1990年7月11日水曜日

デザインとコンピュータについて

私達は今、新しいデザインを展開しようとしている。その要求は私達の側にあるのではなく、社会の側にある、というのが私の認識である。もちろん、そうしたいという欲求が自分の中にあることは喜んで認めるところである。
その裏には、今までのデザインではだめなのだというアンチテーゼがあるのは言うまでもないことである。今までのデザインとは何で、それのどこがどうだめなのかということに関して、言及することは(あとでも述べるが)容易なことではない。というか、言葉で説明しようとすること自体に不可能性があるということがある。
といっていてもも始まらないので、いくつかのキーワードを通して、私の考える新しいデザインへのアプローチを試みてみたい。

1. コンピュータ
それへの理解なくしてはこの新しいデザインは理解できない。もちろんここで言っているコンピュータの理解とは、コンピュータの原理を理解するということではなく、コンピュータの本質を理解するということである。
もう少し引いた言い方をすると、コンピュータの本質を理解できるような感性を持っていなければ、このデザインを把握できないということなのだ。つまり、コンピュータの本質の理解がこのデザイン理解のバロメータになっているということである。コンピュータの本質を理解することとこの新しいデザインを理解することが極めて同質の問題を含有している。

2. メタ・デザイン
デザインという行為は、デザインするということがどう言うことなのか、あるいは「デザインするという行為やその思考」そのものをデザインするという自己言及という側面を持っている。このような再帰的な問題意識を持っているところにデザインの本質的なパワーがあると私は見ている。昨今、あらゆることにデザイン的なアプローチが叫ばれていることの裏にはこのメタ・デザインという構造的なパワーが要求されているのだと、今私は気づいた。

3. 問題意識
これは、最も重要なことである。現在の(旧来の)デザインにおける問題意識とは一体何だったのだろうか? デザインによって一体何を解決しようとしているのだろうか。問題は何だ? アメリカにおいては「デザイン」は「問題解決のための総合的なアプローチ」と捉えられている。まず、問題を認識できなければ解決しようもない。再度問う、問題はどこにあるのだ。デザインしたことによって解決したことは何なんだ。

4. マクロな視点
ミクロな視点も重要だが、ここで問いたいのはマクロな視点である。デザインが新しくなるというその変化は非常に大きなものである。決して流行的な一次的な変化ではなくデザインも含めた精神活動、思考活動における地殻変動的な変化である。あまりに大きすぎてほとんど目に見えないぐらいである。ほとんど視覚的に(あるいは言葉や論理=ロゴス)捉えることが不可能になっている。この変化を言葉で伝えることが困難であるというのはこういった理由による。小さい変化の積み重ねが、決して大きい変化ではない。(部分の総和が全体ではない。)

※コンピュータの定義(私が考える)
コンピュータ≠計算マシーン
コンピュータ≠省力マシーン
テクノロジーが進化してきて、いま人間の感性や思考に直接アクセスしようとしているのだ。何故か急にそれが可能になりそうなのだ。あるいは急にそれができることに気づいた。そのようにテクノロジーによって人間の感性や思考に直接タッチしてくるものを私はコンピュータと呼んでいる、と思ってもらってよい。別に今あるこのコンピュータの仕組みや形にこだわるつもりは更々ない。(もちろん、私にとってのとっかかりはこの機械としてのコンピュータであったが、もはやそんなことはどうでもよいことだ。)
曰く、コンピュータ=メディアである。(他にもあるかな?)
したがって、いま私達デザイナーに求められていることは、感性とは何か、思考とは何かというメタ感性、メタ思考を研ぎすますことなのだ。感性を感じる感性、思考を考える思考、それを常時持ち続けなければこのコンピュータ時代をデザインすることはできない。

※私の問題意識
上記コンピュータ定義に基づく、「コンピュータが人間の感性や思考を飛躍的に拡大するのだという認識」がまずあり、
A. こういった感性拡大マシーンであるコンピュータによって人間がハッピーになれるのだ。
B. そのことに、デザイナーを含めた多くの人が気づいていない、理解していない。
C. この感性拡大マシーンであるコンピュータを完成させるには、デザイナーが不可欠であるが、B.以上に理解されていない。
D. 実際にどうすればこのマシーンを完成させることがきるのかということに関する思考方法、方法論の模索。

(900711)