tag:blogger.com,1999:blog-42647012901905812012024-02-19T10:58:32.968+09:00design-programixデザインとコンピュータ、ソフトウェア、プログラムのことを考えてみようoghttp://www.blogger.com/profile/12759059224779795494noreply@blogger.comBlogger196125tag:blogger.com,1999:blog-4264701290190581201.post-16914228978866746062013-02-18T23:47:00.001+09:002013-02-18T23:47:27.624+09:00新住所すみません、最近こちらに書き込んでいます。
http://d-pb.tumblr.com
oghttp://www.blogger.com/profile/12759059224779795494noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4264701290190581201.post-3569478072027408022012-03-21T00:02:00.002+09:002012-03-21T00:02:55.913+09:00表現メディアに恋する
芸術家やデザイナーなどの表現者は、おそらくもれなくメディアに恋をしている。ここでいっているメディアとは、音楽、絵画、小説、詩、文章、写真などの表現の方法というか形式のことである。
もちろん、先行く人の作品自体に魅せられるということは当然あるのだが、作品それ自体にあまりに魅せられるすぎると、自分では作品が作れなくなってしまう。とにかくそれが絶対的によいのだから、それ以上を自分ではどうすることもできない。また、それらの鑑賞者にとっては、作品がよくて好きなだけで十分である。
しかし、「表現者」という側に立つということの中には、それとは別に、たとえば音楽さらにはジャズ、ボサノバ、もっと詳細なカテゴリというか形式、あるいは楽器という手法に、興味をもつことが含まれるのではないか。あるいは絵画から、さらには水彩絵の具、筆の感触など。あるいはカメラやフィルムなど、そういった表現の方法や形式自体に、どうoghttp://www.blogger.com/profile/12759059224779795494noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4264701290190581201.post-67400713463989492512012-03-20T23:29:00.002+09:002012-03-20T23:29:31.509+09:00デザイン論文
デザインについて書かなければいけない論文が一本ある。しかしわたし自身できれば「論述」からは、一歩距離をおきたいと思うのだ。科学や学問は論述あるいは論証をその中心に置いている。つまりそれが「正しい」ということを、きちんと証明し説明しなければならない。ある条件Aが成り立つとき、必ずBが成立する、ということが言えること。それを命題というのだが、デザインはそもそも「命題」を扱っていないのである。そこがそもそも全然違う。
デザインそしておそらく芸術も、ある条件(作品)が、ある結果(人が何かを感じること)を、産むのではないかと、問うている「だけ」だ。結果がでない、つまりそう感じない人がいても別に構わない。100%の人が、確実に同じように感じる何らかの表現を目指してなんかいない。おそらく100%の人が同じように感じる何かを作ってもつまらないだろう。それを月並みという。むしろ少数の人が、非常に鋭く、強oghttp://www.blogger.com/profile/12759059224779795494noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4264701290190581201.post-376365472771468162012-02-18T00:29:00.000+09:002012-03-04T00:31:41.237+09:00動かない点お気に入りのSという店で、お気に入りの曲とお気に入りの酒、お気に入りのメニューを食べる。それはこの店のアイデンティティであり、いついっても味わえるたいせつなもの。いくたびに違う味で楽しませてくれるというコンセプトも悪くはないが、それでは客をつなぎ止めることはむずしい。そうしようとしたらずっと集中していなければならない。
デザインもある意味では、こういった動かない点を探す行為である。しかし自分たちデザイナーは、結局毎回いつもいつも新しいものをもとめて、のたうつことになる。
このデザインの、不動点をさがしつつ、つねに変化にチャレンジするという、疲れるといえば疲れる、いさましくも無謀な精神は、結局は愛すべきものじゃないかと思うのだ。どうだろう?
