2010年7月11日日曜日

統合的な理解

分析(Analysis)と統合(Synthesis)という分け方ある。自然科学を母体とする工学では分析が重んじられるが、工学の目的が物づくりに置かれるならば、統合に関するスタンスを明快に確立することが必要であると思われる。
分析は現存しているさまざま事象を知るため、理解するために行う行為であると考えられる。これに対して統合は、何かを作り出すことである。これは大筋では了解できることではあるが、分析=理解、統合=作り出すこと、と簡単にまとめるべきではない、とも思う。
ここでは「統合的な理解」(Synthetic Understanding)ということを考えてみたい。理解するためにも統合という観点は必要だ。必要どころか、それがなければ本当の「理解」とはいえないのではないかと思う。分析、つまり小さく切り刻んでなんとか了解できる単位にした後、それらを完全でないかもしれないが統合を試みる。その統合が正しいと思えるとき、はじめて一段上のレベルでの理解が得られたことになるのではないか。
物事を深く理解している人が持っている智慧、知識とは、分析的な部分の知の集合を超えたものだと思う。ゲシュタルト心理学でいう、部分の集合が全体ではない、ことの裏返しで、真の理解とは全体をそのままに理解しているということで、それは部分の理解の集合ではない。

デザインが統合に関わっている、という意味は、デザインとは何かを創り出すことであるということと同時に、デザインの方法は統合的な理解を目指し、指向しているのだと、私は思う。


ところで、フランスパンを手で食べやすい大きさにちぎって食べますよね。すると大量にパンくずが出ます。でもフランスパンの一番美味しいところって、その「くずであった部分」なんじゃないでしょうか。もちろん、くずになってしまってからでは、それはそれほど美味しくはないのだけれど。(そんなわけで、行儀が悪くても、直接パンにかじりついてしまったりする。)
そういうものじゃないでしょうか?
(100711)

2 件のコメント:

morozumi さんのコメント...

"統合的な理解" まったくその通りだと思う。
話を聞いただけ,本を読んだだけでは,対象を理解できないことが多い。作り出す・体験することによって初めて“読んだこと”“聞いたこと”を理解し,物事がつながる。
実際に作るとこは,読むこと・聞くことによる理解の深さとは異なる深さを要求するので,理解が進むのであろう。

50代半ばで学生と一緒にプログラミングの初歩を学んでいるが,なかなか理解できない。
しかし,すこしずつでも実際のプログラムを創ることによって,理解は進んでいると思う。

デザインの学びはここにある,と確信する日々である。

og さんのコメント...

コメント、ありがとうございます。
理解とはアクティブな行為というか、アクティブでないと理解に至れないのかも。