2011年12月12日月曜日

自意識


さっき電車の中で、自分のある考え方のパターンに思いいたって急いでメモをとった。それは画期的な自分自身に関する気づきであると思った。それはほんとうに小さいときから自分を支配している原理であって、自分を特色づけているものだ。なぜこのことにこの年齢になるまで意識を向けられなかったのかと思った。それはこうだ。

自分は何かを感じたときに、感じたままをストレートに発言したり行動したりすることができない。まずそう感じている自分自身を、自分として許せるかどうかというチェックを、どのような些細なことに対しても必ずおこなっている。こういうことを感じる自分は、かっこう悪くはないか? という自問。
その判断基準は、別に高尚なものではなく、ほんとうにかっこうよいか悪いかという表層的なレベルのものだ。自分にとってかっこうよいとは、つまりホンモノかどうかというような感じのリアリティ。これは強固なもので、絶対に踏み外してはならない自分の掟だ。自分に課しているということではなく、そうしないではいられない。そうしないと根源的に恥ずかしいと感じるような何か。しかし困ったことに、そのように自分自身の感覚と行動のあいだにギャップをもうけること自体を、もっともかっこうよくないと感じている自分がいる。

しかし今それをこうして書いてみると、あまりに普通のことであるように思えてきた。あんなに自意識の化けの皮をはいでやったと思ったのに。これはたぶん誰でも自然にやっているレベルのことだ。ときどきそんなこととは、ぜんぜん関係なく行動していると感じられるような人もいるけれど。

つまり「自意識」のことについて、遠回りして堂々巡りしたということだけなのかもしれない。たぶん問題は、この判断基準のありようそのものなんだろう。

それとも、電車の中で感じたことは、もっと別の要素があったのかもしれない。しかし、そうだとしてもその思いはもう失われてしまった。もう二度とそれはやってこない、誰にも、どこにも。
(111204)

道具を作る


「デザインは、意図をもって、道具を、作ることを考えること。」

道具:
人の役に立つ何か。用(はたらき)をもつもの。それによってできなかったことができたり、少しでもよくできたりするもの。人のもともと持っていた、手や脚や眼や脳のはたらきを拡張してくれるものやこと。
それは形のある、カナヅチやノコギリ、食器や家具、それに洋服や乗り物やコンピュータのようなものでもあるし、形のない、国や政治やいろいろな制度、それに言葉のようなものもある。道具は「人が造り出すもの」にほぼ等しい。

作ることを(考えること):
道具には作るという局面と、使うという局面があるのだが、デザインは主に作ることにかかわっている。
作るということをさらに細かく見ると、何をどう作ろうかと想像し、計画し、設計する段階と、実際に材料を集めて加工し組み上げる段階とがある。これらのうちの前半の段階をデザインといっている。犬小屋を作るにせよ、ビルを建てるにせよ、法律を作るにせよ、このステップは変わらない。ものをつくる会社における設計部門と製造部門が独立しているように、それぞれは独立したアクティビティ。デザインは立法に近く、行政や司法とは独立している。作ることを「考える」といったのは、そういう意味である。
また、「使う」という局面は作ることとは対称的なものであるが、「使い方」をデザインするという視点はありうる。使い方において開かれている道具(たとえばコンピュータ)において、「使い方」を考えることは、道具の新たな「はたらき」を発見し、発掘することである。これはいいかえれば、「道具Aの『使い方』」という(メタレベルの)道具Bと考えられる。そういうことから、「使い方」はデザインの対象と考えることができる。

意図をもって:
人は無意識にいろいろなものを作り出している。もっと初期的な道具である「ことば」については、意図に基づいて考え出したというより、自然発生的に生まれたものである。人が生活する中で作られたいろいろな暗黙のルールは意図して意識的に産んだものではなく、生まれたものである。これらは強固で有用な「道具」であるが、それができる過程をデザインとは呼ばない。(私はそういう立場をとりたい。)
(111130)

卒業制作について


教えている美術大学デザイン科の卒業制作最終審査会が終わって、もう彼らに何かを伝える機会がない、と思うと、あぁあれも言いたかった、これも言いたかったと思う。考えてみると去年も同じようなことを考えた気がする。でもまた、放っておけば忘れてしまう。ということで、今のうちにそれがどんなことかメモを残しておくことにする。

・工作に関して
工作が得意でない人がいて損をしている。教師はだいたいデザイン実践を経ているので、皆作り方はよく知っている。木材にしても金物にしてもデジタル制作についても。聞けば丁寧に答えてくれるかヒントをくれるはずだ。作り方は教えやすいので、よしきた、という感じ。ただし、何を作るのかはデザインする学生本人にしかわからないので、それはよく伝える。その上で作り方は興味を持って学んで欲しい。
自分は工作の精度自体は卒業制作において、第一義ではないと思っている。しかしどうやってモノが作られるのかを知っている、ということはデザイナーとして重要な能力である。だから、作り方を知らないためにうまく作れないのは問題である。作り方を知っているけれど、自分の手が器用でないのでうまくない、というのはしかたない。とはいえ、学生の場合たいていは作り方を知らないのだけれど。

・アイデアを先行させる
これは何度も言っていることだけれど、なかなか実践されない。コンセプトを立ててからアイデアを出すのでは遅いと思う。出たアイデアをくくるものがコンセプトである。ここでいうアイデアは、具体的な完成イメージの断片のようなもの。アイデアスケッチに描かれる内容である。しかし本来的な意味でのアイデアスケッチは、ほとんど描かれていないように見受ける。
はじめにイメージありき、であるべし。