(120218)oghttp://www.blogger.com/profile/12759059224779795494noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4264701290190581201.post-34855867591976149152012-01-31T01:44:00.000+09:002012-02-01T01:45:20.104+09:00undesign
人がするすべての行動は無意識に向かっていく傾向がある。「思考の身体化」といえるかもしれない。スポーツにしてもいろいろな技芸にしても、頭で考えて体を動かしているようではその神髄には迫れない。何年にもわたる鍛錬や練習のはてに、思考が頭から体におりてゆく。それを目指してもいるし、自然にそういうふうに流れていくものでもある。意識して何かをすることの対価は大きい。
"unlearn"という言葉がある。人はどうやっても学びの中でしか生きられない。しかし学んだものすべてが、自分にとって何かしらよいものとはかぎらない。ときには身体化した学びを解きほぐす必要がある。この学びの解きほぐし、身について「しまった」ものを脱ぎすてることを"unlearn"というのだそうだ。それは学ばないことでもなく、学んだことをたんに忘れることでもなく、能動的な行為として学びの逆演算として「まなびほぐす」と訳されている。
そのoghttp://www.blogger.com/profile/12759059224779795494noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4264701290190581201.post-36100543116912149792012-01-27T01:13:00.000+09:002012-01-30T01:15:19.534+09:00気分について
ここ二三日、少し気分がよい。-3~0~+3のスケールでいうと、+1くらい。
ここ数年だろうか、昔にくらべて「気分」をより強く意識するようになったのは。もちろん前から「気分」というものはあったのだが、それはつねにゆれ動くもので、自分が’体験するひとつひとつの事象にたいして、よくなったり、ひじょうに落ち込んだりするものであった。その時間的な振幅は、数分から数時間くらいの単位。しかし今の気分の波は、数日から一週間あるいは一ヶ月くらい振幅を持っている。もちろんその中に小さい波もあるのだけれど。
「気分」を意識するようになった直接の原因は、心配事や不安なことが自分の人生に少なくない部分を占めるようになったからなのだろう。そういう負の気分や痛みによって、正の気分もまたくっきりと形をもって意識できるようになったのだと思う。まぁ、遅すぎる成長ではあるが。
それから以前は、物事やあるいはその体験によってoghttp://www.blogger.com/profile/12759059224779795494noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4264701290190581201.post-46053532983433715502012-01-14T01:11:00.000+09:002012-01-30T01:12:56.438+09:00現象とデザイン
「現象」には、過去現在未来に属するものがある。それらは単に時間性のちがい以上の差があるような気がする。
過去の現象にかんする記述、それがもっともふつうに語られる「現象」。過去の現象は、もう動かすことができない。それはそれとして受け止めるしかない。「(意図や目的はともかく)現象的に(=結果としては)こういうことが起こった。」読み解かれるものとしての現象という側面である。
現在の現象は、いま、ここ、で対処する対象としての現れである。その現れがよいものであれ、悪いものであれ、我々はそれをどう扱うのかを決めなければならない。現在のそれは、可能性の範囲内で動かすことができる。それはまさに動かすべき対象、変化させるべき対象として目の前にある。
未来の現象。それは造られる対象としての現れである。これはまさしくデザインの問題。その現象がどのように人との関係を切り結ぶべきかを問う。デザインは「現象」oghttp://www.blogger.com/profile/12759059224779795494noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4264701290190581201.post-11350968717086471142012-01-11T23:55:00.002+09:002012-01-11T23:55:57.112+09:00tumbler design-programix少し前に、tumblerというのを試してみています。ただいまは、こちらと二重投稿の形になっています。だから、内容は変わりません。もしかしたら、どちらかに絞るかもしれません。(もちろん、そのときはそう言います。)
http://design-programix.tumblr.com/
(120111)oghttp://www.blogger.com/profile/12759059224779795494noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4264701290190581201.post-5815791110531745762012-01-11T23:49:00.000+09:002012-01-11T23:49:49.717+09:00表現とデザイン
