2011年2月24日木曜日

デジャブ

起きてもいないことを心配してもしかたないのだけど、なんとなくそういう気配がちらほらするので書いておこう。
Androidが売れ始めている、というニュースが最近けっこう頻繁に聞こえる。実際にAndroidはたぶんかなり売れて、その数を増やしていくだろうと思う。Androidの良さは、柔軟性やカスタマイズ性、自由度、クロスプラットフォームである点、あるいは反Apple、反iPhone/iPadな点など、いろいろとある。とりわけ開発という視点、あるいはそれで飯を食うという観点から見たら、Androidは魅力的なプラットフォームである。一方のApple/iPadは、非常に封建的というか排他的で固定的で憤慨ものだ。自分がそういった立場なら、そう思うかも知れない。
” Set me free why don't you baby ! ”
そこでだ、私の心配は。売れていることや自由で開発者ハッピーなプラットフォームであることと、「使いやすい」ことを混同する輩が必ずや出てくるということ。「だって売れているんだから、使いやすいってことでしょう。使いやすくなければ、売れてないんじゃない。」あーやだ。

話は少し横道にそれるが、先日NokiaのCEOが彼らのスマートフォンのプラットフォームにAndroidでなくWindows Phoneを採用したというニュースが流れ、その理由がおもしろかった。「Android携帯は、どれも似たり寄ったりでオリジナリティーに欠ける」というもの。実際には裏で莫大なMicrosoftマネーが動いたというような話もあるみたいだけど、それはともかく、自由さが売り物といっても、一つのプラットフォームの上の自由さには限りがある。逆にある程度そのプラットフォームの制約を受け入れなければ、それを採用する意味がない。本当に100%自由、では、やっぱり自前で作るものが多くなりすぎて作りにくくなってしまう。それに自由だからクリエーティブとか美しいとはかぎらない、というか、そういうものはむしろ制約の中に潜んでいる、と私は思っている。「制約」についても、何か「質」があるのだろう。直感的にいって、デザインは、その「質」に関わる活動なのだろうと思う。(この話はおもしろそうなので、いずれまた。)

ここまでの話って、なんか既視感ありませんか?

そう、MacintoshとWindowsのあの物語ですよ。歴史は繰り返す、のでしょうか?

※ここではまたAndroidばかりを悪者のように扱ってしまいましたが、個人的な恨みは何もありません。ただUIのレベルという意味では、iPhone/iPadにくらべて、現状では少なくとも大学院生と小学生くらいの差はあると思っていますが。
(110224)

2011年2月13日日曜日

まとめの視点

何かを理解するためには、一つ上のレベルでの「まとめ」が必要になる。というか、一つ上のレベルでのまとめの視点が得られたときに、人は「わかった!」という。
この前、Facebookはいろいろな概念がごちゃごちゃとたくさんあってわかりにくい、ということを書いたが、概念がたくさんあってもそれらをつなぐ「まとめの視点」あるいは概念どうしの「関係の法則」が見えれば、「あぁ、なるほどネ」といえるのだ。Facebookには結局それがない。
「まとめの視点」を助けるのは、言葉であり、色や形やレイアウト、つまり「表現」である。表現の専門家あるいは少なくともそこにきちんと向きあう姿勢を持っていない作り手のことばを、私はあまり信用しない。
(110213)

2011年2月12日土曜日

制約による自由の表現

制約こそが自由を担保する。
制約のまったくない100%の自由を考えると、それはほとんど無秩序と同じことのような気がする。制約があって初めてその対比としての自由を認識できるのではないかと思う。地と図の関係といってもいい。地はある意味、反「図」という存在であるが、その地がなければ図を認識することはできない。
私たちは空間的なレイアウトデザインにおいて、常にグリッドということを意識するのだけれど、それは一つの制約である。それは音楽における拍子や音階のようなもの。そういうデジタイズされた、空間を荒く分断するような単位を意識的に用いることによって、受け手に秩序とその中で舞う自由度を伝えることができる。
とはいえ、グリッドつまり「制約」を無理に受け手に意識させる必然はない。受け手に気持ちのよい制約が見えてもよいし、制約はいっさい感じさせずにただただあふれる自由さを感じさせてもよい。しかしどちらにしても、その後ろには制約は存在している。
アントニオ・ガウディのサグラダ・ファミリアという建物がある。自由奔放に筆を走らせたかのような外観であるが、図面を見ると厳格なグリッドが存在しているのがわかる。
(110212)

