2010年11月30日火曜日

不動点を探して

私自身の価値や興味を構成している重要点の一つは、「普遍性」という観点である。普遍性とは、できるだけ多くの物事について、だきるだけ多くの場合に、成り立つ性質であり、それがなんなのか、とても気になる。言い換えると、条件がいろいろに変わっても変わらない不動点を見つけたいと思っているのだ。5年後、50年後に読んでも「ああそうなんだ」と思えることに気づきたい。 
不動点を見つけるためには、自分が動かなければならない。あるいは自分の視点をできるだけ大きな振れ幅で動かすこと。そうやって動的に見つめ続けてはじめて、動かない点が見えてくる。じっとしていては、何も見えてこないのだ。
(101130)

2010年11月29日月曜日

創造するということ

デザインは芸術と同様、何かを創造する仕事である。「創造する」ことの現象的な実体は、決めること、あるいは選択すること、判断することだ。ある問題に対して、Aでなく、Bでなく、Cを選びとることを決心すること。いろいろなレベルのデザインというものがあるけれど、どれも同じことだ。
もっともミクロなデザイン、私の行っているデザインの例で言えば、コンピュータスクリーンのあるシーンのあるアドレスにあるピクセルを「赤くすること」より正確にいえばRGBの値を決めることだ。また「赤くすること」の中には「青くしない」「黒くしない」など、多くの捨象を含んでいることにも意識を払っておきたい。
マクロなデザイン、たとえば社会システムのデザインも結局はある選択肢の中から他のすべてを捨てて、ただ一つの解を選びとることだ。創造と呼ばれている行為は、そういうことなんだと思う。絵画にしても音楽にしても行為としては同じだ。

もう一段、行為の階段を下りてみる。

a. 選択肢の群、つまり解となる可能性のあるものを列挙すること。
b. 選択の基準を、決めること。

a. は、つまりアイデアを出すこと。
b. は、つまりデザインコンセプトを決めること。

この二つが決まって、はじめてデザインという選択行為が完結できる。
注意したいのは、a. と b. は、この順序で起こるということ。この順序性は創造にとって肝要なポイントであると私は思う。
普通に考えると、選択基準があって選択肢を絞っていくのが自然な流れであるように思える。しかしデザインコンセプトは、デザインの条件ではなくデザインの結果である。多くのアイデアから可能性のあるものを抽出する過程で得られた抽象的な概念がデザインコンセプトである。はじめにデザインコンセプトが提示されてそれにそってアイデアを出していくのは、話が逆である。実際にはそのように進めるよう指示されることも多々あるのだが、その場合でも、出したアイデアがよいアイデア群であるほど、そのアイデアはデザインコンセプトをより生き生きと再定義しているはずである。
(101129)

2010年11月27日土曜日

デザイン思考

先日(101125)、HCD-net(*)が主催するサロンに出る。題は「デザイン思考とHCD」。
自分ももう30年もデザインをしてきたが、デザイン思考(Design Thinking)という考え方は、確かにあるように思う。そしてその思考方法が、いわゆるデザイン以外のいろいろな方面でも有効であると思っている。しかしもし「それは具体的にどういう考え方?」と聞かれたら、うまく答えられない。
発表者の田村さん、佐々木さん、山崎さん、三者三様に、デザイン思考のいろいろな側面を率直に語られていたが、デザイン思考が具体的にどんなものかは、最終的にははっきりと提示されなかった。私はそのなんとなくゆるい終わり方はよかったな、と思った。もしも、誰かがデザイン思考とは、ああしてこうしてああすることなんですよ、などとまとめたら、さぞがっかりしたと思う。がっかりというか、それは違うんじゃない、ときっと思っただろう。
私は、前にも言ったかも知れないけど、こんな風に考えている。たとえば工学は問題解決とものを作り上げていくということにおいてデザインと近いところにある領域であるけれど、その基本的な考え方は、正しいと立証されたことだけを使って、論理的に正しいやり方で、それを積み上げていく。だから再現性があるし、誰がやってもうまくいく。そうでなければ工学とはいえない。しかし、ものを実際に作りあげる現場では、すべて立証されたことだけを使って組み立てられない局面がたくさんある。たとえば自動車メーカーは、同じ日本という市場に対して各社各様の最適解としての新車をリリースしている。もしもすべてがわかっているのなら、どの自動車メーカーが作っても同じものにならなきゃおかしいでしょ。たとえば、マーケットも消費者も、ぜんぜん確実なものではない、そもそも消費者というくくり方が正しいのかもよくはわからない。そう考えたら、本当にわからないものの上にわからないものを重ねていくことによってしか、ほとんどのものは作れない。別に市場を持ち出さなくて、たとえば宇宙に送るロケットだって、つくる国が違えば、違う考え方のロケットになる。
この、よくわからない条件と問題に対して、とにかくあがきながらも解を求める行為を私は「デザイン」と呼ぶのではないかと思っている。だから「デザイン思考」といわれても、その内容はよくわからない。少なくともスッキリと明快に語ることはできない。もしも、ある一つのデザイン要素、たとえば自動車の「最適な配色」を決める方程式が導けたとする。そのときに、その方程式に具体的な値を入れて、来年の新車の「正解」の配色を決める、という行為を私はデザインとは呼ばないだろうということ。誰がやってもポンと正しい答えが出せる仕事をしている人は、デザイナーではなく、単なる「ボタンを押す係の人」にすぎない。違う?
だから正確にはデザイン(=デザイン思考をすること)は、よくわからないことをする、のではなくて、よくわからないことをすることを、デザインと呼んでいる、ということなんだと思う。

