だ。考えないことがカッコイイだなんて、夢にも思わないこと。もっと、もっと、もっと考える必要があると思う。
「感じる」ことは、特にデザインにとっては大切なことだ。しかし感じるように「努力」することは、実はむずかしい。感じることは、いわば不随意筋の仕業なので、力んでみても感じるようになるとは限らない。しかし考えることはがんばれる。そして考え続けることによって、感じることの回路は開かれうる。体験をし、考えを重ねることによって、感じられるようになる。体験を決心するのは、考えることによってのみではないか?
「仕事」というものには、実は二つしかないのだ。つまり体を動かすか、頭を使うか。あるいは両方か。ここにある物を、実際に体を使って何とかしてあそこに運ぶか、あるいは何をいつどうやって運ぶのかを考えて運ぶことを「決める」か。
(100615)

2010年4月10日土曜日

使用者の成長

iPhone OS 4.0 は、マルチタスキングやフォルダを実現する。この進化はまっとうなものといえるが、今さらという感じもしないではない。その操作方法は、正直にいってあまりシンプルなものでも自明なものでもない。もっといえば納得がいかないというか、本当にこれがベストなの? っていう感じ。この操作方法が iPhone 誕生時に載っていたら、もしかするとここまで iPhone は、普通に受け入れられなかったような気もする。
結果的には、iPhone にはすでに世界中に多くの私を含む使用者が存在していて、少々複雑で奇異な作法に対する下準備ないし学習が完了しているので、おそらくこの受け入れは通過するものと思われる。すでにこのギャップより、マルチタスキングの効用が勝るところに使用者はもって行かれてしまっている。マルチタスキングというごちそうのおあずけ状態が、少々の困難な操作方法をも乗り越えてしまうパワーを蓄積させたといえるのかもしれない。これをはたして、使用者の成長と呼んでいいのだろうか? 少々複雑な気持ちだ。
ただ冷静に考えると、マルチタスキングもフォルダも、こういった小さな機器ではシンプルな操作とはなり得なかったのかもしれないとも思う。だからこういった進展をたどることが必然だった、という見方もできる。もしこういったことを見越して Apple がそういう戦略を採用したのだとしたら、これは恐るべきことだ。
がしかし、やっぱりそうではないのだろうな。なぜなら、はじめからマルチタスクなりフォルダに関する操作のことをとことん想定していたら、初代=現時点の操作作法をそもそも採用していなかっただろう。それらの高等なことはとりあえず置いといて、その時点で受け入れられアピールするシンプルな操作をとにかく実現したのだろう。それはそれで正しい判断であったと私は思うが、それがベストない感の理由でもある。
(100410)

2010年4月9日金曜日

以前と以後

iPhone OS 4.0 発表。あらためてスティーブン・ジョブズ凄いと思う。よく考えて見て、Apple I から一度も、そして一分もぶれていないことがわかる。iPhone そしてもちろん iPad も彼が提案しているのは、一貫してパーソナル・コンピューティングのあるべき姿なのだと思う。iPhone は、けっして賢い電話ではなく、まさしくコンピュータの一つのカタチなのだ。さらにここまできて、彼のこれまでの一つ一つの行動にほとんど無駄なものが含まれていないことにも驚く。NeXT も iPod も、すべて今現在の生きた製品につながっている。(ちなみに Newton は、スカリーの製品だし、いろいろなダメな Mac は、アメリオやスピンドラーの作だ。)
コンピュータが、ディスプレイとキーボードがついたものと、いったいいつ誰が決めたのか。スレート型のコンピュータは iPad がオリジナルではないが、かといって次なるトレンドを追ってあの形のものを出したわけではない。そもそもトレンドがどうとかマーケットがどうとか、そういう発想のプロダクトではないように思える。マーケッターやアナリストの中には、そういうレベルでしか見えていない人もいて、失敗だとか、うまくいくとか、予想している。もちろん結局は NeXT のように、失敗する可能性がゼロとは思わないが、だとしても長いコンピュータの開発史の中で、iPhone、iPad が、切り開いた新しいコンピューティングのカタチは、生きていくのだと思う。Macintosh に以前と以後があったように、iPhone、iPad にも以前と以後があるだろうと思う。こういうことを指してエポックメーキングというのだ。
(100409)