・何がやりたいのかは自分に訊く
自分のやりたいことは、自分に訊くしかない。やるべきことを理詰めで追ってもたぶん、おもしろくない。だからそれは感覚的な発想でよいと思う。
ただし本当にやりたいことなのかどうかは、途中で何度も何度も自分に対して問わなければならないだろう。
本当に学生がそれをやりたいのかどうか、を教師は測っている。うわべだけの「やりたい」は、だいたい教師にはばれる、というかその点は教師は敏感である。

・チャレンジする
作品にせよ発表にせよ、私にとって一番印象がよくないのは、「なめた態度」である。「世の中こんなもん」と高をくくったもの。この程度でよい、ということを自分は知っている、と思っていること。
自分はこれを知っている、ということを、そもそもやってもしかたない。
できればそれが価値があるのかどうかよくわからないけど、惹かれるものやこと、にチャレンジしてほしいし、そういうチャレンジこそが卒業制作でやるべきことだろう。それをするために多くの時間をとっている。

ひとまずこんなところかな。また思いついたら書く。
(111211)

2011年11月17日木曜日

人を生きるということ


Blues !!
黒人を生きるとはどういうことなんだろう。
自分が黒人だったら、どんな気持ちがするだろう、と考えていた。あこがれの気持ちをもって。
でもそれは自分が「日本人を生きるってどういうこと?」と(あこがれをもって?)問われるのと、同じこと。
いいたいことも叫びたいこともあるのだと思うけれど、二つの人を生きることはできないのだから、いや、この一人の人を生きられることを贅沢なことだと思いたい。いや、実際にそういうことだ。
(111117)

That's all right.


まいっている。
でも自分が何かまずいことをやった?
やっているんだろうけどさ、完璧からはほど遠いんだろうけどさ。
自分としてはよかれと思ってやっているし、きっとそれはよいことなんだろうと思うよ。
たぶん、うまく歯車がかみ合っていないだけ。
一生かみ合わないしれないけれど、そうやって自分の歯車を自分は回すしかないんだもの。
That's all right. これでいいのだ、と思おう。
いや、それでいいのだ。
(111117)

2011年11月14日月曜日

どうしようもないこと


何か、スパッと解決するようなことは幻想だ。だいたいにおいて、問題というのは「どうしようもない」ものだ。どこもかしこもが満足するようなピタッと収まる解はない。もしそういうものがあれば、たいていはそのようにすでに解決しているのである。そういう問題はあったとしても、結局あんまり人を悩ませない。
問題のうちの99パーセントは「どうしようもなさ」を抱えているのじゃないか? それを認めた上で、そこから出発して「自分の(自分だけの)解」に向かうべきなのだと思う。「自分」という視点からすべてを始めたいと私は思う。「どうしようもない」という問題のありようを前提にして、「私自身の解」にいたるという道筋しか、私には考えつかない。
(111114)

2011年11月7日月曜日

直感について


人の話や出会った事柄について直感的に「これは正しい」とか「きっとこれは本当のことだ」あるいは「これはおかしい」と感じることがある。
その感じは常に正しいとはかぎらない、というか正しくないことが少なくない。しかしときにそれは強い確信とともにやってくる。
できるかぎり直感を信じたい。というか、信じられる直感を育てたいと思う。そして直感の限界も正しく判断したい。直感でもって。
直感が心の中に鳴ったときに、私の中で起きていることは、その事象が「ああ、あれに適合している」「ああ、これにも合致している」「ああ、あれにも...」と、いくつものスクリーニングを瞬間的に行っている。
自分の中に適合すべきあんなことやこんなことが、自分の中にあらかじめはいっていなければ、直感は働かないものなのだと思う。だから若い人の「直感」はあまり信じられない。ましてや子供の直感というのはありえないとさえ思う。(子供なりに感覚的な理解に基づく行動というのはあると思うけれど、それは私の思う直感とはたぶん違う。)
なぜ直感が大切かというと、論理的な思考は「遅い」から。もちろん、直感は正しさにおいて論理に勝ることはできない。しかし絶対的に確かな正しさよりも、不確かな正しさを瞬時に重ねて到達する高みである、ある種の「境地」というのが意味を持つ場面は、人にとって少なくない、と私は思う。
(111107)

2011年11月3日木曜日

デザインの課題


デザインの授業で学生に課題を決めさせると、何割かはデザインと言うよりアート寄りの視点で課題を提案してくる。デザインとアートの線引きにはいろいろな解釈や立場があっていいと思うが、何年もデザインをしてきた教師陣には違和感のあるデザイン課題の設定である場合が少なくない。おそらくアートの先生からみたらそれはアートとしても違和感があるにちがいない。
なぜそうなるかというと、つまりデザインの課題を学生は自分の頭や経験の中から汲み出すことができない、ということなのだと思う。それまでの20年間、そういうことをいっさい考えてきたわけでもなく、たかだか数年、無理やり知識として説教されたたけでは、先生が納得するようなデザインらしい課題を設定できないのはしかたない。しいてそれらしいものを自分の中に探した結果、「アートのようなもの」に行き着いてしまうのは当然の帰結だろうと思う。また自分も含む教師側も、好きなこと、やりたいことをやりなさい、などと言うものだからさらにそうなる。
デザインを学生に教える者は、スキル以前に、何がデザインの課題なのかを伝える必要があるのだろう。直接にそれを語るという仕方でなく、教師それぞれが自分はこれが課題と考えるという例を表明するという形で。
なんでこんなに偉そうなことが言えるかというと、うんと昔に自分自身がそんな学生であったからなんだが。
(111103)

