2010年11月6日土曜日

デザインプロジェクト

今、関わっているのデザインプロジェクト。
デザイナーも開発者も経営者も企画者も、その立場として、そして個人として、各自のシステム体験(それは作り手としての体験も使い手としての体験も含んだもの)に基づいて発言し議論をする。各自の体験は、時に失敗体験であり時に成功体験である。もちろん自分の体験で述べてはいるが、皆の頭の中にあるのは、使用者一般の人のことだ。それからもっとも幸いなことは、「世間で言われていること」を述べる人は一人もいないことだ。
失敗体験とは、自分として理解不能だった概念、勘違いを引き起こされた表現、何度も繰り返してしまった操作ミスなど。成功体験とは、自分が出会った使いやすさに感激したシステムや、自分が発見した理解のルール、苦労の末たどり着いた自分としての結論、自分が創出して成功したアイデアなど。それやこれやを頭の中に抱えて、みんな議論に臨んでいる。
こういった議論は多くの場合収拾がつかず、会議は果てしなく深夜まで続く。そしてたいていの場合、体力の限界、声の大きさ、地位の高さ、そういったものに結論をゆだねることになる。そして何故か、専門家=デザイナーの見識に任されるということは少ない。
そして残念ながら、そうやって体力や声の大きさや地位などにゆだねられた結果が、よい結論である確率は多くても半分には満たないだろう。
だったら、そんな議論はやめるべきだろうか?
そういうプロセスを両手を挙げて賛成しないが、私には新しいものを産むためには、ある程度しかながないと思える。そういうことは疲れるし不毛だからという理由で、結論をユーザビリティ評価などに委ねてはならない。客観評価というと聞こえはいいが、それは誰も責任を問えないものに、結論を委ねることではないか。そういった評価をするなとは言わないが、実際問題として議論の参考にできるような結論を導ける評価を行うことは、議論をする以上にむずかしいと私は思う。またユーザビリティ評価の危ない点は、議論を停留させ思考停止を引き起こす。客観性の衣をまとったユーザビリティ評価は、それが本当に持っている意味以上の力(権力)に、容易になりやすいということ。その結果に誰も反論できない。だって反論したり問いただす相手は、客観性の雲の中に消え失せているから。気をつけないと与えられた客観性は、場所ふさぎのでくの坊になる。そういった評価の先には、創造的な製品はあり得ないと思う。
私たちがとりあえずしなければならないのは、議論の精度とスキルをあげることではないかと思う。
もう少し時間をもらえれば、智慧も勇気も出てくるでしょう。
(101029)

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