(2012、卒業生の記念図録への寄稿)
卒業おめでとう。
これからプロとしてデザインの職につく方もそうでない方も、どちらにしても人生の数年間、デザインを学ばれたことは大きな意味を持つものと信じます。なぜならデザインは一つの職能である前に、人の根源的な行為である『表現』につながるものと私は考えるからです。
表現とは、はじめに表現すべき何かがあって、それをなんらかの媒体の上に見える/聴こえるようにすること、と考えがちですが、表現する前にはそれがなんだかわからない、というのが事実です。つまり人は、なんだかモヤモヤと心/頭/体の中にある、よくわからないものを突き止めるために表現してみるということです。デザイナーはたまたまその技術を磨いて職業にしているということなのだと思います。
そういう目でここでの学びをもう一度俯瞰してみてください。またできることなら、ときにはここに還ってきてください。体やoghttp://www.blogger.com/profile/12759059224779795494noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4264701290190581201.post-63385723488628734022011-12-12T02:04:00.001+09:002011-12-12T02:05:13.954+09:00自意識
さっき電車の中で、自分のある考え方のパターンに思いいたって急いでメモをとった。それは画期的な自分自身に関する気づきであると思った。それはほんとうに小さいときから自分を支配している原理であって、自分を特色づけているものだ。なぜこのことにこの年齢になるまで意識を向けられなかったのかと思った。それはこうだ。
自分は何かを感じたときに、感じたままをストレートに発言したり行動したりすることができない。まずそう感じている自分自身を、自分として許せるかどうかというチェックを、どのような些細なことに対しても必ずおこなっている。こういうことを感じる自分は、かっこう悪くはないか? という自問。
その判断基準は、別に高尚なものではなく、ほんとうにかっこうよいか悪いかという表層的なレベルのものだ。自分にとってかっこうよいとは、つまりホンモノかどうかというような感じのリアリティ。これは強固なもので、絶対に踏みoghttp://www.blogger.com/profile/12759059224779795494noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4264701290190581201.post-3713107884358608402011-12-12T01:45:00.001+09:002011-12-12T01:55:17.857+09:00道具を作る
「デザインは、意図をもって、道具を、作ることを考えること。」
道具:
人の役に立つ何か。用(はたらき)をもつもの。それによってできなかったことができたり、少しでもよくできたりするもの。人のもともと持っていた、手や脚や眼や脳のはたらきを拡張してくれるものやこと。
それは形のある、カナヅチやノコギリ、食器や家具、それに洋服や乗り物やコンピュータのようなものでもあるし、形のない、国や政治やいろいろな制度、それに言葉のようなものもある。道具は「人が造り出すもの」にほぼ等しい。
作ることを(考えること):
道具には作るという局面と、使うという局面があるのだが、デザインは主に作ることにかかわっている。
作るということをさらに細かく見ると、何をどう作ろうかと想像し、計画し、設計する段階と、実際に材料を集めて加工し組み上げる段階とがある。これらのうちの前半の段階をデザインといっている。犬小屋を作るoghttp://www.blogger.com/profile/12759059224779795494noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4264701290190581201.post-55950997656929027372011-12-12T01:00:00.001+09:002011-12-12T01:05:57.399+09:00卒業制作について
教えている美術大学デザイン科の卒業制作最終審査会が終わって、もう彼らに何かを伝える機会がない、と思うと、あぁあれも言いたかった、これも言いたかったと思う。考えてみると去年も同じようなことを考えた気がする。でもまた、放っておけば忘れてしまう。ということで、今のうちにそれがどんなことかメモを残しておくことにする。
・工作に関して
工作が得意でない人がいて損をしている。教師はだいたいデザイン実践を経ているので、皆作り方はよく知っている。木材にしても金物にしてもデジタル制作についても。聞けば丁寧に答えてくれるかヒントをくれるはずだ。作り方は教えやすいので、よしきた、という感じ。ただし、何を作るのかはデザインする学生本人にしかわからないので、それはよく伝える。その上で作り方は興味を持って学んで欲しい。
自分は工作の精度自体は卒業制作において、第一義ではないと思っている。しかしどうやってモノが作oghttp://www.blogger.com/profile/12759059224779795494noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4264701290190581201.post-3811218864581717332011-11-17T00:53:00.000+09:002011-11-18T00:55:32.653+09:00人を生きるということ
Blues !!