考え続ける


何にせよ、考え続けるというのは大切なことだ。でも考え続けるためには、感じ続けなければならない。
一つのことをとにかく10年くらい考え続ければ、効率が悪くても、歩みが遅くても、曲折した道筋をとろうと、そしてはじめの目標にたどり着けなくても、そこには語るべき何かがあるだろう。
考え続けるとは、つまり解答にたどりつかないまま、問題を何度も何度もくりかえし「解釈し直す」ことなのだと思う。常に解決の途中にありながら、問いを解釈し続けるためには、問いの芯となる何かを、名状しないままに頭の中に置く、つまり「感じる」という作用が必要になってくるのだと思う。

自分は、けっこう細かなことや、思わずしてしまった発言をいつまでも考え続けてしまうことがある。もっと大きな大切なことを忘れてしまうことも、それ以上にあるのだけれど。
(111103)

2011年10月27日木曜日

デザインという病気


デザインというのは一種の病気なのかもしれない。一回それに罹ってしまうと、それなしにものを見ることができなくなってしまうような。
デザインのことを意識せずに、何かを見たり決めたりできるようになる、つまり傷が癒えるのは、うんと歳をとって小さい子供の地金(ペンティメント)が出てきてから、かもしれない。
(090328)(111027)

差で伝える


デザインでAの案に決めたいとき、決めたいAを論理的にプッシュすると失敗する。そういう時、ふつうABCと複数の案を提示する。緻密で完璧な論理よりも、Bとの差、Cとの差を「見せる」方が、Aをわかりやすく説明できる。その差による結果を相手は納得して選ぶ。相手は自分が選択しているというドライブ感を持つ。

ここで起きたことは、「差」によって「価値」を表現したということ。

たぶん「論理」では「価値」は伝わらない。「価値」は「表現」によってしか伝わらない。というか「価値」を伝えるための行為を「表現」と呼んでいるのではないか。
(110224)(111026)

2011年10月25日火曜日

デザインは時間がかかる


他の仕事でもそうなのかも知れないけれど、デザインで最も時間がかかる部分はなにか。それは何かを「決める」ということだと思う。デザインは何かを創造しているように見えるかも知れないけれど、実際にやっていることは何かを「決める」あるいは、何かを「選ぶ」という行為だ。
100のアイデアを出すことは大変だけれど、100あるアイデアの中から、もっとも適切なものを決めることがむずかしい。どれが適切かを決めるために、デザイナーはどうするか。直感で選ぶ、のではなく一々有望なものを表現してみて、目で見て比較する、というプリミティブな方法をとるのである。本当にそれでよいのか、を自分自身に問いかけるために、面倒くさくても表現してみなければならない。
デザイナーは直感を大切にしているし、実際直感はとても大切なものだけれど、直感もときに裏切ることをデザイナーはよく知っている。それに表現してみると、新たな発見ができるし、デザイン自体が洗練されていく。また表現が別のアイデアを誘発する。
そんなこんなをしていることに、時間がとてもかかる。いくらあっても足りない。(デザインの学生を見ていると、そこにぜんぜん時間をかけていなかったりするのだけれど。)でも、やっていることはアイデアを出して、どれがベストかを決めている、に過ぎない。
せっかく完成したデザインのデータが壊れてしまって、たとえば20枚の画面の絵を描き直さなければならない事態になったとき、20もあるんじゃ大変ですね、一週間はかかりますか? などと聞かれる。しかし一度描いた絵なら、20の画面くらい描くのはじつはそれほど時間はかからない。もうすべては一回決めたのだから、思い出すのに多少は時間はかかるかも知れないが、どう描くのがベストか悩まない分、時間は何分の1か何十分の1で描くことができる。(もし描けないとしたら、元から戦略的、意識的に描いてないということだ。偶然に頼って描いていれば、再現に時間はかかるかも知れない。)
だから逆に、すべてを吟味しなければならないから、はじめに描く絵は非常に時間がかかる。え、これだけ時間をかけてこんな小さなアイコン一個しか作れないの、と言われることもある。
(111015)

2011年10月23日日曜日

アートと身体性


広い意味でのアート=「人の技芸」とは、自分の身体と深い関わりがある。つまり自分の身体のありようをいかに識って、いかにコントロールするか、がアートなんだということ。
先日、体操のエース内村航平が活躍した。前に彼のテレビドキュメンタリーで見たのだけれど、小さい頃から図抜けた身体感覚があったという。三次元的に自分の体がどうあるかの感覚をトランポリンを通して研ぎ澄ました。イチローにしても清水宏保にしても、天才的なアスリートは自分の体について、筋肉の繊維一本一本のことがわかるようなセンシティブさを持っている。
芸術もたぶんそういう、人には見えない、人には聞こえない感覚を研ぎ澄ますという意味で身体性を研ぎ澄ましたところにあるものだと思う。そしておそらくデザインも、大きな部分を身体性に負っているといえる。デザインにとっては、それだけではないかもしれないが、それなしにはデザインと呼びたくない。
(111023)

気づきについて

アイデアや何かを思いついたり、気づいたりするということはいったいどういうことなのだろうか。
気づきは決して無から生まれる何かではないような気がする。気づきは、それまで心の底に沈んでいて意識に上っていなかったことを、あるとき何かのきっかけで「思い出す」という形でやってくる。そのときそこで何かが生まれるというより、自分の中にはじめからあったAとBとがその瞬間に結びつくような感じ。だから気づきの材料は基本的には自分の内側にあったものである。外にあるのは、それを引き起こすトリガーである。
何かを気づくためにはトリガーや触媒が必要だ。トリガーは気づきを直接引き起こす何か、触媒は気づきを引き起こす空気のような状況的な要因。
しかしトリガーや触媒と、気づきの内容の関係性はあいまいだ。一つのトリガーとなる出来事や経験と気づきの内容の因果関係や、そのほかの関係をいいあてるのは非常に困難。その関係は謎に満ちている。
ときどきデザイン学科の学生が、「気づきのあるプロダクト」といううたい文句のプロジェクトを起こしトライする。しかし、デザイナーが「作る」ことができるものは、使用者にとってトリガーないし触媒になるものであって、ある気づきを(必ず)得られるようなものを作るのはむずかしい。
(111023)

