2004年5月25日火曜日

人間中心設計

図式:
自分の心と体にフィットしないモノやシステムが、気が付いたら自分の回りにあふれていた。つまり、コンピュータ関連のモノたちである。

これらには大きな効能があって、もはやそれなしの状態には戻れない。

これらは偶然の産物ではなく、人間が人間の役に立つようにと、わざわざ意図して作ったものである。それなのに、使うことによって得られるはずの満足感が得られなかったり、時には使うほどにストレスがたまったりする。

作られたシステムは常に十全ではありえない、とはいえ、これはどこかおかしいのではないか。

もっと人間を中心においたモノ作りをすべきである。そのための設計方法論を立てよう。
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設計方法論というものは、設計結果のモノで判断されるべきではないのか?
設計方法論の「正しさ」というのは、常にそのように計られてきたのではないか。
つまり、「人間中心設計」(プロセス)というものあったときに、それが正しいかどうかは、それによって作られたモノが本当に使いやすいものになったかどうかによって判断されるべきものと思う。
現状では、ISOで謳われているから、ノーマンやらニールセンという大先生がいったから、ということによって正しいとされているにすぎない、気がする。

ISO 13407 は、プロセス規格、ということである。
何らかのプロセスを守ることによって、結果のクオリティを保証しようとするのは、この場合特に危ういと思う。思考停止、判断停止こそ、この問題における解からは遠ざかることを意味するのではないか。
例えば、汚染物質を出さないために、最低限これだけの処理プロセスを遵守しなければならない、というような形でプロセスを規格化しようというのなら話はまだわかる。
また、プロセス規格というのは、最低限これだけは守りなさい、という下限を示すのにはよいかもしれないが、これを守るのが望ましい、とある意味で上限を示すのはおかしいような気がする。つまり、それを守らなくてももっと上位のレベルの結果が得られるかもしれないことを示唆していると捉えられる。

とにかく、産業界臭がする。

人間中心設計:当たり前すぎる
その中に、いろいろな「流派」や「思想」があってよい。それらのもっと具体的な「解決案」の方法論が1000個ほど出てこなければ、実りのあるものにはならない。

しかし、誰が一体に、これに反対できるのだろうか?

デザイナーというのは、ずっとそのように仕事をしてきたのだと思うし、そのように言うこと自体、デザイナーを馬鹿にしているような気がする。
デザイナーがそれを言うとすれば、自分が優れたデザインをできていませんでした、といっているようなもの、という気がする。
(040525)

2004年3月10日水曜日

オブジェクト指向

オブジェクト指向とは、人間が行っている事物に関する認識の仕方(=概念化)を、一つのモデルとして形式化した認識モデルである。
実際には、人間にかぎらず多少とも高等な動物が行っているであろうプリミティブな認識のパターンである。

動物が自然界で生き抜いていくためには、環境や状況の変化に対して適切に対応していかなければならない。逆にそういった変化に積極的に適応していく、ということが、動物の定義かもしれないが。

例えば人が犬を見るときに、実際に見ているのはポチやクロやチビといった個別の個体としての犬である。自然界に適応していくときに、一つ一つの個体を認識して、あの犬はこのように見えてこのように振る舞う、また別の犬は別の見えや振る舞いを持つ、とバラバラに識別していては実際に出会う犬の数だけ概念を用意しなければならない。これでは非効率なばかりでなく発展性がない。
そこで人間(動物)がとった戦略は、抽象化という戦略である。つまりポチやクロを直接扱う代わりに、「犬」という一つ上のレベルの型を想定する。犬という型は、うれしいと尻尾を振るものであって...とポチやクロをくくる枠組みを考える。同じように、タマやミケをくくる「猫」という型もあるだろう。犬と猫は型が違う。しかしこの抽象化は、さらに上のレベルの抽象化へと自然と進む。魚も一つの型を構成するけれど、犬や猫と並列に存在すると言うより、犬や猫の一つ上の型、結論から言えばほ乳類という抽象的な型で、いったんくくっておいてから、魚型を置いた方がうまく説明がつく。
これは、たぶん人間だけでなく、チンパンジーや犬自身も行っているであろう。例えばオオカミにとって、自分より小さい小動物は一個一個の個体として見ているのではなく、おそらく「食物」というくくりで捉えているだろう。

