2010年7月25日日曜日

道具と機能の関係

われわれは、ある道具を作るときに、つい「機能」を盛り込もうと考えがちだが、本来機能は一つ二つと数え上げて、道具に「付与する」ようなものではなく、使う人が自然と道具の中に見いだすものだったのだと思う。
われわれデザイナーにできることは、使用者が自ら用を見いだせるように、デザイン実態をしつらえることではないか。なんだかうまく考えていることを表現できていないように感じるが、要はあまり作り手側が、機能を固定的に考えすぎないように、ということ。
マーケットに流布している製品のカタログの最後のページを飾る「機能表」を見比べるような競争から、デザイナーは一歩、身を引いていなければならない。作り手側が考えもしないような思わぬ使い方を使い手がするなら、その製品は成功であって、もし想定された使い方でしか使われないとしたなら、その製品は失敗なのであろう。
(100725)

2010年7月11日日曜日

統合的な理解

分析(Analysis)と統合(Synthesis)という分け方ある。自然科学を母体とする工学では分析が重んじられるが、工学の目的が物づくりに置かれるならば、統合に関するスタンスを明快に確立することが必要であると思われる。
分析は現存しているさまざま事象を知るため、理解するために行う行為であると考えられる。これに対して統合は、何かを作り出すことである。これは大筋では了解できることではあるが、分析=理解、統合=作り出すこと、と簡単にまとめるべきではない、とも思う。
ここでは「統合的な理解」(Synthetic Understanding)ということを考えてみたい。理解するためにも統合という観点は必要だ。必要どころか、それがなければ本当の「理解」とはいえないのではないかと思う。分析、つまり小さく切り刻んでなんとか了解できる単位にした後、それらを完全でないかもしれないが統合を試みる。その統合が正しいと思えるとき、はじめて一段上のレベルでの理解が得られたことになるのではないか。
物事を深く理解している人が持っている智慧、知識とは、分析的な部分の知の集合を超えたものだと思う。ゲシュタルト心理学でいう、部分の集合が全体ではない、ことの裏返しで、真の理解とは全体をそのままに理解しているということで、それは部分の理解の集合ではない。

デザインが統合に関わっている、という意味は、デザインとは何かを創り出すことであるということと同時に、デザインの方法は統合的な理解を目指し、指向しているのだと、私は思う。


ところで、フランスパンを手で食べやすい大きさにちぎって食べますよね。すると大量にパンくずが出ます。でもフランスパンの一番美味しいところって、その「くずであった部分」なんじゃないでしょうか。もちろん、くずになってしまってからでは、それはそれほど美味しくはないのだけれど。(そんなわけで、行儀が悪くても、直接パンにかじりついてしまったりする。)
そういうものじゃないでしょうか?
(100711)

新しいデザイン学の構想

先週デザイン学会があったが、その中で新しい「デザイン学」のアプローチが提示された。それはデザインの内的な進展というより、それまでデザインと直接に関係を持たなかった工学など分野との学際を目差しているものと、私は捉えた。とりあえず自分としてはこの活動を支持したいと思っている。
 デザインと工学は物を作るという現場を共有しているにもかかわらず、これまではあまりその関係性を正面から取り上げては来なかったように感じる。自分の知るかぎりでは、一部の先端の工学者が先験的にデザインの本質的な意味と融合の必要性を説いてはいたが、実質的な学際は存在しなかったのではないかと思う。
今回のデザイン学へのアプローチは、そういうことを目指しているのだと私は理解した。

 自分なりの理解としては、次のような流れになっている。
まず、工学は自然科学を基礎としている。そして自然科学の方法論の基本は事象の分析(Analysis)にある。したがって工学もそのもっとも深いところで「分析」を活動の基礎においている。少なくとも自分にはそのように見える。ちなみに自然科学の母は数学であり、数学の母は論理学ということになるのであろう。したがって工学における物づくりとは、分析に基づく効率性の高い無駄のない機能性あるいはタスク遂行の実現ということになるのだと思う。(たぶんこれは簡単すぎる解釈で、実際にはもっといろいろな立場があることだと思う、ということで先に進める。)
 デザインは芸術を基礎としている。(、と述べたいところだが、デザインに身を浸す人間としては、それは一面的なとらえ方だが、と一言いいおいてまた話しを先に進めてしまう。)芸術の本尊は、ものを作る、あるいは何かを表現するということである。これを分析に対比させて統合(Synthesis)と呼んでいる。ここでの作られ方、表現の根本にあるのは、作られたものを見たり受け取ったりする側の「人間」としての「受取り」である。(ここは我ながら重要な指摘であると思う。)
 21世紀初頭の現代における物づくりは、たとえば仕事のための道具のようなものであっても、効率性と機能性だけでは語れないところに来ている。特に昨今のコンピュータ関連の道具達は、道具のありかた自体が人間に近づいている。象徴的な意味ではロボットはもちろんそうだし、ソフトウェアあるいはネットワークという巨大な知的構造物は、ものを持ち上げたり運んだりする力仕事ではなく、人間の知性や感性の部分に直接的にタッチしてくるものである。
 これらの前提を並べれた上で見えてくることに多言を要しないと思うが、デザインと工学を「融合」(あるいは「統合」、いずれにしても表現としては適切でない気が多々するが)した、新しい「学」を構想することは必至のことであると思える。
 ここでデザインと工学以外の分野を排することを意図していない。私の意識が回らないだけで、もっと多くの分野も関係性があるのだと予感的に思う。

この言明の難点は、そういうことは昔から多く言われてきたし、行われても来たのである、という切り返しに対して、あまり説得力がないことである。ということで、さらに今までとはどう違うのかを、はっきりさせていかねばならない、と思う次第であるが、今はここまで。
(100711)

2010年7月8日木曜日

機能

思えばずっと昔から「機能」という言葉に、なんとなくざらついた感触、というか、いつも括弧付き(欧米人が両手の人差し指と中指を二回握りながら話すような)でしゃべっていたような気がする。日常でももちろん普通に使う言葉だし、嫌っているわけではないが、つねに距離をおいて自分の仲間ではないことを表明しつつ使ってきた。そして、その理由が今突然、何となくわかったような気がしている。
「機能」という言葉は、すでにそこに存在しているモノやコトに対して、その一部分を切り出し文節化して、その部分(物理的な部分である場合もある)に名付けたものである。そしてその分節化は、恣意的なもの、ないし慣習的なものであるように思える。しかし、そうやって切り刻んだ部分は、どこまでいっても部分でしかないのに、機能を網羅して語ることによって全体が語れるように錯覚してしまう傾向があるように思う。それが違和感の元になっている、ということだ。
(100708)

2010年7月6日火曜日

はやり言葉

言葉あるいは概念には次のような傾向があるように感じる。
個人的に、流行語やはやりの言い回しを使うことは好きではないしどちらかというと、意識的に避けている。しかしある言葉が流行ると、その言葉で表されるシーンや実態が増えるような錯覚におちいる。
たとえば、最近「だだもれ」という言葉が、一部で流行っている。何かが漏れっぱなしになってしまう状況を表す言葉だが、その言葉が使われ出すと、そう言って表現すべき状況が流行に乗ってくる。(先日、T大のメディア論のM先生が朝日新聞の中で使っているのには笑えた。)
これは、たぶんその状況を感じる感覚の回路が開かれて、さらに反応しやすくなるのだと思うが。
(100706)