2013年2月18日月曜日

新住所

すみません、最近こちらに書き込んでいます。

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2012年3月21日水曜日

表現メディアに恋する


芸術家やデザイナーなどの表現者は、おそらくもれなくメディアに恋をしている。ここでいっているメディアとは、音楽、絵画、小説、詩、文章、写真などの表現の方法というか形式のことである。
もちろん、先行く人の作品自体に魅せられるということは当然あるのだが、作品それ自体にあまりに魅せられるすぎると、自分では作品が作れなくなってしまう。とにかくそれが絶対的によいのだから、それ以上を自分ではどうすることもできない。また、それらの鑑賞者にとっては、作品がよくて好きなだけで十分である。
しかし、「表現者」という側に立つということの中には、それとは別に、たとえば音楽さらにはジャズ、ボサノバ、もっと詳細なカテゴリというか形式、あるいは楽器という手法に、興味をもつことが含まれるのではないか。あるいは絵画から、さらには水彩絵の具、筆の感触など。あるいはカメラやフィルムなど、そういった表現の方法や形式自体に、どうしようもなく惹かれてしまう、まさに恋をしているとしかいいようのない状態が、表現には必要な気がする。
表現したいものがある、だけではおそらく足りない。
(120320)

2012年3月20日火曜日

デザイン論文


デザインについて書かなければいけない論文が一本ある。しかしわたし自身できれば「論述」からは、一歩距離をおきたいと思うのだ。科学や学問は論述あるいは論証をその中心に置いている。つまりそれが「正しい」ということを、きちんと証明し説明しなければならない。ある条件Aが成り立つとき、必ずBが成立する、ということが言えること。それを命題というのだが、デザインはそもそも「命題」を扱っていないのである。そこがそもそも全然違う。
デザインそしておそらく芸術も、ある条件(作品)が、ある結果(人が何かを感じること)を、産むのではないかと、問うている「だけ」だ。結果がでない、つまりそう感じない人がいても別に構わない。100%の人が、確実に同じように感じる何らかの表現を目指してなんかいない。おそらく100%の人が同じように感じる何かを作ってもつまらないだろう。それを月並みという。むしろ少数の人が、非常に鋭く、強く、深く、感じてくれるかもしれない、ということに賭けている。
これらは、論述にはいかにもそぐわない。だからむしろわたしは、詩のように語りたい。
実はその論文で語りたいということは、このようなことなのだ。この言明ははたして「論述」なのだろうか。論文になるのでしょうか。
(120320)

2012年2月18日土曜日

動かない点

お気に入りのSという店で、お気に入りの曲とお気に入りの酒、お気に入りのメニューを食べる。それはこの店のアイデンティティであり、いついっても味わえるたいせつなもの。いくたびに違う味で楽しませてくれるというコンセプトも悪くはないが、それでは客をつなぎ止めることはむずしい。そうしようとしたらずっと集中していなければならない。
デザインもある意味では、こういった動かない点を探す行為である。しかし自分たちデザイナーは、結局毎回いつもいつも新しいものをもとめて、のたうつことになる。
このデザインの、不動点をさがしつつ、つねに変化にチャレンジするという、疲れるといえば疲れる、いさましくも無謀な精神は、結局は愛すべきものじゃないかと思うのだ。どうだろう?
(120218)

