2010年12月8日水曜日

デザインを教えること

今日、教えているT美大プロダクトデザインコースの卒業制作最終審査会。みなさんご苦労様でした。
他の先生方もおっしゃられていましたが、今年の発表はどれも安心して聞けるものでした。O先生いわく怒り出したくなるような発表は一つもなかったと。うん、本当にそうでした。(でもね...、がこの後に続くんだけど、それはまたあとで。)
私は本当に、デザインということを教えることができるのかどうか、よくわからなくなっています。学生達の課題に「私なり」の正解を出すことはできる。でもそれは「私のデザイン」でしかない。100人のデザイナーが同じ対象をデザインしたら100のデザインが出てくる、その状況はそのままに、それを競わなくてはならない。いつかプログラマにそういうことを言ったら、工学では100人がやっても到達できる1つの答えがあることに意味がある、といって笑われました(決して悪い意味ではなく)。でもそれがそうなら、私はいったいデザインの何が教えられるのだろうか。
でも、こう思いたい。デザインすることのソウルというかスピリットのようなもの。(日本語で言うべきですね、つまり)デザインの精神(というと「精神論」という言葉が頭に浮かんできて、しょげる)。つまりデザインって楽しいことなんだよ、ほらねっ、ていう感じを共有できたらな、と思う。厳しいこともたまに言っているかも知れないけど、厳しいことも(種類によっては)楽しいことだ、というのが私のスタンス。楽しいハッピーなだけのストーリーはおもしろくない。甘いだけのお菓子がおいしい、というのは子供さんだけでしょ。おいしいチョコレートは苦いんじゃない? プリンにかかっているカラメルシロップの苦みは大切なものでしょ。
そのためには、もっともっと自分にとってのデザインの苦しい(?)楽しさをピュアに思い出さなければならない、と反省する。理屈は置いておいて。

でもね。なんだか、物足りない。それは学生の作品に感激していないから? 満足していないから?
そうではなく、たぶん、こういうことかもしれない。デザインはどこまで行っても、いつでも、かすかに、不満が残るものだと、いうこと。現時点で学生はベストを尽くしたといっていい。でも「だからこそ」かすかに残る不満(それは根本的にデザインが抱えているもの)が、それと知れるのだと。ベストを尽くしていなければ、やり残しの中に「かすかな不満」は紛れてしまって見えなくなってしまうのだと。
そういう活動って、いとおしい感じがする。生きた活動って感じが。
(101208)