2011年10月14日金曜日

デザイン的によいこと


「デザイン的によいこと」をひとつの性質の中にとじこめることはできない。
たとえば、デザインは、「シンプルであること」、「一貫性があること」「メッセージが明快であること」などの金言は(ほとんど)正しい。でも完全無欠というわけではない。
常に相反することとのバランスの上にそれはある。あるいはさらにその上位(メタ?)なレベルからみた、配合の妙がそれを作り出している。

デザイン的にいって、シンプルなことはだいたいよいことだ。だけど極端な割り切り、切り捨てすぎは、いいとはいいがたい。シンプルがいいというのは、シンプルでないものがあまりに多いから言っているのだと思う。だから「だいたい」「ほぼつねに」シンプルをめざしてよい。
しかしたとえば「味」というのは多少とも複雑なものから生じるのではないかと思う。なんともいいきれないもの中に味はある。(もちろん「いいきれないもの」が味、なのではない。)
単純でもいけないし、複雑でもいけないとなるといったい何ならいいのか? 少なくとも単純から複雑にいたる軸とは直行するような別の第二の軸がある。あるいは第三の軸も。(第四の軸はないかもしれない。だって複雑すぎるから。)

釈尊のいう中庸というのはそういうことかもしれない。(ちがうかもしれない。)

私たちの身のまわりで起こっている事象を、あまり複雑なものととらえたくないけれど、それほどシンプルなものでもない。

アインシュタインは、ものごとはシンプルに、ただしシンプルすぎてはいけない、といった。

(この話、複雑すぎる?)

(111014)

2011年9月22日木曜日

ことばの意味について


たとえば、デザインとアートは基本的に同じものではない。そのちがいについて論理的で詳細な議論をしたくない。というか、細かい見方は意味を失う。一つ一つのことばに明確な定義をあたえて、そうでない陣営を批判する(ということをさんざんやってはきたが)ということは、もうやめにしたい。いくら自分に正確で正しい定義に見えたとしても、そういう「正しい定義」ができるということが、そもそも怪しいというか、根拠がない。
あたかも「デザイン」という概念がアプリオリに「ある」とどうして考えてしまうのだろうか。人々がする行為の一つの傾向を、誰かが「デザイン」と呼んだということにすぎないのに。
もちろんそれには一般性があって、それだからこそ人々はそれを了解してそのことばが定着したわけなのだが、元々その概念の境界はあいまいなものである。すべてのことばは、そういうものだということを忘れて議論、ときには戦争さえすることの無意味さはどうしたものだ。
「定義」のあいまい性を認めつつ、明快にそれ自体、その「実」を語ることができたらいいのたが。あいまいであるからこそ、その核の部分を言いあてることができる、ということをもっともっと深く考えなければいけないのだろう。
(110922)

使いやすさについて


使うことに関するデザインをしているのだけど、「使いやすさ」を向上するとか、改善する、という意識はほとんどなかったし、これからもたぶんないだろうと思う。使いにくいのは問題だし、使いやすいことを目指してはいる。でも素直にきっぱりと「使いやすさ」を目指してデザインしていますとは、なぜか言えない。
それは使いやすい、という事象を一次元的な数直線上にマッピングできないと感じているからだと思う。何かデザイン上の工夫やアイデアを盛り込んでも、単純に使いやすさが上がったといえない。その実施が新たな使いにくさをはらんでいる可能性はおおいにある。だから慎重に判断しなければならない。それが私にとってリアルな反応だ。
知り合いのデザイナーをみても、使いやすをデザインしていますとキッパリと発言できるタイプの人と、私のようにその事にはモゴモゴとしてしまう人がいる。でも私は私のリアルに従うしかない。私は「私のリアル」の僕なのです。
(110922)

2011年9月4日日曜日

表現革命


デジタルディバイスの本質的なところは、プログラマブルにあると考えていた。そういう意味も半分あって、BlogにはDesign-Programixという造語を当てた。これは1970〜80年代におそらくパパートやケイが目指していたものの自分流の解釈である。
しかし21世紀の今、事態はあまりそのように進んでいないように見える。これはどういうことなのだろう。かれらそして私の読み違いは、「表現」という項目に関する見立てが十分でなかったということがあるのではないかと考えた。(勝手ですが)
プログラム ≒ 理性、論理による理解とコントロールが達成する前に、圧倒的に感性や感覚に直接に訴える「表現」の革新の波がやってきた。プログラマブルが後回しになったのか、スキップされてしまったのかはわからないが、すでに表現革命のまっただ中に入ってしまった。映画やゲームの世界がもっとも顕著であるが、PCからモバイル、組み込み機器などすべてのディスプレイ上の映像表現は圧倒的だ。デジタルカメラのプロセッサーは1ショットで20枚のバリエーション画像を生成する。精細なグラフィックスのゲームを、自分としては両手を挙げて歓迎するわけではないけれど、神経や感性、あるいは心に直接働きかけるほどそれは強力だ。「表現」がある意味、内容を凌駕するような状態をパパートらは、想像できなかっただろうか。
かれらの目指したことは、正しかったし、正しいと私は思う。この表現革命はどこかに落ち着くという意味では、おそらく一過性のものであるだろう。たぶんその前後で小さくない変化が起きるとはいえ通過儀礼のようなものだろう。しかし、今はとにかくそういった時代である。
(110904)

