2010年9月23日木曜日

ダブルミーニング

ひとつの言葉が複数の意味を持つ、
ひとつの料理が複数の味を持つ、
ひとつの作品が複数の価値を表す、
ひとつの人生が複数の大切なものを持つ
複数の価値が和音のように響き合う
複数の楽器の音色がよりそい、反発し合う交響楽
芸術や人の営みの味とはそういうものではないか。
(100923)

2010年9月22日水曜日

想像力と現実に起こること

検事の何某がFDの証拠を捏造して、無辜の人を陥れようとした事件。あいた口がふさがらない。
わたしにとってこの事件は、こんなチャチな考え方をするチャチな人間が良識の最後衛(宗教なき人にとっては、自分の良心以外での正義の実質的なうしろだて)に「居うる」という事実の「再」確認を迫った。
自分はこういうことが「起こりうること」を識っていたと思う。しかし識っていたことを忘れていた。
どんなに卑劣な犯罪も汚辱にみちた行為も、それが頭で想像できる範囲であるかぎり、それは起こりうるということは、必然であって、驚くべきことではないと思う。もちろん、本当に気高く自己犠牲的な無私な行為についても同じことだ。
人間の想像力の振れ幅は右から左へ非常に大きい。想像を絶するなんてことなんてほとんどないといってよい。(あるとすれば、それは想像力が不足しているのではないか。)
そして人は想像したことを、物理的に不可能でないかぎり実行に移す。60億を超す人口がいるのだから、それはかなりの高確率で起こる。だからこそ、そういったことを前提としてシステムは考えるべきであると思うのである。
(100922)

2010年9月20日月曜日

上には上がある

山に登ると頂上に見える頂がある。そこに到達すると、実際には頂上ではなくそこは単なるコブに過ぎないことがわかる。そして遙か上に本当の頂上と見える頂がある。しかしそこにたどり着くと、それもやはり通過点でしかない。それでも登山の場合はいつしか頂上にたどり着く。
それに比べると人の生き方の行程においては頂上というのはない。それにそもそも別に頂上なんて目指さなくてもよい。ひたすら下ってもよいし、途中で見つけた美しい湖のほとりに骨を埋めてもよい。
しかしそれ故に、頂上を目指す行為もまた崇高なものだ。(自分としてはただそういった事情を知っていたいと思う。)
(100920)

2010年9月18日土曜日

アートとデザイン

「情報デザイン入門」(渡辺保史)ずっと前に買ってあって、会社の本棚に置き去りにされていた。冒頭の情報デザインの整理は普通の人にもすごくわかりやすくまとまっているなと思った。また情報デザインは、どういった分野にも、そして誰にでも必要なものだという主張は強く同意できる。
しかし中盤以降に紹介されている内容は、私にとってはデザインというよりアートの作例のように思えた。「情報アート」という言葉はないと思うけど、それらの活動は私にとってはデザインとは呼びにくいものばかりだった。
チャンスがあれば、ぜひ筆者にデザインとアートに対する思いを聞いてみたい。
(1)デザインとアートの違いをどうとらえているのか? 差異はあるのか?
(2)取り上げている作品をデザインと呼んだ理由は?(なぜアートと呼ばなかったのか)(あ、「情報デザインの本」だからですかね?)

というか、私自身がアートとデザインの線引きを示す方が先だね。
微妙な作例はあると思うけど、自分としてはかなりはっきりとしているつもりなのだけど...。
いずれそのことは書かなければならない。
(100918)

2010年9月14日火曜日

アフォーダンス

D.A.ノーマンが「誰のためのデザイン」でアフォーダンスを取り上げて久しい。当初インターフェースデザイン、あるいはデザインを読み解くすばらしい鍵のように思われた。しかし今あらためて考えてみると、それによって直接にデザインの問題が解決したわけではなかった、と私は思う。
自然物にせよ人工物にせよ、そこに存在するモノが人間に向けて(動物に向けて? 何らかの認識体に向けて?)何かのメッセージを発していると考えることは、可能であるとは思う。それによって話がわかりやすくなっているかも知れない。しかし、そう捉えることによって、いったい何が見えてくるのかよくわからなくなった。
そのドアの取っ手が引くように見えることの要因は、モノ側にあるのではなくやはりそれを見る人間側にあるのである。そしてその形が引くように見えること自体に普遍性はないと思う。つまりこういう形は絶対的に引く形であるということでなく、特定の時代や文化を背景として、そのように捉えられる、ということだ。ところ変われば品変わる。
事実を単純にいうなら「今の多くの使い手にとって、この形状は、引くモノと見られる傾向にある」ということにすぎない。もちろんデザイナーは、その形の見えが引くモノと捉えられることを、知っていなければならない。というか考え深い、というか普通のデザイナーはそのことも、そしてそれ以上のことも知っているし、知っていた。もっと言えば、そのことに心血を注いでいた。その中で時に失敗作はあるだろうし、制度として正しい方向付けができなかったデザインもあるだろう。だからといって、心理学者が解き明かす前には、デザイナーがそういったことを知らなかったかのように語ることは、ふー、許し難いと思う。大雑把にいってデザイナーとは、まさしくそういうことをやってきた職業なのだ。
(どうもノーマンのことになると、エキサイトしてしまっていけないですね。)
もう一度ギブソンをしっかり読まなければならない? もう読まなくてもいいかな?
(100914)

