2006年11月23日木曜日

「性質」というものに関する性質

一見性質はそれが付属する何かに、付属している。(?) つまり「赤いリンゴ」において、「赤い」性質はリンゴに付属する。(「属性」という言葉も同じ)
オブジェクト指向においては、オブジェクトとプロパティ(アトリビュート)。しかし、あるオブジェクトの属性であっても、そのオブジェクトに属しないようなものもある。たとえばある食べ物でもあるリンゴにおける「おいしい」という属性は、そのリンゴに属するものではあるけれど、それを味わう主体(=あなたや私のような人)があって、その主体がリンゴに与えた評価が「おいしい」ということなので、「おいしい」はそのリンゴに属しているわけではない、という見方ができる。
そのものを表している、あるいはそのものの有り様を記述したものではあるけれど、実際にはそのものが、それを所有しているわけではないということはたくさんある。しかし、それもひっくるめて「性質」と呼ばれてしまうことが多い。
(061123)

美しさは...

人間の感覚を否定してはならない。どんなことでも欲求しうる。どういう欲求が正しいとか、正しくないととかいうことはない。ただ選びとるだけだ。何かを選ぶも選ばないも自由。選びとるその姿が美しいということはある。あるいはもしかすると、選びとる、ということの中にしか美しさというのはないのかも知れない。そういった姿勢とか、意志とか。
何も選ばないということに関して、美しさは無縁かもしれない。(何も選ばないことを選ぶことは美しいかも知れないが。
あるいは美しさというのは、意志に関する性質なのかも知れない。
美しさを感じるというのは、そこに何らかの強い意志のあり方を見るからではないか?
自然の美しさというものにせよ、神の意志(←あとからの解釈づけではあるにしても)のようなものを感じる。
実際はもちろん逆で、美しさをまず感じ、それ故にそこに何ものかの意志を予感し、それを他に表現できなのでこの場合は「神」と呼んだ、というのことなのだと思う。
あるいは、美しさは力によって生まれる?
美しいと感じるものには力を感じる? ...YES
力を感じない美しさというものはある? ...NO かな。
(061123)

リアルの中で生きている

みんな自分のリアルの中で生きている。「本当らしいこと」「価値があるような気がしてしまう何か」を表す尺度、それを今ここではリアルと呼んでみる。
新しいコンピュータとか携帯電話とかを欲しいという気分の底には、自分を拡張する(してくれるかもしれない)という幻想がある。事実、拡張してくれる場合もあるし、多くはしてくれないのだけれど。新しいカメラもそうだ。
そういった幻想は幻想なんだけれど、自分にとってはあるリアルさを持っている。
(061123)

2006年11月14日火曜日

個性?

人間とは同じことを繰り返してしまうものなのだ。人から見れば、同じ失敗を繰り返しているだけに見えるが、それを繰り返す生理というものがその人の中にあるのだ。よいことにつけ、悪いことにつけ。
それが個性というものの正体であるが、それが永久不変のものかというとそうではない。外的な要因によっても、あるいは自らの意志によってもそれは変わる。その変え方のコントロールができればいうことのない人生が送れる。


...といった、シニカルな突き放した客観的な態度が、変化ともっとも遠いということを知るべし。
(061114)

2006年11月13日月曜日

デザインはプログラムである

Design programics


「デザインはプログラムである。」ーープログラムとしてのデザイン。
→ デザインという概念とは?
→ プログラムという概念とは?


プログラムとしてデザインを見たときに、何が語れるか?
※インタラクションデザインだけの問題ではない。


モノを作るというのは、本当は現場合わせ的な仕事である。モノを作ることはパフォーマンスである。職人芸、工芸など。
しかしそういう意味からいうと、デザインというのは純粋な物作りとは微妙に違うようだ。
モノをつくることは楽しい。たとえば、家庭菜園にしても、お料理にしても、犬小屋作りにしても。
デザインは直接にモノを作るその局面ではなく、モノを作るための計画を立てたり、完成イメージの絵を描いたり、図面を書いたり、する段階を指している。したがって、少し抽象化したレベルで、モノを捉えなければならない。
工芸や芸術は、モノをつくる。作らなければ工芸や芸術とはいえない。最終的にモノに至らないデザインというのはむなしいものだが、原理的にはデザインはその前段階を指していると思う。
ある意味からすると、これは大胆な見方だが、デザインというのはモノづくりの対局に位置するものであると言えるかも知れない。


そういう意味でプログラムに似ている。
コノヨウニアルベシ、と書かれた紙なのだ。
(061113)

2006年10月3日火曜日

アイコンの評価

アイコンの評価基準は、次のとおり。


(1)弁別性
その他のアイコンといかに弁別できるかということ
したがって、アイコンで表現するものの数も実際には問題


(2)学習性、印象性、象徴性
一度覚えたら、忘れない
教えられたり、学習してもよい/つまり(3)のよりも重要である。


(3)意味性
それが何であるか、説明をされなくてもわかる
自己説明性が高い


できあがったアイコンを見せたとき、説明不要でその意味がわかることは大変すばらしい。→(3)
しかし、実際にはそれよりも(2)の方がポイントが高い。つまりパッと見せてそれがなんであるかわからないアイコンであっても、一回説明されれば強く印象に残り、忘れにくいのであれば(2)、そのことの方が重要である。
通常はとかく、アイコンは(3)で評価されがちである。説明なしでわからないと、こんなアイコンじゃ意味がわからないよ、といわれてしまう。他の人にも見せて「ほらやっぱりわからないよな」といって完全に否定されてしまう。しかし文字による表象ではないので、そのことはたいした問題ではない。
もっとも重要な点は、瞬間的にきっちりと他のアイコンと区別がつくことである。→(1) ようく見ないと、違いがわからないのでは、アイコンを使う意味がない。ようく見て正確にアイコンの意味内容がわかることを目指すべきではない。それが重要ならアイコンではなく、文字でしっかり記述すべきである。
とはいえ、駅の券売機などのように学習も説明もされないようなシステムでは、もちろん(3)の重要性は高まるが。


