2008年1月28日月曜日

自分を知るというのは

自分を知るというのは、頭が遅ればせながら体に追いつくということ。

デザインにおける知とは、頭が遅ればせながら体に追いついてそれを追認するということなのである。
多くのことを体はすでに知っている。というか、むしろ頭で知ろうとするすべてのことは、体のことなのだ。

「納得」できるのは、すでに体がそれを知っているから。(体が知らないことを、頭は「納得」できない。)

脳が見る前に、眼が見なければならない。あるいは耳が「見」なければならない。

「補色」:
たとえば、ある色を見せられてその補色(反対の色)は何か、と問われても、色彩について学んでいなければふつう即答はできない。しかしその色の色面をしばらく凝視したあと、パッとそれを隠せば自然にその補色が目に浮きでてくる。つまり体は「補色」を知っているということだ。
(080128)

2008年1月17日木曜日

デザインは方法を超える

デザインという行為について最近しばしば以下のようなことを考える。
デザインのための方法というものが仮にあったとして、それにのっとって何かを生み出す行為を、はたして私はデザインと呼ぶだろうか?
それはこういうことだ。与えられた条件から、論理的、あるいは科学的に(つまり誰がそれを行っても必ず到達できる再現性のある方法で)デザイン解が得られるような公式があったとしたら、もはや人間はスタートボタンを押すだけの存在でしかない。そのスタートボタンを押す行為を、私はデザインとは呼ばないだろう、ということである。
私は答えの定まっていない問いに、なんとか最良の解を探し出そうとあがく行為をデザインと呼んでいるのだと思う。
もちろん、常によりよい答えにいたる道を見つけ出そうという態度は、デザインとしての正しい姿勢だ。
いつでも、優れたデザインは既存の方法論を超えたところにあるものだ。


デザインは実際にそれを生み出す現場にしかない。理論があってデザインがあるのでは、決してない。よいデザインはとにかく、そこに、はじめに、ある。
そこに理論があるかどうかは関係のないことだ。デザインはダイナミックな(弁証法的な?)行為である。よいデザインは変容する。いつも同じではない。それをはかる尺度というものは進展していく。


(080117)