(040310)

2004年3月5日金曜日

音楽と雰囲気

音楽と雰囲気(匂い)、デザイン

遅めの朝をベッドで迎えて、ふと何か、昔体験した気持ちがよみがえってくることがある。なつかしくて、あるよい気分。具体的にどういう体験であったかはわからない。
そして、その瞬間が去るとつなぎ止めることはできない。言葉で説明できないし、そもそもそれを直接に示す言葉(名前)はないのか、行き着かない。ただ、それがやってくるのを待つだけ。
今言っているのは、"ひとつの気分"のことではない。そんな気分はたくさんある。またひとつひとつ特定できるものでもない。やってきた気分は2ヶ月前にやってきた、あるいは5年前にやってきた気分と同じなのか、ちがうのかよくわからない。でも、あぁまたひとつの気分がよみがえったと感じるだけ。
何が引き金になっているのか?
それもはっきりとはわからない。その時の気分。

(040305)

2004年3月2日火曜日

メディアはコンピュータ

要するに重要なことは、コンピュータはメディアである、ということ。極端にいうと、メディアはコンピュータである。

マルチメディアとかハイパーメディアとか、×××メディアと、新しさを強調する形容詞を何かとメディア(広告)は、つけたがるわけだが、マルチもハイパーも、はじめにA.Kayらが述べた時に入っていたわけだ。
たぶん、そう遠くない将来メディア(形容詞なし)は、ふつうにあるコンピュータのことをさして使うようになっているだろう。
それが本質的なものであるなら、一般名称になっていく。

テレビのことを、VISUAL RADIOといったとか、いわなかったとか。
テレビはテレビである。

(040302)

2004年2月14日土曜日

過程を楽しむ

たとえば、小説などの物語はあまり読まなくなった。20代の中盤以降。それは意識的で半分は欲求として。
物語を読んでいると、自分がその体験を直接していないことに大きな失望感を感じる。それから、どうしてものめり込んでしまうので、とにかく時間がなくなる。
そういう時間があったら、自分で直接何かを体験したい。(といって、元来積極行動派ではないわけで、人より余計に体験を積み重ねていたわけでもない)つまりはあせりを募らせていただけだったのだとは思う。
こうも思ってみたりする。何にせよ自分自身を高めるようなこと"だけを"したいと。小説を読めば、おもしろいけれど、でも自分がえらくなったわけではないと。で、なんとか自分に"得する"知識に関する本ばかり漁っていたのだ(いるのだ)。

でも、結局は物語を含めた体験しか自分を肥やすものはないのかも知れない。
問題は、その方法には時間がかかるということだ。(で、効率を考えて直接知識を得た方がもはやいいのでは...と思ったりするのだ。)

だから、過程を楽しめないと結果を得られないということ。

(040214)

2004年1月17日土曜日

恐れという感情

恐れるという感情は、人間が動物であった時からのもっとも原初的な感情だったのではないかと思う。恐れから遠い気持ちとして喜びがあったり、恐れに至る予感としての怒りがあったり。そして、恐れの反対は奢り?
また、恐れは、知らないことやわからないことに結びついている。お化けや死が恐ろしいのは、それが何なのかわからないから。
人は完全には知りえないものであることに対して、それを意識して戦くか、それにすら気付かずにいるのか。
今の時代は昔に比べると、あからさまな時代だ。つまり何でもオープン。それ自体はOKなのだけれど、奢りによるオープンさ、という感じがする。
恐れ、あるいは畏れというのは、マイナスの感情ではなく、尊ぶべき大切な感情だと思う。こういう時代だからなおさら、正しく恐れることが、特にデザイナーにとっても、鋭いスキルになるのではないか。
(040117)