2010年4月1日木曜日

皿洗いの法則

「何かを考える」ということ、それはとても不思議な行為だと思う。たとえば、「今日ランチしながら大切な議論をしたなぁ、デザインという営みは、他の人間活動や社会活動の中でもとりわけ重要なものなのに、どうして世の中の多くの人にそのことが理解されないのだろう、ああいう事例も、こういう事例もあるし、...あっ、たとえばこんな言葉で表したら、それはうまく伝わるかも知れない、...いや、それだとこういう誤解をが生じるかもしれない、けれど...。」私が、考えているっていうのは、こんなふうなことだ。
何かを考えねばと思って、すべての雑事をかたづけて、机に座ってリラックスした状態で、いざ考えようとすると、雑念の風が吹き荒れる。(今のちょうど外で吹いている強い風のように)
私の場合、考え事にもっとも適しているのは、朝シャワーを浴びているときなのだが、他には皿洗いをしているときとか、打ち合わせ先から帰る電車の中で景色を眺めながらとか、歩いているときとか。つまり何かの、それほど重要ではないが、かといってまったく無為にしていいわけでもない用事をしながら、というのがいい。だから「歩く」というのも、散歩のようにどうでもいい歩きよりも、どこからかオフィスにもどる帰り道などがちょうどよい。往くときはだめ。そういう意味では、シャワーも何もすることのない日曜の午後にゆったり浴びるシャワーはだめで、ウィークデイの朝、時間の限られたシャワーがよい。それからどれも、もちろん一人でいることがもっとも重要だ。
私はこれを皿洗いの法則と呼んでいる。「私はそういう大切なことを、皿洗いしながら考えた。」
(100401)

2010年3月29日月曜日

技術の進化

ケイタイですら、かなりいい写真がとれるようになってきている。特にカメラの性能を上げるような、はっきりした進化は、本当に日本人は得意なので、そこそこのよい写真をとるのは、お金もかからず手間も技術も不要というすごい事態になっている。その結果何がおきるか?
写真や写真をとる行為自体にデフレが起きる。相対的に価値が希薄になり、最終的に人々はそれに飽きてしまう。こういうのは行きすぎた進化なんだろうか。
(100329)

2010年3月11日木曜日

機能と構造

私がデザイナーとしてデザインを語るとき、その対象として見ているのは人が作り出すもの全般についてである。人が作り出すもの全般を指す言葉に人工物(artifact)という言葉がある。私はそれを機能体と置き換えてみたい。(英語でなんというかはわからないが。)
機械であれ、広告のようなものであれ、洋服、自動車、ロケット、芸術、あるいは制度としての家や政治や国、どれも機能を持つ「機能体」であると言える。人工でない機能体もあるかもしれない。例えば本当の(?)自然公園とか。しかし自然公園の機能(例えば「癒し」)は、人間がすでに存在する自然の中で発見した(というか付与した?)のだから、準人工といってよいと思う。
芸術の機能は、...。うーむ、それはおそらく、自分たち自身を知るという鏡のような機能なのだろうと思う。
とにかく、人工物の存在理由はその機能性にあるといってよいと思う。何らかの「働き」をするためにそれは作られた。意図的の場合もあるだろうし、無意識的な場合もあるかもしれない。それでこれを、明確にいうために「機能体」と呼んではどうかということだ。
(機能のない人工物、というのはあるのだろうか? 今はないと思えるが...。)