黒人を生きるとはどういうことなんだろう。
自分が黒人だったら、どんな気持ちがするだろう、と考えていた。あこがれの気持ちをもって。
でもそれは自分が「日本人を生きるってどういうこと?」と(あこがれをもって?)問われるのと、同じこと。
いいたいことも叫びたいこともあるのだと思うけれど、二つの人を生きることはできないのだから、いや、この一人の人を生きられることを贅沢なことだと思いたい。いや、実際にそういうことだ。
(111117)oghttp://www.blogger.com/profile/12759059224779795494noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4264701290190581201.post-91648631594089973582011-11-17T00:52:00.000+09:002011-11-18T00:52:33.455+09:00That's all right.
まいっている。
でも自分が何かまずいことをやった?
やっているんだろうけどさ、完璧からはほど遠いんだろうけどさ。
自分としてはよかれと思ってやっているし、きっとそれはよいことなんだろうと思うよ。
たぶん、うまく歯車がかみ合っていないだけ。
一生かみ合わないしれないけれど、そうやって自分の歯車を自分は回すしかないんだもの。
That's all right. これでいいのだ、と思おう。
いや、それでいいのだ。
(111117)oghttp://www.blogger.com/profile/12759059224779795494noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4264701290190581201.post-69758181286696650982011-11-14T00:50:00.000+09:002011-11-18T00:51:26.191+09:00どうしようもないこと
何か、スパッと解決するようなことは幻想だ。だいたいにおいて、問題というのは「どうしようもない」ものだ。どこもかしこもが満足するようなピタッと収まる解はない。もしそういうものがあれば、たいていはそのようにすでに解決しているのである。そういう問題はあったとしても、結局あんまり人を悩ませない。
問題のうちの99パーセントは「どうしようもなさ」を抱えているのじゃないか? それを認めた上で、そこから出発して「自分の(自分だけの)解」に向かうべきなのだと思う。「自分」という視点からすべてを始めたいと私は思う。「どうしようもない」という問題のありようを前提にして、「私自身の解」にいたるという道筋しか、私には考えつかない。
(111114)oghttp://www.blogger.com/profile/12759059224779795494noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4264701290190581201.post-33702723092406433482011-11-07T00:47:00.000+09:002011-11-18T00:49:01.194+09:00直感について
人の話や出会った事柄について直感的に「これは正しい」とか「きっとこれは本当のことだ」あるいは「これはおかしい」と感じることがある。
その感じは常に正しいとはかぎらない、というか正しくないことが少なくない。しかしときにそれは強い確信とともにやってくる。
できるかぎり直感を信じたい。というか、信じられる直感を育てたいと思う。そして直感の限界も正しく判断したい。直感でもって。
直感が心の中に鳴ったときに、私の中で起きていることは、その事象が「ああ、あれに適合している」「ああ、これにも合致している」「ああ、あれにも...」と、いくつものスクリーニングを瞬間的に行っている。
自分の中に適合すべきあんなことやこんなことが、自分の中にあらかじめはいっていなければ、直感は働かないものなのだと思う。だから若い人の「直感」はあまり信じられない。ましてや子供の直感というのはありえないとさえ思う。(子供なりにoghttp://www.blogger.com/profile/12759059224779795494noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4264701290190581201.post-27955005144560883062011-11-03T21:56:00.000+09:002011-11-03T21:56:56.808+09:00デザインの課題
デザインの授業で学生に課題を決めさせると、何割かはデザインと言うよりアート寄りの視点で課題を提案してくる。デザインとアートの線引きにはいろいろな解釈や立場があっていいと思うが、何年もデザインをしてきた教師陣には違和感のあるデザイン課題の設定である場合が少なくない。おそらくアートの先生からみたらそれはアートとしても違和感があるにちがいない。