2011年8月14日日曜日

アナログに知る


「知る」という行為にはもっと「深さ」があると考えるべきなんじゃないか。たとえば味。何度も味わって、はじめて知るその本当のところの味の意味(?)というのはある。
アナログな行為、といえばいいのか。知るという行為の結果は知っているか/知らないかというデジタルな状態ではなく、無限の中間状態が結果としてあるような行為。
知っているかいないか、YesかNoか、それだけだったらつまらない。知っているということに関して、それは事実かそうでないか、私はそれに結論を出したくない。いつまでもそれは何なのかにこだわって考えつづけ、感じつづけていたいんだ。

(110814)

ブログやtwitter/facebookについて


ブログ、間が空いてしまった。その間、自分は何も考えていなかったわけではない。空いてしまったことには、いくつかはっきりした理由がある。
一つは、忙しかったからということ。でもそれは、仕事が相対的に増えたとかいうことよりは、それをこなすパワーが自分に生まれなかったことが大きい。年齢のせいかしら、それとも体重増加のせいかしらね。
それから、3.11以降の話として、いろいろな事象をまとめて判断することが難しくなってしまった自分がいる。科学の問題でもあり、人の問題でもあるという、ことの大きさや複雑さ、そして多くの命にかかわるという重大さが、自分を圧倒している。
それに対して、twitterやfacebookにあふれる情報、というか流言の濁流。それは、まるであの津波の後の人も家も車も生活も流れていく映像とのダブルイメージに映る。そこでの人々の発言は、あまりに性急だ。これはこうだから東電がわるい、これをああすれば放射能が...、あれがああだから首相の資格が...。どのことも、一定の範囲で正しいのだとは思うけれど、どれもこれも答えがあまりに性急ではないか? もちろんことは急いではいる、一刻の猶予もならない。でも急ぐべきは、対処の策であって、犯人探しや罪の深さの査定は、もっと落ち着いてやれないか。
性急すぎる判断は、事態の把握を単純化する。単純化して悪者をやり玉にあげることも、それに快哉の声も上げることも、口汚くののしることも、ある種の快感をともなうものだ。
でも結果として、風評被害や多くの起きなくてもいい不幸は、そういう悪意のない小さい快感の積み重ねから生まれてくるのじゃないのか? つまり自分も加害者の一人になってしまうかもしれないということから逃れられないのじゃないか、そんな風に思っていた。
書いて見るとちょっと大げさにも思えるね。でもだいたいはそんなところだ。
(110814)

表現について


少し前に思ったのだが、ここ数年~10年くらいといっていいか、自分は言葉というものに魅せられている気がする。あるいは、あらためて「表現」全般に恋をしているような状況といえばいいか。言葉にしても、詩にしても、小さな絵にしても、歌にしても、何かを表現するということは、ほんとうに楽しい。それから文字を描くことも。小学生くらいまで、ノートに毎日毎日絵を描いていたときのことを思い出す。自分よりうまい人に嫉妬したり、大好きなマンガ家に私淑したり。
絵画として大作を描いたり、小説を書いたりということではなく、日々の気づきを文章に写しとったり、そこらに転がっているものや空想の事物に形を与えてみたりしたものは、私が世界をどうとらえているかということの証である。つまり私自身がどういう人間で、どういう生き方をしているのかを、私に教えてくれる何かである。
いったいそういったものなしに、私は私の顔をどうやって識ることができるというのだろうか。
(110814)

2011年5月17日火曜日

アイデアとコンセプト

現状をよく把握して、適切なデザインコンセプトを立てて、コンセプトに沿ってアイデアを出す。大昔からデザインはそのように進めるように言われたり書かれたりしている。私はデザイナーに成り立ての頃に、「デザインコンセプト」と聞いて、わぁカッコイイと思った。やっぱりプロの仕事は違うなぁ、デザイナーになってよかった、そうかやっぱりコンセプトだよな、とか思って周りの仲間と話した。
しかし今、私は上記のステップは間違いではなかったかと思う。
特にここ20年ほど、主にはインタラクションデザインの中でアイデアを出す仕事を本当にたくさんしてきた。でも振り返ってみて、そのような形で進むケースはなかったことに数年前に気づいた。

実際の仕事の上でも学生のデザイン課題でも、デザインコンセプトとデザイン条件が混同されている場合が多い。たとえば「電子式炊飯器」というのは、明らかにデザインコンセプトではない。あるいは単身赴任者向けの電子式炊飯器ぐらいは言うだろう。そしてそれは発見された新しいニッチな大きなマーケットかもしれない。でもそれもデザインコンセプトじゃなくてデザインの条件だ。その条件の中でどういう風にデザインするかがデザインコンセプトだ。これははじめに決めようがないのじゃないだろうか。
時にデザインコンセプトが先行しているように見えるときもある。しかしたぶんそのときも、強力なアイデア、少なくともアイデアのイメージがはっきりあるからこそ、コンセプトを語れる。それなくしてコンセプトだけは語れない。語ったところで、絵に描いた餅のような気持ちがするだろう。