機能は構造に宿る、というのは本当のことのように思える。私にはそれはリアルだ。
養老孟司は「心とは、脳の作用である。」と言った。脳自体はある種の構造体である。頭蓋を開ければ目に見て手で触れることができる。しかしその機能である「心」は、見えないし触れられない。しかしそれはそこに確かにある。
一般に、構造から機能を想像することは難しい。簡単な機械仕掛け(構造体)なら、それがどういう働きを持つもの(機能体)であるかはわかるかもしれないが、仕掛けがその機能すべてとは限らない。昔社会科の教科書に、考古品の鼎は(どう見ても入れ物ではあるのだが)、何に使ったのかよくわかっていない、と書いてあった。もちろん入れ物には違いないのだが、それだけでは説明できない文様や形状的な特徴があるという話であった(気がする)。ましてや、脳の構造をいくら仔細に観察しても、それが発揮する機能を言い当てることはとても難しい。私たちは、人間がどういう思考回路や行動基準をもっているかをある程度知っているので、それをもとに脳の働きと構造を結びつけることも可能だろうが、まったく異なる生体系の宇宙人が脳を見て、その機能を言い当てるのは難しいだろう、と想像できる。(宇宙人が「脳」に相当する器官を持っていれば、少しは想像しやすいだろうとは思う。)

話をもどして、私たちデザイナーが扱おうとするのは、まさしくこの機能体である。私たちは「ある働きをする何か」を作ろうとしている。人は決してこれこれの「構造体」を必要としているのではない。構造はどうであってもよい。
しかし、機能が構造に宿るものである以上、また機能を直接見たり触れたりできない(つまり直接作れない)以上、ある「働き」自体を想念すると同時に、さらにそれを実現できる構造を発見し、発明することをしなければならない。これはなんともアクロバティックな所業であるといわざるを得ない。

まとめて見よう。
a. 構造(体)は、見て触れられる実体である。
b. 機能(体)は、直接に見たり触れたりできない、虚体(?)である。
c. 機能は構造に宿る。(機能は構造に宿る、という形でしか存在し得ない。)(←要論考)
d. 人が欲するもの、必要とするものは、機能(性)である。(人は直接に構造を欲することはない。)(←要論考)

デザイナーがすべきことはかなりクリアになってきたかな。
1. 人の欲する、必要とする、機能(働き)を知ること
2. その機能を発揮すべき構造を見いだすこと

いや、しかしまだ困難は続く。
1-1. 人の欲する機能を知ることが、むずかしい

それが本当に人に欲っせられるかどうか、それを判断すること自体がまず困難である。機能は構造体を通してしかやってこないのだから、構造を示した上で「この構造体が発すると思われる機能を、あなたは欲しますか?」と問わなければならない。
そもそも欲しいもの(機能)は何なのかを探って、その構造を作り出そうという戦略なのに、構造を示さないと機能を語れないのでは、何もはじめることができない。


まぁまぁまぁ。しかし、そうはいってもそれが実相であるし、人はずーっと昔からこういう状況の中でいろいろなものを作ってきた。したがって、今さら何も悲観する必要はないのだろう。
こういった構造的な困難さの中で活路を見いだす行為こそ、私がデザインと呼んでいるもの作りなのだと思う。
(100311)

2010年3月6日土曜日

定性的と定量的

定性的にわかることと、定量的に知っていることがあると、なんとなく定量的であることの方が、価値が高いように一般的には感じられる。しかし、私は必ずしもそうは思わない。 定量的であることを重んじるのは、より詳細でよりきめ細やかに事実を捉えていると感じるからであろう。それはそれで一応は理解はできる、しかし。 定性的な認識は定量的なそれに先立つ。それぞれになしえたことの大きさをもし測るとするなら、ゼロと非ゼロ、非ゼロと具体的な数値の差を測ることにことになるのだろうが、前者のジャンプの方が偉大ではないか、と思う次第である。 とはいえ、そんなものを誰が比べるのだろうか? いや私としては、それが初めて「在る」ことを指摘した人の貢献度をきちんとたたえたいと思っているのだ。 (100306)

2010年3月1日月曜日

君はどう思うんだ?