2012年1月31日火曜日

undesign


人がするすべての行動は無意識に向かっていく傾向がある。「思考の身体化」といえるかもしれない。スポーツにしてもいろいろな技芸にしても、頭で考えて体を動かしているようではその神髄には迫れない。何年にもわたる鍛錬や練習のはてに、思考が頭から体におりてゆく。それを目指してもいるし、自然にそういうふうに流れていくものでもある。意識して何かをすることの対価は大きい。
"unlearn"という言葉がある。人はどうやっても学びの中でしか生きられない。しかし学んだものすべてが、自分にとって何かしらよいものとはかぎらない。ときには身体化した学びを解きほぐす必要がある。この学びの解きほぐし、身について「しまった」ものを脱ぎすてることを"unlearn"というのだそうだ。それは学ばないことでもなく、学んだことをたんに忘れることでもなく、能動的な行為として学びの逆演算として「まなびほぐす」と訳されている。
その文脈をかりて、"undesign"を考えることができるのではないかと思える。直感的な思いつきではあるけど。もしかすると、ディータ・ラムスの第10ヵ条目は、このことにやや近いかもしれない。
ともかく、"undesign"というタームを自分の課題帳にのせることにする。
(実は知り合いの"undesign"という集まりの通知を見て、自分はこれだってひらめいたのだけれど、そういう意味ではないらしい。でも楽しそうだ。 http://learningdesigns.jp/LD/news.html )
(120131)

2012年1月27日金曜日

気分について


ここ二三日、少し気分がよい。-3~0~+3のスケールでいうと、+1くらい。
ここ数年だろうか、昔にくらべて「気分」をより強く意識するようになったのは。もちろん前から「気分」というものはあったのだが、それはつねにゆれ動くもので、自分が’体験するひとつひとつの事象にたいして、よくなったり、ひじょうに落ち込んだりするものであった。その時間的な振幅は、数分から数時間くらいの単位。しかし今の気分の波は、数日から一週間あるいは一ヶ月くらい振幅を持っている。もちろんその中に小さい波もあるのだけれど。
「気分」を意識するようになった直接の原因は、心配事や不安なことが自分の人生に少なくない部分を占めるようになったからなのだろう。そういう負の気分や痛みによって、正の気分もまたくっきりと形をもって意識できるようになったのだと思う。まぁ、遅すぎる成長ではあるが。
それから以前は、物事やあるいはその体験によって、自分の気分の方が左右されていた感じなのだが、今は逆に気分によって物事の見え方が左右されるという感覚である。つまり物事のとらえ方と気分の因果関係が逆転したということ。(だいたいの話ではあるけれど。)
もちろん自分の判断の元になる気分もまた、何かによってもたらされたものではある。個人的な事情や経験、または社会的、時代的な何かが醸成する風や空気のようなもの。
「気分屋」というのが、物事に敏感に感応してそれに極端に左右されてしまう気分の持ち主、という意味なら、自分は「気分屋」でないということになるのだろうか。
これはもしかすると、自分のかかわってきたデザインという職業がはぐくんできたものという気がしないでもない。デザインされたものを受け取る側の人は、それによって本人の気分が(できればいい方向に)左右されれば十分だ。一方、デザインを送り出す側は、自らの「確固たる気分」にしたがって、それが乗りうつって受け手に伝わるように、表現をまとめ上げなくてはならない。私はそういう枠組みのなかに自分自身をおいてきた。
(120127)

2012年1月14日土曜日

現象とデザイン


「現象」には、過去現在未来に属するものがある。それらは単に時間性のちがい以上の差があるような気がする。
過去の現象にかんする記述、それがもっともふつうに語られる「現象」。過去の現象は、もう動かすことができない。それはそれとして受け止めるしかない。「(意図や目的はともかく)現象的に(=結果としては)こういうことが起こった。」読み解かれるものとしての現象という側面である。
現在の現象は、いま、ここ、で対処する対象としての現れである。その現れがよいものであれ、悪いものであれ、我々はそれをどう扱うのかを決めなければならない。現在のそれは、可能性の範囲内で動かすことができる。それはまさに動かすべき対象、変化させるべき対象として目の前にある。
未来の現象。それは造られる対象としての現れである。これはまさしくデザインの問題。その現象がどのように人との関係を切り結ぶべきかを問う。デザインは「現象」そのものを造り出すというより、それが起きるようにいろいろなものを配置する。デザインは希求や願望をすくい上げる装置だ。
(120114)