じゃあどうするのか。
現状をよく把握して(ここまではよい)、そしてその中でとにかくアイデアを全方位で出す(ここにもいろいろなことがあるのだが)、その後にアイデアを眺めてどういうコンセプトかを決めるのだ。
コンセプトはアイデアを出す条件ではなく、アイデアを出した結果にデシジョンを加えた「成果」がコンセプトだったのである、と私は気づいた。原因と結果の取り違え、というのがここでも起きている。もちろん人に説明するときには、こういうコンセプトがあってそのデザインがこれです、といってもいい。しかしそれはあくまで説明用の手順だと思う。
デザインが何らかの価値や意味を持つとしたなら、それはデザインが一つの「表現」であって、今までにない表現対象を選択(何をデザインしたのか=What)して、それを今までにない新しいやり方(How)で表現しきった、ということだと思う。デザインコンセプトとは、どうしてそのWhatを選んで、そのHowの仕方で表現したのか、その理由を短い言葉(か、それに代わるもの)で表したものだと思う。デザインを説明するために。そしてアイデアとは、そういう価値のある表現のさまざな気づきの一片一片なのだ。アイデアの一片一片を拾いながら全体像を発見していくのが、デザインの進み方であり、また醍醐味なのだと思う。

「体」は、もしかするとこれらのことをあらかじめ知っていたのではないかと思う時がある。そしてそれを「手」にそれとなく描かせる。それを「頭」の手先である「目」が見て、てーへんだてーへんだと脳に報告して、脳がこれはグレートアイデアかもしれないと感じ、そして脳が本当のグレートアイデアに仕立て上げる。その理(ことわり)をなんとか説明的に表現したものが「コンセプト」という感じ。

最近気づかせてもらったことの一つに、人はどうやら、始めにどういうものを作りたいのか、決めることができないということがある。作り始めて、作ってみて自分が作りたかったものを知る。逆に言うと、自分が何を作りたいのかを知るために作ってみるということ。
(110517)

2011年4月12日火曜日

絶対デザイン感

「絶対音感」という感覚があるように、絶対デザイン感(観?)というのものがあるようだ。自分自身は相対的な形でしかデザインを判断できないけれど、それがある人にはある。それは品質に関する絶対的な尺度といってもいい。
絶対的な尺度というのはいつも危うさを含んでいる。それを「説明」してはならない。説明は拒まれている。それは説明を超えたところにある。(「絶対」なんだから。)
「一つの系の中にいて、その系の正しさを証明することはできない。」という数学の大定理(*)を、私は100%支持する。その意味するところは「絶対性」の排除であると思うが、しかし私はそれを支持した上で、なお絶対的な「判断」というものを排除しない。
この相対性と絶対性の関係は、まだかなり考えを巡らす余地がある。今、その扉の前に立つ私は、か細い糸を右手につかんではいるが、それを語る十分な準備ができているとはいいがたい。
おそらくそれは「説明」によってではなく、「表現」によって語るということになるのだろうと思う、S先生流に言えば。
このあたりのことを、今度の論文の基本的な核にできればいいのだが。
(*)「ゲーデルの不完全性定理」

(110412)

2011年4月8日金曜日

だってそうなんだからしかたない

実際に自分の身に起こっていることなんだけれど、いろいろな局面で、いろいろなことが昔のようにはできなくなっている。記憶も印象もうっすらとうす味になっている(ふふふ、若い者にはわかるめい。)この成り行きは悲しいことではあるけれど、しっかりと味わおうと思う。
私の仕事は、きちんと気持ちよく使える道具やメディアを作るという仕事である。IT関係の"もの"や"こと"を中心に(今は)デザインをしている。そういった最先端の機器は、若者やビジネスマンが中心で、その人達がマーケットを引っ張っている。
でもその人達だけが利用者というわけではないし、個人的には「ビジネス」という切り口は、そろそろ自分の正面のテーマでないような気もしている。(もちろん、なんだってやりますけどね。)そういった中で今、自分に起こりつつあるこの自然のゆっくりとした変化は、悲しくとも大切な体験であるのだと思う。だから、しっかり目を見開いて自分自身に起きることを見つめていきたい。
「わからない」から「わかる」へ向かう、ある種の成長の過程は記録され研究もされていると思うが、「わかる」から「わからない」に向かう衰退の過程におけるUIのデザインという視点は、領域として新しいと思う。これ以上の臨床体験はない。そしてまたこのタイミングというのも絶妙なポイントのような気がする。たぶん、10年前でも10年先でもない、本当にジャスト今、この分野の成熟の具合と、自分の年齢の状況と、自分の経験値の三つが交差する地点のできごとは、偶然ではないのだと考えたい。

どうして機器が理解できなくなるのか/どうしてわかっていたのか。
どのように機器がわからないのか。
なぜ、なにが、学習を阻んでいるのか。
どうして忘れてしまうのか/どうして覚えていられるのか。

これから、できるだけ折に触れてそういうことを報告をしていこう。
(もし、覚えていたならだけど。)

「悲しみがとどまって寄る辺のない気持ちになるとき、その悲しみはどんな味がするのかを自分に問う。その味に神経を集中する、つまり味わおうとすると、気持ちがふっと冷静になれる。怒りに心をうばわれるときも。」

今日の言葉:「だってそうなんだからしかたない。」(S先生)

(110408)