電車の中でたぶん工学部生らしい大学生の会話。「今度のマシンは、あれがああでこれがこうなんだよ、すごいよな。」「でもクロック的にはこうなんじゃないの。結局は○○は××っていうぜ...。」なんだか、どれもどこかの雑誌かネットで出ているような情報ばっかり。つまり俺はこんなレアでディープな知識を知っているぞ競争。あるいはこういう判断がもっとも信憑性の高い優れた判断であることを俺は知っている、ということ。
私は工学部の出身で美大で教えているが、教えている学生にこういったパターンの会話はあまり聞かれないような気がする。
どうしてそうなるのか、考えたのだが、美大では最終的にはこう問われる。「...それで、君はいったいどう思うんだ?」と。
しかし普通、工学部ではそうは問われない。もし学生が「私はこう思うんです。」といったら、教授たちは「それは『君の』考えだろう。それは誰がどの論文でいっていることか。あるいは実験でそれを君はそれを証したのか?」というだろう。
私は、この教授と学生の発想のどちらか一方が正しいとは思わない。どっちもあるんだ。片方しかない、片方しか知らない、ということが問題だし、それこそが正しくない、というべきだろう。
(100301)

2010年2月27日土曜日

ハードなデザイン、ソフトなデザイン

ソフトなデザインとは、使い方からアプローチするデザイン。
ハードなデザインとは、作り方からアプローチすることと、おいてみよう。

ソフトウェアとハードウェアということとは、直接は関係しない。
これらのアプローチは、実際には相対的なものだ。ハードウェアとソフトウェアをしいて比べれば、その名の通りの位置づけになるかもしれないが、それぞれ中にもハード/ソフトはある。つまり南の街にも北の街にも、街の北側はあり南側もある、ということだ。

ハードウェアのデザインにおいて、そのものの使い手はどういう人で、使われる状況はどうであるか、と発想していくこととはソフトなデザインである。
それに対して、材質や設計方法からアプローチするのがハードなハードウェアのデザインアプローチである。あるいは競合機種やマーケット自体だけを見てデザインすることもこちらの範疇だといってよいと思う。
ハードなデザインを行うときにも、実際にはソフトな面をいっさい考えなければものはできない。スポーツカーがスポーツカーであるのは、スポーツ的に人が運転できること、といったソフト的な解釈が暗黙の前提にはある。
しかし、自動車を通したこんなスポーツの在り方もありうるのでは、と問うことはソフト的なアプローチである。もちろん、自動車そのもののソフトを問うことも可能だろう。

ソフトウェアにおいても、ハードなデザインはある。データ構造やアルゴリズムからアプローチすることはハードである。いわゆるユーザーインターフェースは、基本的にはソフトな面であるが、その中にすらハードよりの発想を指摘することができるかも知れない。人間も機械のように見なして、仕事の効率で効果を計ろうとすること。あるいは設計指針として守るべきことを10箇条のガイドラインとしてまとめて守らせようとするようなアプローチ。
ユーザーエクスペリエンスというのは、かなりソフトなアプローチに思える。

ソフトなデザインはそのものにとって、より根源的である。その道具とは何か、何故必要なのか、どのように我々を変えてくれるのか、を問うのだから。これなくして、ハードなデザインはありえない。

私はハードなアプローチは、否定されるべきとは考えない。むしろ非常に重要なものであって、欠かすことができない。多くのイノベーティブなものはハードなブレークスルーをともなわなければ可能にならない。
私が言いたいのは、その両方のアプローチの意義や重要性をよく理解して、どちらが正しいか、というような決着を求めるような議論をしないこと。まさしく車の両輪として働くように、多くの人ができるだけ高いレベルで両方を理解したうえでデザインすることが重要なことだと思う。
(100227)