以上を満たすアイコンとして、最高傑作をあげれば個人的にはLasso(投げ縄)をあげたい。
これを最初に見て機能を言い立てた人は、いないと思う。しかしこの機能をして、これ以上のアイコンを描くことは困難であると思う。私はこの機能を一生忘れないと思う。


アイコンをデザインするのは最高レベルに難しい。釣りはフナに始まりフナに終わる、などといわれるが、インターフェースのデザインは、アイコンにはじまりアイコンに終わると言える。
(061003)

デザインの定義

デザインは問題の解決を目指すものである。
問題解決にあたって、しっかりと手法化されていたり、有効性が確認されたツールがあるならば、それを用いるのはもちろんよいことである。
しかし、既存の方法では解決できない局面や状況というものがある。あるいは現状の解決方法より少しでも適切な解が望まれるときは、どうすればいいのだろうか。
多くの場合、その問題用ではない手法で援用できそうな方式をためしたり、経験の中から使えそうな似た知識や解決パターンを探す。また実験をして可能性のある解を作り出すしかない。
デザインとは、そのような非定型の問題解決にむけた奮闘(struggle)や実験的なチャレンジであると考えられないだろうか。そういった解決方法の定まっていない問題の解決に対するユニバーサルな方法論こそが、デザインの本質なのではないかと思う。少なくとも、そういう要素がもともとデザインに根源的に織り込まれているように思えてならない。
デザインという仕事は、問題に対する解を得ることであるが、たった一つの視点による問いに答えるだけではすまない。多様な、時には相矛盾するような評価軸をもった問題に最適な解を提示することが求められる。
したがって、視点つまり問いとともに答えを提示することになる。「デザイナーである私は、このように問題を捉えたので、答え(A案)はこれです」と。プランBもプランCもある。
ある問題において、解決の手法やプロセスを作り出すことはデザインの仕事といえると思う。しかし、それらの手法やプロセスを用いて問題を解決する行為自体はもはやデザインとはいえない。ここでの答えとは、問いの提示における回答例であるに過ぎないともいえる。つまり答えはおまけ、添え物という位置づけになる。
デザインとはまた、人工物(誰かによって造られたもの)に属するある種の性質=属性と見ることもできるのではないか。つまり「デザイン性」という多寡の測れる性質があって、デザインという行為はその性質を高めるために行うものである、というとらえ方。
もちろん実際には、原初的にデザインというやむにやまれぬ行為があって、その結果「デザイン性」という概念が生まれたのであろうが。
(061003)

2006年3月18日土曜日

ユーザーインターフェースの装飾

最近はやりのソフトウェア開発のデザインパターンの本の中で、「ユーザーインターフェースの装飾」という言葉が使われていた。これは少々気になった。
「装飾」ととらえる認識自体が間違っていると思う。ソフトウェアがなんのためにあるのか、ということに関して私とは立ち位置が違う。
現在においては、ほとんどのソフトウェアは使用者に「使われる」ものである。使用者とのインタラクションによって結果、成果を出すということが、ソフトウェアの存在意味である。(科学計算などの一部のソフトウェアを除いて)
この本の文脈の中では、「装飾は本来ソフトウェアには不要なものであるが、人間とインタラクションしなければならなくて、一部の使用者が個人的な趣味で望むことがあるのでしかたなく装飾の存在を認める、少々下等なソフトウェア要素である。」というようにひびく。
ソフトウェアにおいて(そのほかの機能体においても)、機能性のない要素は不要であると私も考える。しかしインターフェースは、機能(存在意義)を持つものだし、装飾もそれはそれで機能を持つ。それらは、存在自体が機能をもつのではなく、存在の「質」において機能性を発揮させるものである。つまり出来がよければ飛躍的に全体の機能を向上するし、出来が悪ければマイナスにも働く、ということだ。


現象論的にソフトウェアをとらえることは、彼らが考えるよりは重要だと私は思う。

(060318)

2006年3月16日木曜日

動物の時間

動物と人間を隔てるもの(差)は、時間性にある、とのこと。
動物には今という時間しかない。(未来において)餌をもらうために(現在において)芸をするのだけれど、それはほとんど反射神経に近い時間感覚。決して1年後のことを考えて芸をしたりはしない。
自分は今とても動物的に生きてはいないか? (なりきれてもいないか)
自分はそうありたいと希っているのか?
「あしたもなく、きのうもない生き方」よいけれど、よくない? よくないけれど、よい?
(060316)

動物の癒し

動物には癒しの能力があると主張する人や研究があるそうだ。しかし、もしそうだとして、動物である人間は、除外されてしまうのだろうか?
本来、人間も含めて「薬」としての存在性みたいなものがあったのだが、人間は獲得した文化性、文明性とひきかえにそれらの能力を失ったということではないか。(それはたぶん言葉の獲得による。)
深く、鋭く理解できる言葉という能力の獲得によって癒しという薬効を失った、ということでは?
(060316)

2006年2月27日月曜日

現象学

現象学 ーーー 物事の本質は、経験の中にある。経験を超越した「何か」というのがあるわけではない。つまり、人間の認識からスタートする、ということ。


デザインの相手にするもの、表現は現象を扱う。表現は現象に他ならない。
デザインは現象学のウラオモテをなす。逆立ちしている。つまり、現象を作り出すことによって本質を表現(表出)しようとする行為がデザイン。
(何かを創り出す行為は、デザインに限らず、そうなのだけれど。)(芸術といいかえてもよい?)
(060227)