2010年9月11日土曜日

9.11

私自身は、どちらかというと偽善者だと思うが、偽善者をはげしく糾弾する態度も、また自ら名乗る偽悪者も、基本的には角を一回だけ曲がっただけの偽善者に過ぎないと思うのである。
善を説くことも善を糾弾することも、非論理性を内包せざるを得ない、と直感的に思う。つまり、言葉で善を語るべきではない、ということだろうか。
(100911)

2010年9月9日木曜日

プロダクトデザインの資格認定

プロダクトデザインの資格認定の動き。JIDA。
デザインに関する資格認定について。私には何となく自身の資質を放棄しているように感じる。
確かに日本においてデザインの地位(フィーも)がなかなか高まらない、という現状はある。こんなに意味も価値もある活動なのに、あまりに本当の意義が理解されていないと私も強く思う。だからといって「資格認定」というお墨付きの形で、その意義を説明抜きで納得させようというのは、結局自身の首を絞めることにならないだろうか?
本質的な問題は、デザインの意義が「理解されていない」ということにあるのだと思う。デザイン文化の本質的な尺度は、そこに住む人々がある一定の水準でデザインを理解しているということなのだと思う。
デザインの意義や評価に関する日本での一般の人達の状態は、一言で言えば思考停止、判断停止ということなのだろうと思う。決して意味がないとか価値がないと断定的に考えているわけではない。少しは考えては見たけど結局よくわからない。人の話を聞いたり本を読んでも答えがまちまちで本質的なことがみえない。じゃ、とりあえず考えるのを止めて、100円ショップで買った茶碗でお茶でも飲むか、と...。
こういった事態に対して「理解されること」に優先して、とにかくお墨付きなんだから、これはいいものなんだ、という思考停止をさらに助長する形で解決を図るのは、最終的に事態をさらに複雑にして悪化させることになると思う。仮にそれがうまくいって、よいデザインはそういう過程を経なければできないのだからお金もかかって当然だ、となってデザイナーが多少裕福になったとしても、結局デザインの真の理解が貧しいままでは、デザインが泣いちゃうよね。
じゃあ、どうするか。理解されるように不断の努力や説得を繰り返すしかないのではないですか。そのことにイライラせず、長期的な視点で訴え続けるしかないでしょう。
お墨付き(=権威)は、ある意味でもっとも反デザイン的なものではないかと思いますが、どうでしょうか。

2010年9月5日日曜日

デザインの採点

今朝おき際のベッドで、T美大のデザインの採点方法について考えた。
こういう方法はどうか。 取り組みの深さとか、作品の完成度の高さとか、デザインが本当にわかっているかとか、授業で伸びたかどうかとか、人柄とか、出席率とか、いろいろあるけど、私(教師)がクライアントあるいは上司だったらどう満足したか、を基準とすること。次の機会にもその人にデザインを頼みたいかどうか。
会議(授業)に半分も出てこないようなデザイナーには作品がよくても強い不信感を感じる。(「もうお前には頼まん!」)自分のデザインの受け手が、不信感を抱く可能性がある、ということに想像力を働かせるべきである。それはデザイナーとして必要な技能だ。
もちろん嫌でも頼まざるを得ないほどの作品レベルなら、しかたなしに次にも頼むかも知れないけど。しかしもし自分の作品にそこまで自信があるなら、もう学校なんて来なくてもいいよな、と思う。
来年は、そのように事前に伝えようと思う。
(100905)

理解することと判断すること

理解することと判断すること、それらはもちろんリンクしているのだが、基本的には別の種類のことだと思う。判断は一つの個別の能力だ。
よく判断するためにはよく理解していなければならない、というのは大まかには正しい、「かも」知れないが、理解しているから判断できるかというとそうでもない。また理解は判断の必要条件とも一概にいえない。つまり、理解していなくても判断は可能だとも思うのだ。(もちろん、判断できているのだからそれはそれで、それもある種の理解なのだ、というくくりかたも私は認める。それは知識フレーミングの問題。)
現象的にとらえた方がすっきりするのかな。人が何かを理解しているかどうかは、その人の自覚に関わることだ。だから端から「彼が理解しているかどうか」を言うことはできない。ある人の判断が行動につながったとき、それを見た人がその行動=現象に適切さを感じれば、「ああ、あの人は本当に理解しているんだな」と思う、とそういうことだ。しかし、それと本人がわかっている、と思っていることは別のことだ、と言いたいのである。
(100905)

理解のカタチ

理解のカタチが一つであるかのように語る、考える、あるいはそう書かれているもの、そう発言する人には細心の注意を払うべきだ。たとえば「文字ではなく、絵にすれば誰でもわかるようになるんですよ!」というような。
それが間違えているという意味ではなく、そうでない理解のカタチが必ずあるということを絶対に頭から外してはならない。たとえば、文字ではなく絵で表現することは本質的に重要なことであるのだけれど、文章的に理解したい場合や人は必ずある。
それから、「理解しやすさ」というものが一つの尺度で測れない、つまり一次の数直線にプロットできない、ということも重要である。ワールドカップで得点王を決めることは簡単だが、MVP(最優秀選手)を決めるのは簡単ではない。評価者の意見も割れるだろうし、納得のいかない評価員もいることと想像できる。
(100905)