2011年4月6日水曜日

デザインオーダー

知り合いの若手デザイナーが、デザインに対する適切なオーダーがなされないことに憤っていた。でももう長くデザインという仕事をしているけど、適切なオーダーが出されたことって、本当に数えるほどしかない。ある程度の的を射たオーダーが出されるケースというのは、だいたい元デザイナーかデザインに関係することが長くてデザイナーの生理がわかっている人にかぎられる。
私の到達した結論は、デザインのオーダーは、デザイナー自身が出すものだということ。もちろんなんらかの守らなければならない条件はあるかも知れないけど、デザイナーが必要としているデザインオーダーは、デザイナー以外には出せないものだと思う。
普通の感じとしてはせいぜい「なんか、こう、カッコイイやつやってよ!」というくらいだろうと思う。むしろ逆に事細かに、こういう感じでああいう感じじゃなくて、というオーダーが出てきたら、それこそ注意すべきだと思う。そのまま真に受けてデザインして何度痛い目にあったことか(思い出したくもないけど)。ちょっと悲観的すぎる表現をしてしまったかも知れない。うまくいっていたら、それはそれでもちろん結果オーライだけど、職業として考えるなら、細心の注意を払っといた方がよいよね。
そういういい加減なオーダーを責めてはいけないと思う。デザイナーはそれも含めて、「こんな感じのものが欲しいんでしょ、それはこれじゃない?」と、デザインを示さなければならない。言い方はともかく、内容としてはそのように、相手の心の指し示すところを、感じて、考えて、形にして差し出す、そこまでを含めて「デザイン」と呼ぶのだと思う。完璧なオーダーが出てきて、それを形にしてあげて差し出す、というのは幻想のような気がする。
前に一休さんの話をしなかったかな。屏風の虎が暴れ出すって言う話。困った坊さん達が、一休さんに救いを求め、一休さんは虎退治を引き受ける。屏風の前で、たすきを締めて長刀を構え、「じゃあ、退治するから虎を屏風からだしなさい」という。でも、どうして出てくるのかわからないことに困っているんだから、坊さん達も途方に暮れる...、といった話だった(違ったかな)。つまりなんかまずいこと(あるいは、いいこと)があることはみんな知っているんだけど、正体がわからないことが問題だと言うこと。デザイナーはこの一休さんのように、デザインしてあげるからオーダーをここに出しなさい、といっていてはいけないのだと思う。(もちろん一休はそのこともわかっていてるんだけど)
自分のあこがれている「優れたデザイン」のことを考えてみればわかると思うけれど、だれかのオーダーで作った「優れた」と名の付くデザインなんてないのじゃない?

(110406)

2011年3月31日木曜日

リアルについて

卒業するみんなにたいして、おめでとうやガンバレの言葉を、グッと飲み込んで、ほんとにほんとにほんとに自分のリアルにこだわって、と言おう。たとえ独りになっても。自分と世界を救うには、そうするしかないと思う。

と、私は言った。なぜ「リアル」ということにこだわるのか。それが不変なものに一番「近い」と思うから。自分にとってのリアルさは決して不変では「ない」が、しかし自分のリアルさにそむいた決断も断定も発見もなにもありえない。
ブレないということは、人としてとても重要な要素である。ある人がいつでも同じことを言っている、あるいはいつでも違うことを言っているようにみえても、底に流れている何かが変わらない、と感じることは、その人を信用する(=その人のリアルさが伝わる)基本的な条件である。
私が人を信用できない、というたいていのケースは、その人がブレていて、そのブレに自身が無自覚であるというときだ。繰り返すが、ブレるのはかまわない、変節するのはしかたない。成長だって変わることだ。それだって、リアルがそうするのだ。でも自分が感じていること、すなわち自分自身に対しての不誠実さからは何も生まれない、といいたいのだ。
That's it !!

(110331)

2011年3月28日月曜日

デザイナーに理由を聞かないで


グーグルのビジュアルデザイン責任者が退職した、という記事について。
(http://japan.cnet.com/news/biz/20390324/)

デザイナーとしてこういう経験はたまにある。アバウトにいえばよくある、といっていい。だからこのデザイナーの気持ちは、本当に身につまされる。よく耐えたね、エライ! たぶんグーグルの技術者はとても優秀なんだろうと思う。そして何が正しい選択なのかを彼らなりに追求しているんだろう。
私だって答えを知りたいと思う。青の13番がいいのか54番がいいのか。でもその中間の色を並べて、どれが統計的によいのかを問うのは、なんだか違う。

まず第一に、私たちは「問えていない」ことに気がつかねばならないと思う。多くのデザイン的なデシジョンに関して、私たちデザイナーも含めてだれも、正しく問題を問えていないということを認識すべきだ。
デザイナーである私が青の13番と54番をデザインの候補としてあげるのは、その中間に答えがあるからではない。ある部分の色が代表する何かの意味または「いい感じ」に二通りの候補があるということだ。なんでその二つかは、よくわからない。デザイナーの気持ちとしては、絞りに絞った結果が二つの色なんだから、そのどっちかで決めて欲しい。
まぁしいていえば、これは「経験」であり「勘」なんだというしかない(私はこういう結論は嫌いなんだけど)。もちろん少しは説明することはできる。「この少し赤みを帯びた青は、さわやかさの中にほんの少しだけ「色気」を忍ばすことができるんだ」とかなんとか。それは本当にそうなんだけど、他にも考慮すべき感情や価値観はたくさんあるので、それが正しいかどうか論証を求められてもできない。でも経験や勘という中には、すべてのエッセンスが入っている。と少なくともデザイナーは考えている。

逆に考えて見て欲しい。デザイナーに何を求めているのか、つまりデザインに対する「要求仕様」はいったい何なのかを。それはいったい誰が書くのか?
私は長らくデザインをしてきて、そのようにデザインに対して明確に仕様が提示されたことを一度も経験していない。この問題はなかなかむずかしい。「どこへ行け」と言わずに航海に出して、どこかいいところへたどり着いてください、というのだから。そのように目標が曖昧なんだから、答えが正しいかどうかなんて簡単に言うことはできない。
ではデザイナーは何をしているかというと、その穴だらけの要求仕様(や顔色)の紙背を読んで、自分なりの問いを仮説する。といってもそれを言語化するかどうかはデザイナーによるが。デザイナーがいちばんうんうんとうなるのは、問いを自分の中に定着させることに対してだ。自分として問いが定まらなければ、どんなデザイン案も作り出せない。問いが見えれば「よっしゃ、つかんだ」となる。