2010年2月9日火曜日

人間観察

人間中心にデザインを進めるということは、人間をよく観察するということにつきる。ユーザビリティのテストといっても、最後は人間観察に行き着く。
そして人間観察において重要なことがあるとすれば、それは自分自身を内省することなのだと思う。どんなに子細に使用者の言動を記録したところで、その言動が本当に何を意味しているのかを読み解く辞書は自分自身の内省によってしか得られない。この辞書を人から人へ教え伝えることも、またとても困難なことであるように思う。その辞書は、その人の生き様にストレートに関わるっていることだから。
被験者に、今何を感じたかを問うのはよいが、そこで得られた被験者の答えは、これこれの問いにこれこれの被験者はこう答えた、という客観的な事実の記述でしかない。被験者がそのように感じたと発言したことと、被験者がそのように感じたことを、混同してはならない。カスタマが欲しいと声を上げるものと、カスタマが本当に欲しいと感じているものとは基本的には一致しない。
犯罪者の自白は、証拠として採用しない、という考えがあると、ある弁護士から聞いたことがある。あくまで客観的な証拠によってのみ立証をするということであるらしい。

私たちデザイナーは特に、自分がこのように振る舞っていることには、どういう気持ちが潜んでいるのか?
こういう気分のときには、どう振る舞っていたいか、それらに人一倍敏感になるべきだろう。
(100209)

2010年2月2日火曜日

iPadのメッセージ

スティーブ・ジョブスによる "iPad" というメッセージは、コンピュータなんて本当に必要なのか? という問いかけのような気がする。
私たちにとって、コンピュータ(PC)は、たしかに便利でなくてはならないものに感じられるが、本当に私たちが必要としているのはこのPCなのだろうか。
PCは、それ自体が自己目的化している。特にIT関連の業界にいて、日々それに接してそれを作り出す側にいると、根本的な疑問を忘れてしまいそうになる。新しいよりよいPCが必要なのは、それはおそらく今使っているこのPCよりも速く強力だからだ。しかし、そもそもそれが不要だとしたら何のための強力化なのだろう。
本当に必要なものを見極めようとする眼を常に磨いておかなくてはならない。
(100202)

2010年1月30日土曜日

思うことだけをやる

俳優大滝秀治(84歳)に関するテレビの番組で、大滝秀治が先輩である故宇野重吉のつぎのような言葉を紹介していた。
「思いをこめれば、自然とそれは出てくるものだ。思ってもいないことをするな。」
前半部分は一つのなぐさめ、あるいは若輩への励ましの言葉で月並みに感じるが、問題は後半だ。下手は、(自分も含めて)思ってもいないことを、ついやってしまうものなのだ。
何かをするとき、本当にそれを思っているのかを自分に問うことは大切だ。わかることだけをやろう、思うことだけをやろうと思う。
(100130)

2010年1月24日日曜日

デザインはマジック

デザインは常にマジックである。
デザインで解決しようとする問題の中には必ず自明でないパスが存在する。問題に関わるいろいろな要素がすべて理論化されているとすれば、あとは計算通りに実施するだけだ。しかしその時そこに「デザイン」の入る余地はない。
現実の問題においては、理論化されていない部分があったとしても、とにかく何とかして答えを出すことが必要なんだ。そうでないと何もモノはできないし、コトは進まない。論理的に消化できていない問題にも、とにかくとっかかりを探して無理矢理答えらしきものをひねり出すことが必要だ。それはロッククライマーが、手を伸ばして微細なくぼみを指先で探りつつ岩を上っていくようなものだ。登り切って岩の上から見れば最適なルートも見つかるかも知れないが、現実はすべてクライミング中の出来事だ。
理論で捉えられないものに答えを見いだすのは、マジックと変わらない。
(100124)

2010年1月13日水曜日

デザインは理論を超えたい!

デザインは理論(セオリーやノウハウ)を超えようとする性向を持っている。
それはデザインが何の前提もおかずに「本当によいもの」を目指すという使命(自分がそう勝手に考えているだけかもしれないが)を帯びているからだと思う。
だからすでにノウハウ化、セオリー化した手法や評価にも疑問の眼を向けることになる。ある意味、そういったセオリーという名の判断停止、ないし判断を他にあずける行為自体、反デザイン的なものと感じるのだ、デザイナーにとって。

(100113)