なぜそうなるかというと、つまりデザインの課題を学生は自分の頭や経験の中から汲み出すことができない、ということなのだと思う。それまでの20年間、そういうことをいっさい考えてきたわけでもなく、たかだか数年、無理やり知識として説教されたたけでは、先生が納得するようなデザインらしい課題を設定できないのはしかたない。しいてそれらしいものを自分の中に探した結果、「アートのようなもの」に行き着いてしまうのは当然の帰結だろうと思う。また自分も含む教師側も、好きなことoghttp://www.blogger.com/profile/12759059224779795494noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4264701290190581201.post-60055226272521788732011-11-03T21:54:00.000+09:002011-11-03T21:55:00.652+09:00考え続ける
何にせよ、考え続けるというのは大切なことだ。でも考え続けるためには、感じ続けなければならない。
一つのことをとにかく10年くらい考え続ければ、効率が悪くても、歩みが遅くても、曲折した道筋をとろうと、そしてはじめの目標にたどり着けなくても、そこには語るべき何かがあるだろう。
考え続けるとは、つまり解答にたどりつかないまま、問題を何度も何度もくりかえし「解釈し直す」ことなのだと思う。常に解決の途中にありながら、問いを解釈し続けるためには、問いの芯となる何かを、名状しないままに頭の中に置く、つまり「感じる」という作用が必要になってくるのだと思う。
自分は、けっこう細かなことや、思わずしてしまった発言をいつまでも考え続けてしまうことがある。もっと大きな大切なことを忘れてしまうことも、それ以上にあるのだけれど。
(111103)oghttp://www.blogger.com/profile/12759059224779795494noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4264701290190581201.post-13746130424976529522011-10-27T23:46:00.000+09:002011-10-27T23:47:08.963+09:00デザインという病気
デザインというのは一種の病気なのかもしれない。一回それに罹ってしまうと、それなしにものを見ることができなくなってしまうような。
デザインのことを意識せずに、何かを見たり決めたりできるようになる、つまり傷が癒えるのは、うんと歳をとって小さい子供の地金(ペンティメント)が出てきてから、かもしれない。
(090328)(111027)oghttp://www.blogger.com/profile/12759059224779795494noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4264701290190581201.post-19029345648911187752011-10-27T00:04:00.000+09:002011-10-27T00:04:11.315+09:00差で伝える
デザインでAの案に決めたいとき、決めたいAを論理的にプッシュすると失敗する。そういう時、ふつうABCと複数の案を提示する。緻密で完璧な論理よりも、Bとの差、Cとの差を「見せる」方が、Aをわかりやすく説明できる。その差による結果を相手は納得して選ぶ。相手は自分が選択しているというドライブ感を持つ。
ここで起きたことは、「差」によって「価値」を表現したということ。
たぶん「論理」では「価値」は伝わらない。「価値」は「表現」によってしか伝わらない。というか「価値」を伝えるための行為を「表現」と呼んでいるのではないか。
(110224)(111026)oghttp://www.blogger.com/profile/12759059224779795494noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4264701290190581201.post-88851790317205070312011-10-25T23:01:00.000+09:002011-10-25T23:01:21.157+09:00デザインは時間がかかる
他の仕事でもそうなのかも知れないけれど、デザインで最も時間がかかる部分はなにか。それは何かを「決める」ということだと思う。デザインは何かを創造しているように見えるかも知れないけれど、実際にやっていることは何かを「決める」あるいは、何かを「選ぶ」という行為だ。
100のアイデアを出すことは大変だけれど、100あるアイデアの中から、もっとも適切なものを決めることがむずかしい。どれが適切かを決めるために、デザイナーはどうするか。直感で選ぶ、のではなく一々有望なものを表現してみて、目で見て比較する、というプリミティブな方法をとるのである。本当にそれでよいのか、を自分自身に問いかけるために、面倒くさくても表現してみなければならない。
デザイナーは直感を大切にしているし、実際直感はとても大切なものだけれど、直感もときに裏切ることをデザイナーはよく知っている。それに表現してみると、新たな発見ができるoghttp://www.blogger.com/profile/12759059224779795494noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4264701290190581201.post-80603881963891442692011-10-23T23:36:00.000+09:002011-10-24T10:18:58.055+09:00アートと身体性