案内にあった『米IDEOの提唱する「デザイン思考(Design Thinking)」...これはもともとHCDプロセスを基礎として...』というのは、誤解を招きそうなフレーズだと思った。IDEDが確かに書物で言及したかも知れないけれど、デザイン思考という言葉も概念もずっと昔から存在したと思う。デザイン思考の中でも特に「IDEOが提唱するデザイン思考」というものは、あるかもしれないが、デザイン思考という概念をIDEOが発明したわけではない。同様に、HCDプロセスが存在するはるか以前からデザイン思考という概念はあったので、HCDプロセスを基礎としてはいないと思う。
それともサロンでは「IDEOの提唱するデザイン思考」についてだけ、語られていたってことだろうか???
* HCDは、Human Centered Designの略で、HCD-netはそれを推進するNPO法人。(http://www.hcdnet.org/)
(101127)

2010年11月10日水曜日

認識と世界

世界を変えること。
自分が変われば世界が変わる。世界とは自分が認識するところのものだから。


自分を変えること。
自分の性格や性質を変えるのはむずかしい。自分の認識を変えること。
自分について、他者について、世界と現象について。

人は一人では生きられないということの意味。
他者がいないと自分を認識できない。
他者という鏡に映すほかに自分を見る方法がない、ということ。
(101101)

正しい vs. おもしろい

先日デザインの研究会で、S先生のフリップにあった言葉。
技術は「知識」を対象としている。そこでは「正しい」ことを「説明」することが求められる。それに対してデザインは「実世界」を対象とする。そこでは「おもしろい」ことが「表現」されなければならない。
私はこれまで「正しさ」に惹かれてきたけれど、それはきっと「おもしろい」に結びついていたからだったのだろう。(これはよく考えると同語反復ですね。「惹かれていた」時点で、「おもしろい」が確定しているのだから。)
それではもしも、おもしろくない正しさがあるとしたら? そんなもの意味ないじゃん、と思う。(またしても同語反復だ。だって、意味ない=おもしろくない、といってもいいでしょう?)
とにかく、今さらだけど、正しいよりもおもしろいを上位において生きていきたいと思うわけだ。これは私がデザイナーだからそうしたい、ということではなくて、それが自然と思う自分だからこそ、デザインを選んだのだ、ということ。
(101110)