体は知っている

私の体はいろいろなことを知っているように思える。その広がりと深さを私は想像することができない。知らないのは頭の方なんだと思う。普通にいうと「知っている」のは頭なんだけど、でも本当は体は頭より賢い、というか、頭はかなり頭が悪い。よくコンピュータと人間の脳を比較して、コンピュータの賢くなさを話題にする。その差ほどではないかも知れないけど、体に比べると頭は頭固いし、一つ一つ論理を組み立てないと考えられない。
体 > 頭 > コンピュータ
前にも書いたけど、頭が知るのは体に頭がかろうじて追いつくことなんだと思う。
(110212)

デザインを教えること2

特にデザインを教えるということは、学び手がどう感じて、どう考えているかを本人に気づかせることではないかと思う。自分の知っていることを自分で自覚するのはむずかしい。教え手が自分の知っている何かを学び手に伝えることは、少なかならずあるけれど、それはみなデザインの本質とは少し離れたことばかりのような気がする。
デザインの解は、デザイナーが問題に向かった結果、デザイナー本人の中から見つけ出してくるものだ。そうでなければ意味がないと思える。自分の中から何かをひっぱり出してくるには、それなりの慣れや経験が必要になるのだが、当然学生にはそれが不足している。
教師は、学生の「中」に、直接何かを置くことはできない。学生の中にはじめからあった「何か」が触発されてわき出すのを手助けすることしかできない。
ところで、本当に学生の中にそういうものが、埋まっているものなのか? 私は、一粒の小さな植物の種がその植物に「成る」情報を生まれながらすべて完全に持っているように、学生の中にそれは埋まっていると思う。教師は触媒でしかない。あるいは畑?
(110212)

2011年2月7日月曜日

答えたら終わり、ではない

デザインとは問題を解決すること、と教わったのだけど、正確にはよりよい解を「提示し続ける」ことなのではないかと思う。その前提には、まず問題があってその解決をはかる、といったテスト問題形式の問と答えの関係をデザインが相手にしているわけではない、と思えることがある。たとえば科学上の未解決の疑問を研究によって解き明かすことを、デザインとは言わないだろうということ。
デザインが相手にしているのは、一つの(問+答)のセットが新たな問となっているような問題。人にとっての多くの問題はこの形をしている。これに答えればすべて解決、とはならない。だから、つねに解は、「よりよい解」でしかない。明日には、今日求めた解が産んだ新しい問いに挑まねばならない。
デザインの仕事が夜遅くなってしまうのも、プレゼンテーション(解を提示する日)が一週間延びたら一週間仕事を続けることができてしまうのも、そういうところから来ている。
一歩踏み込んでいうと、そのように答えが新たな問いを産むような形の問いに挑むことをデザインと呼んでいる、といえるのではないかと思うのだ。
(110207)

Facebookのインターフェース

Facebookには、少し前から触っている。その作者の伝説は映画にもなっているようだけど、ここではまたFacebookのインターフェースについて書いておこう。Androidのところでも書いたけれど、はじめの感覚はあくまではじめの感覚で、じきに忘れてしまうものだと思うので、間違いを覚悟で書いておく。
5億人とか6億人が使っているということだけど、はっきり言ってこのインターフェースのデザインは「ひどい」と私は発言しておこう思う。少なくとも私の頭はこれを理解することを拒んでいる。
Androidのときとも似ているけれど、概念がたくさんありすぎることと、概念の関係が像を結ばない。まず言葉の選択がデザイン的に不適切だしセンシティブでない。オリジナルを見ていないので、オリジナルの問題なのか翻訳の問題なのかわからない。けど、たぶんオリジナルなんだろうな。いつでも完璧に行うのはむずかしいのだけれど、言葉のレベルがあっていない。最上位(だと思う...)に、ホーム/プロフィール/アカウント/フィードバック/初心者マークがあって二階層めは下記の通り。どういう関係かわかりにくいが、これらと並行して、友達リクエスト/メッセージ/お知らせ、というメニューがある。
全体に名詞系、動詞系の言葉が入り乱れているし、どこをとっても概念が並んでいない。これらの言葉群から全体像を想像することはできない、というか想像することを阻むように言葉を選んでいるようにすら感じる。また「友達」のようにダブった言葉もあれば(その内容は微妙に異なる)、概念の似たような言葉も多い(ニュース、メッセージ、お知らせ)。
さらに操作をしてみると、いろいろなところが不意につながっているので、せっかく構築しようとした概念が壊れてしまう。一度見かけた画面に何故かもう一度到達することができない。
日本語で呼びかけられたと思うと、あるときはローマ字で呼びかけられる。また突然親しげに名字でなく名前で呼ばれたりもするが、そのルールがよくわからない。
言葉の問題に輪をかけて、スクリーンのレイアウトが概念の形成を助けてくれない。アプリと呼ばれる機構も動きに不明な点が多い。
まだまだあるけれど、疲れたのでここらでやめておく。
冷静に考えると、全体としてはそれほど複雑ではない気がするし、よりよいデザインは十分に可能であると思う。おそらく徐々に継ぎ足しで改造してきた結果こうなってしまったのだろうと想像できるし、途中で見直すこともできなかったのだろうな、とも思う。
情状は酌量するが、でも残念ながら有罪は有罪である。