広い意味でのアート=「人の技芸」とは、自分の身体と深い関わりがある。つまり自分の身体のありようをいかに識って、いかにコントロールするか、がアートなんだということ。
先日、体操のエース内村航平が活躍した。前に彼のテレビドキュメンタリーで見たのだけれど、小さい頃から図抜けた身体感覚があったという。三次元的に自分の体がどうあるかの感覚をトランポリンを通して研ぎ澄ました。イチローにしても清水宏保にしても、天才的なアスリートは自分の体について、筋肉の繊維一本一本のことがわかるようなセンシティブさを持っている。
芸術もたぶんそういう、人には見えない、人には聞こえない感覚を研ぎ澄ますという意味で身体性を研ぎ澄ましたところにあるものだと思う。そしておそらくデザインも、大きな部分を身体性に負っているといえる。デザインにとっては、それだけではないかもしれないが、それなしにはデザインと呼びたくない。
(oghttp://www.blogger.com/profile/12759059224779795494noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4264701290190581201.post-23034001823799049252011-10-23T23:29:00.000+09:002011-10-23T23:29:15.073+09:00気づきについてアイデアや何かを思いついたり、気づいたりするということはいったいどういうことなのだろうか。
気づきは決して無から生まれる何かではないような気がする。気づきは、それまで心の底に沈んでいて意識に上っていなかったことを、あるとき何かのきっかけで「思い出す」という形でやってくる。そのときそこで何かが生まれるというより、自分の中にはじめからあったAとBとがその瞬間に結びつくような感じ。だから気づきの材料は基本的には自分の内側にあったものである。外にあるのは、それを引き起こすトリガーである。
何かを気づくためにはトリガーや触媒が必要だ。トリガーは気づきを直接引き起こす何か、触媒は気づきを引き起こす空気のような状況的な要因。
しかしトリガーや触媒と、気づきの内容の関係性はあいまいだ。一つのトリガーとなる出来事や経験と気づきの内容の因果関係や、そのほかの関係をいいあてるのは非常に困難。その関係は謎oghttp://www.blogger.com/profile/12759059224779795494noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4264701290190581201.post-85930349382023696442011-10-14T00:12:00.000+09:002011-10-24T00:13:20.260+09:00デザイン的によいこと
「デザイン的によいこと」をひとつの性質の中にとじこめることはできない。
たとえば、デザインは、「シンプルであること」、「一貫性があること」「メッセージが明快であること」などの金言は(ほとんど)正しい。でも完全無欠というわけではない。
常に相反することとのバランスの上にそれはある。あるいはさらにその上位(メタ?)なレベルからみた、配合の妙がそれを作り出している。
デザイン的にいって、シンプルなことはだいたいよいことだ。だけど極端な割り切り、切り捨てすぎは、いいとはいいがたい。シンプルがいいというのは、シンプルでないものがあまりに多いから言っているのだと思う。だから「だいたい」「ほぼつねに」シンプルをめざしてよい。
しかしたとえば「味」というのは多少とも複雑なものから生じるのではないかと思う。なんともいいきれないもの中に味はある。(もちろん「いいきれないもの」が味、なのではない。)
単純oghttp://www.blogger.com/profile/12759059224779795494noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4264701290190581201.post-51545841193818344112011-09-22T00:22:00.000+09:002011-10-24T00:23:16.635+09:00ことばの意味について
たとえば、デザインとアートは基本的に同じものではない。そのちがいについて論理的で詳細な議論をしたくない。というか、細かい見方は意味を失う。一つ一つのことばに明確な定義をあたえて、そうでない陣営を批判する(ということをさんざんやってはきたが)ということは、もうやめにしたい。いくら自分に正確で正しい定義に見えたとしても、そういう「正しい定義」ができるということが、そもそも怪しいというか、根拠がない。
あたかも「デザイン」という概念がアプリオリに「ある」とどうして考えてしまうのだろうか。人々がする行為の一つの傾向を、誰かが「デザイン」と呼んだということにすぎないのに。
もちろんそれには一般性があって、それだからこそ人々はそれを了解してそのことばが定着したわけなのだが、元々その概念の境界はあいまいなものである。すべてのことばは、そういうものだということを忘れて議論、ときには戦争さえすることのoghttp://www.blogger.com/profile/12759059224779795494noreply@blogger.com0