2010年11月6日土曜日

デザインプロジェクト

今、関わっているのデザインプロジェクト。
デザイナーも開発者も経営者も企画者も、その立場として、そして個人として、各自のシステム体験(それは作り手としての体験も使い手としての体験も含んだもの)に基づいて発言し議論をする。各自の体験は、時に失敗体験であり時に成功体験である。もちろん自分の体験で述べてはいるが、皆の頭の中にあるのは、使用者一般の人のことだ。それからもっとも幸いなことは、「世間で言われていること」を述べる人は一人もいないことだ。
失敗体験とは、自分として理解不能だった概念、勘違いを引き起こされた表現、何度も繰り返してしまった操作ミスなど。成功体験とは、自分が出会った使いやすさに感激したシステムや、自分が発見した理解のルール、苦労の末たどり着いた自分としての結論、自分が創出して成功したアイデアなど。それやこれやを頭の中に抱えて、みんな議論に臨んでいる。
こういった議論は多くの場合収拾がつかず、会議は果てしなく深夜まで続く。そしてたいていの場合、体力の限界、声の大きさ、地位の高さ、そういったものに結論をゆだねることになる。そして何故か、専門家=デザイナーの見識に任されるということは少ない。
そして残念ながら、そうやって体力や声の大きさや地位などにゆだねられた結果が、よい結論である確率は多くても半分には満たないだろう。
だったら、そんな議論はやめるべきだろうか?
そういうプロセスを両手を挙げて賛成しないが、私には新しいものを産むためには、ある程度しかながないと思える。そういうことは疲れるし不毛だからという理由で、結論をユーザビリティ評価などに委ねてはならない。客観評価というと聞こえはいいが、それは誰も責任を問えないものに、結論を委ねることではないか。そういった評価をするなとは言わないが、実際問題として議論の参考にできるような結論を導ける評価を行うことは、議論をする以上にむずかしいと私は思う。またユーザビリティ評価の危ない点は、議論を停留させ思考停止を引き起こす。客観性の衣をまとったユーザビリティ評価は、それが本当に持っている意味以上の力(権力)に、容易になりやすいということ。その結果に誰も反論できない。だって反論したり問いただす相手は、客観性の雲の中に消え失せているから。気をつけないと与えられた客観性は、場所ふさぎのでくの坊になる。そういった評価の先には、創造的な製品はあり得ないと思う。
私たちがとりあえずしなければならないのは、議論の精度とスキルをあげることではないかと思う。
もう少し時間をもらえれば、智慧も勇気も出てくるでしょう。
(101029)

デザインを学ぶ学生たちに

今、あなたたちは山登りの練習を終えて、デザインという山の登山口に立っている。これから向かう峰や高原、森の中の湖や、立ちはだかる壁、風わたる草原や落ちそうな尾根に、出会うだろう。雨の日も晴れの日も、雪の日も風の日もある。
今、大きな山脈を越えてきた私は、君たちに手を振って声をかける。山はすばらしかったと。夕日の山肌も、朝焼けの雲海も、吹雪の中に見えた山小屋も降るような星達も。私はこれから別のルートで、もう一度、頂をめざしたいと思う。
(101029)

今考えるべきこと

メディアも政治も日本は貧困(プア)であるとは思う。
いやそれでも日本は安全だし世界に誇れる国なんだよ、いやそれはもはや幻想に過ぎない...どちらの議論もまっとうだ。
何故プアなのか、どうしていつまでもそこにとどまっているのか、自分にはよくわかるような気がする。なぜなら自分は日本に似ているから。
つまり、たった今、何を考えるべきか、という視点が欠如しているのだ。日本全体、そして私自身、いったい今、何を考えたらいいのか、指し示すことができない。だから何をしようが、何を言おうが、「...ということもあるんだけどさ...」という語尾になってしまう。
今考えるのは、エコの話なのか、世界平和のことなのか、人の欲望についてなのか、それとも愛のことか、倫理のことか、科学のことか、快楽のことか、芸術のことか、デザインのことか、正義のことなのか。
そう思うのは、自分がだけがただ単に見えていないだけなのか。
そんなわけで、日本を糾弾することも擁護することも、今の自分にはできない。

ただ、そのことを背負っていること、それでも自分を愛する程度の愛がそこにあることを思っていたい。
いや、これは日本についてだけの話ではない。人間に対しての話なんだ。
(101025)

豊かさ?

これは昨日の朝に瞬間に感じたイメージなので、今はもう他人のことのように語るしかないのだけれど、それはこんなこと。
いろいろなことがうまくできなくなったり、わかっていたと思っていたこともなんとなくモヤモヤとしてきたりする。でもそんな中でときおり、当たり前のことの中に今まで考えたこともなかったような面が見えてきたりもする。それは気づかなかった人生のなんというか味のようなもの。
たぶんそれは、何かを失うことによってしか得られないような何か。たとえば、しみじみと浸るようなあたたかい悲しみとか、あるいは望んでもかなえられない願いを胸に抱えて生きる寂しさとすがすがしさのようなもの。
そういった体を吹き抜けるような寂寥感や焦燥感、はたしてそういったもののない人生が豊かと言えるのかどうか?

