2010年11月6日土曜日

モノづくり

最近いくつかのプロダクトに関わっていて、ある共通したパターンに遭遇している。それはデザイナーとプログラマの感覚の相違から来るものだ。それもかなりお互いの行為の深いところから発している根本的な違いのようだ。
私自身はいくつかのプログラムを自分で書いてきたが、基本はデザイナーという人間である。でもこのことに関しては、デザインはもっと強くプログラマに伝える必要があるし、プログラマはそれがどういう意味を持つのか「まじめに」深く考えるべきことである、と思う。

いくつかのプロダクトは、どれも今までのシステムの概念を打ち破ろうとする実験的、野心的なものだ。その立ち上げにデザイナーとして参画できていることは、画期的なことだと思うし、それだけにいい意味での気負いもあった。
これらのシステムは、いずれも使用者がそれを使って何か生み出したり発見できるような、ある種のクリエーティブなツールだ。
プログラマもデザイナーもどちらもものづくりに関わる仕事であるが、プログラマのそれは、集中的集約的なものだ。プログラムという成果物は、その他の人工物に比べて、高度に整合性を問われるものである。その中では何がどのようにできるのかを「一切を余すところなく」「一分の破綻もない」ように記述しなければならない。そのために、すべての関係する変数やデータ構造、ルーチンを頭の中に置いてコードを書き進めねばならない。だからプログラマがコードを書いている時には、まわりは一言たりとも話しかけてはならない。プログラムに集中できて「乗ってきた」ときは、自分が描く世界のすべてをコントロールできているような絶対的な支配感と高揚感がある。それは根源的な快楽を伴うといっても過言でない。ランナーズハイという言葉があるが、まさしくそういった状態で、エンドルフィンがおおいに分泌されていると思う。たとえばプログラマが彼らの道具であるテキストエディタに強いこだわりを見せるのは、手と頭を直結した一体感が思考を研ぎ澄まし続け、このハイ状態をいかに継続できるかに大いに関係しているからだ。
それに対してデザイナーの仕事は、包括的全体的、またあるときは発散的であるといえる。そして同じように全体性を大切にするものである。プログラムと違う種類のやはり整合性や緻密さが鍵になる。デザインにも課せられている条件や仕様はあるがそれは曖昧であり、条件と言うより希望あるいは方向性というレベルでしかない。したがってデザインは仕様が与えられたとしても、それをまず疑って、本当に何が求められているのかを類推あるいは創造することから始めなくてはならない。
(100724)

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