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(110207)

2011年2月6日日曜日

Android-110206

今Androidが、熱狂的に受け止められている。よくわからないが、そうらしい。ここしばらくAndroidのスマートフォンXperiaを使用する機会があったので、印象と感覚を書き留めておきたい。たぶんもっとこのプラットフォームが一般的になってしまった後では、忘れてしまうだろうから、ここで第一印象を記しておくのも意味のあることだろう。
Androidにはとにかくインターフェース上の概念がたくさんありすぎる。どれも便利にしようとしてよくよく考えた結果のものだと思うのだが、初めて見たら迷宮のようでめまいがする。よくいう笑い話にこんなのがある。居間にテレビやビデオ、クーラーのリモコンがあふれて、どれがどれやらわからなくなってしまったので、統合リモコンでまとめようとしたら、結局はリモコンが一個増えただけだった。チャンチャン。
Androidは、とにかく便利にするために、考えられるものをできるだけ盛り込もう、という戦略のように見える。一つ一つが便利なものであっても、増やせば増やすほど複雑さは増す、ということは脇においといて。「シンプルに」というのは、ほとんどのデザインガイドのトップにうたわれる内容なのだけど、この辺はGoogleはどう考えているのだろう。シンプルさより便利さ、あるいは便利そうな名前のついた機能やしかけで使用者を誘うことの方が重要って感じなのか。
でも冷静に考えると、それもわからなくない。そういう方向でがんばらないと埋没してしまう、というか、実際に根本的なところでインターフェースとして見るべきものはないので、そういうことでしかアピールしようがないのだ、ということなのだろう。それにiPhone/iPadがある意味シンプルの極みの線で存在しているので、後発的には対抗上イロイロ盛り込み戦略しかとれない、ということのような気がする。
だから本来なら、Googleは根本的にiPhone/iPadと違うものを作るべきだったのだろう。Appleの土俵でない何か。でもそれこそ超難題か。
他にもハードボタンのことや、Androidのデザインガイドのこと、そのほか細かいいろいろなことなどあるのだけれど取り合えずここまで。

ここで述べていることは、インターフェースデザイン上のことである。足かせの多いAppleの開発の不自由さに辟易している多くの開発者やメーカーにとって、プラットフォームとしてはAndroidしか選択肢はないのだから、その自由度の中で製品をつくるしか道はない。この道はいつか来た道。MacintoshとWindows、iOSとAndroidはまったく同じ話をなぞるのだろうか。
(110206)

使いやすさについて

使うことに関するデザインをしているのだけど、「使いやすさ」を向上するとか改善する、という意識はほとんどなかったし、これからもたぶんないだろうと思う。使いにくいのは問題だし、使いやすいことを目指してはいる。でも素直に「使いやすさ」を目指してデザインしています(キッパリ) とは、なぜか言えない。
それは使いやすい、という事象を一次元的な数直線上にマッピングできないと感じているからだと思う。何かデザイン上の工夫やアイデアを盛り込んでも、単純に使いやすさが上がったとはいえない。その実施が新たな使いにくさをはらんでいる可能性はおおいにある。だから慎重に判断しなければならない。それが私にとってリアルな反応だ。
知り合いのデザイナーをみても、使いやすをデザインしていますとキッパリと発言できるタイプの人と、私のようにその事にはモゴモゴとしてしまう人がいる。でも私は私のリアルに従うしかない。私は「私のリアル」の奴隷なのだ。
(110206)

2011年2月4日金曜日

Design Professional Blues

私はデザインを職業としている。デザインもほかのいろいろな分野の活動と同じように、今やとても細分化しているので、私が直接知っているのはデザインのほんの小さな部分にすぎない。しかしそれなりに長いあいだ関わっているので、デザインという行為そのもについて、自分なりに気づいたことや理解したこともたくさんある、ような気がしている。そして何より私は私なりになんとかして「デザイン」のことを言い止めたいと思っている。
デザインについて、それが何かを「産み出す」行為だとしたら、産み出されたものを使う側の人たち、つまりデザインの「受け手」がいる。しかし私の視点はそれを産み出す側の人間、つまりデザインの「産み出し手」のものである。さらにそれは専門的な職業としての視点である。
語るスタンス上の一つのキーワードは「リアル(さ)」ということである。自分がこれは本当にそのとおりだ、と思っているかどうかのある種の真剣さの尺度を私は「リアル」と呼んでいる。
私にとってブルースという音楽は、リアルさの象徴である。リアルだからちょっぴり悲しいのだ。
(110204)