自分がデザインするものの中に、そのような深みというか味のようなものがにじみ出たらいいのだけれど。特に人が作って、使うソフトウェアやシステムは完璧なものたり得ない。であれば、不完全さは「完全でない」という以上の、何らかの綾になってもいいのではないか。
いや私個人の名前がでるとか、そういうことではなく、プロダクト、特にソフトウェアにはそういう人間の味が「乗って」いていいと思うのだけれど。感傷的すぎるだろうか。
(101023)

観念の幻または逃げ水

想いをもって語られた言葉は聴かれなければならない。人が生きることの目的の一つは、想いがのった人のことばを聞くことではないのか。憎むべきは想いとは無縁で語られたことば。

今自分の頭の目の前に、「想い」ということが意味する観念の全体イメージがはっきりと細部までが見えている。それは生まれてから今までの体験が凝縮されたものとも言えるし、今ここにまったく新しく創出したものともいえる。
それは細部を備えた完全なるイメージだ。だから結局それはないともあるともいえるものだ。
でも、確かにわかっていることは、このイメージはすぐにでも手のひらの上の雪のように、消えてしまうこと。
(101022)

道具と機能の関係

われわれは、ある道具を作るときに、つい「機能」を盛り込もうと考えがちだが、本来機能は一つ二つと数え上げて、道具に「付与する」ようなものではなく、使う人が自然と道具の中に見いだすものだったのだと思う。
われわれデザイナーにできることは、使用者が自ら用を見いだせるように、デザイン実体をしつらえることではないか。なんだかうまく考えていることを表現できていないように感じるが、要はあまり作り手側が、機能を固定的に考えすぎないように、ということ。
製品のカタログの最後のページを飾る「機能表」を見比べるような競争から、デザイナーは一歩、身を引いていなければならない。(機能表を見比べるのは楽しいことではあっても。)作り手側が考えもしないような思わぬ使い方を使い手がするなら、その製品は成功であって、もし想定された使い方でしか使われないとしたなら、その製品は失敗なのだと考えたい。
(100725)

モノづくり

最近いくつかのプロダクトに関わっていて、ある共通したパターンに遭遇している。それはデザイナーとプログラマの感覚の相違から来るものだ。それもかなりお互いの行為の深いところから発している根本的な違いのようだ。
私自身はいくつかのプログラムを自分で書いてきたが、基本はデザイナーという人間である。でもこのことに関しては、デザインはもっと強くプログラマに伝える必要があるし、プログラマはそれがどういう意味を持つのか「まじめに」深く考えるべきことである、と思う。

いくつかのプロダクトは、どれも今までのシステムの概念を打ち破ろうとする実験的、野心的なものだ。その立ち上げにデザイナーとして参画できていることは、画期的なことだと思うし、それだけにいい意味での気負いもあった。
これらのシステムは、いずれも使用者がそれを使って何か生み出したり発見できるような、ある種のクリエーティブなツールだ。
プログラマもデザイナーもどちらもものづくりに関わる仕事であるが、プログラマのそれは、集中的集約的なものだ。プログラムという成果物は、その他の人工物に比べて、高度に整合性を問われるものである。その中では何がどのようにできるのかを「一切を余すところなく」「一分の破綻もない」ように記述しなければならない。そのために、すべての関係する変数やデータ構造、ルーチンを頭の中に置いてコードを書き進めねばならない。だからプログラマがコードを書いている時には、まわりは一言たりとも話しかけてはならない。プログラムに集中できて「乗ってきた」ときは、自分が描く世界のすべてをコントロールできているような絶対的な支配感と高揚感がある。それは根源的な快楽を伴うといっても過言でない。ランナーズハイという言葉があるが、まさしくそういった状態で、エンドルフィンがおおいに分泌されていると思う。たとえばプログラマが彼らの道具であるテキストエディタに強いこだわりを見せるのは、手と頭を直結した一体感が思考を研ぎ澄まし続け、このハイ状態をいかに継続できるかに大いに関係しているからだ。
それに対してデザイナーの仕事は、包括的全体的、またあるときは発散的であるといえる。そして同じように全体性を大切にするものである。プログラムと違う種類のやはり整合性や緻密さが鍵になる。デザインにも課せられている条件や仕様はあるがそれは曖昧であり、条件と言うより希望あるいは方向性というレベルでしかない。したがってデザインは仕様が与えられたとしても、それをまず疑って、本当に何が求められているのかを類推あるいは創造することから始めなくてはならない。
(100724)