そしてここがおもしろいところだけど、デザイナーは問いを定着させるために、答え(絵)を描いてみる。答えを描いてみないと、問いが適切かどうかわからない、というこの逆転現象。これをアイデア出しというのである。アイデアを考えるというのは、答えを探すというより、むしろ問いを探しているような気がする。前にも何度か書いたけれど「デザインは問いと答えを一緒に差し出す」とはそういうことだ。
そして答えを見てその問いが適切かどうかを判断する基準を、私は「リアル」と呼んでいる。私のリアルが「たぶん、こっちだろうね。あってるよ、たぶん。」と私にささやく。
もちろんこの問いが、外れることもある。また駆け出しのデザイナーは、問いは外れていないがスキルが足りなくて問いに対応する答え(デザイン案)を作り出せない、ということもある。ディレクターという人は前半部分の問いを固定する役目の人のことである。

だから、もしデザインの何かを検証しなければならないとしたなら、「問いの正しさ」をこそ測らなければならない。でも、私にはそれがどうすれば可能になるのかわからない。どうしても測りたいというのなら、これらのことを理解して、なんとか測ってみてほしい。デザイナーにその理由を聞かないで。
(どうやら理解には、その理由を説明できるような形でのものと、そうでない理解というのがありそうな気がしてきた。それはまた今度。)

(110328)

2011年3月14日月曜日

chainhope


じきに太陽が顔を出す。
隠れた希望は、必ず私たちの前に姿を現す。

2011年3月1日火曜日

世界を「反」分節化する

世界を分節化することは、科学の強力なそして科学が持つ根元的なパワフルな方法論である。しかし分節化によって落ちてしまう境界にある、モワモワした部分(ナタデココのモヤモヤしたところ)には何かが潜んでいる。このあいまいな境界線の中にすべてがある、というわけではないが、そこにしか棲めない種類の「生き物」がたしかに存在する。
分節化された世界をもう一度「反」分節化したリアルな姿にもどすために必要な培養液、それがおそらく「芸術」なのだろう。
行きすぎた分節化に警鐘を鳴らす態度には何度も出会い、何度もそういう声を聴いたり読んだりもしたが、今、その「リアル」は、わたしの頭と心の真中にいる。

たとえば、デザインとアートは基本的に同じものではない。デザインとテクノロジーも。そのちがいについて論理的で詳細な議論を私はしたいと思わない。というか細かすぎる見方は意味を失うだろう。デザインにせよアートにせよそのほかのことばにせよ、それぞれがその幸せな価値のある一面を思い出せるような、あるいは未来を夢見るように活動をしていきたいと私は思っている。
一つ一つのことばに明確な定義をあたえて、そうでない陣営を批判する(ということを自分もさんざんにやってはきたのだが)そういうことは、もうやめにしようと思う。いくら自分には正確で正しい自明な定義に見えたとしても、そういう「正しく定義ができる」ということが、そもそも怪しいというか、根拠がないと思うから。
あたかも「デザイン」という概念がアプリオリに「ある」とどうして考えてしまうのだろうか。本当のところは、人々がする行為の一つの傾向を、あるとき誰かが「デザイン」と呼んだということにすぎない。もちろんそれには一般性があったからこそ、人々はそれを了解してそのことばが定着したわけなのだが、元々その概念の境界はあいまいなものであった。一度として明確に線なんか引かれたことはない。すべてのことばは、そういうものだということを忘れて議論(ときには戦争さえ)することの無意味さはどうだ。「ことば」は遅れてやってきた偉大な実務家でしかない。
「定義」のあいまい性を認めつつ、"こと"や"もの"、それ自体、そのことの「実=リアル」を、明快に心に感じ取ることができたらいいのだけれど。あいまいであるからこそ、その核心の部分を言いあてることができる、ということをもっともっと深く考えなければいけないのだろう。
(110301)

あいまいでありながら、核心をいいあてる、ということの念頭にあるのは、たとえば「詩」だ。もちろん芸術的な表現というのは、すべからくそのような機能を背負っているのだが。
(110324)

2011年2月24日木曜日

デジャブ

起きてもいないことを心配してもしかたないのだけど、なんとなくそういう気配がちらほらするので書いておこう。
Androidが売れ始めている、というニュースが最近けっこう頻繁に聞こえる。実際にAndroidはたぶんかなり売れて、その数を増やしていくだろうと思う。Androidの良さは、柔軟性やカスタマイズ性、自由度、クロスプラットフォームである点、あるいは反Apple、反iPhone/iPadな点など、いろいろとある。とりわけ開発という視点、あるいはそれで飯を食うという観点から見たら、Androidは魅力的なプラットフォームである。一方のApple/iPadは、非常に封建的というか排他的で固定的で憤慨ものだ。自分がそういった立場なら、そう思うかも知れない。
” Set me free why don't you baby ! ”
そこでだ、私の心配は。売れていることや自由で開発者ハッピーなプラットフォームであることと、「使いやすい」ことを混同する輩が必ずや出てくるということ。「だって売れているんだから、使いやすいってことでしょう。使いやすくなければ、売れてないんじゃない。」あーやだ。

話は少し横道にそれるが、先日NokiaのCEOが彼らのスマートフォンのプラットフォームにAndroidでなくWindows Phoneを採用したというニュースが流れ、その理由がおもしろかった。「Android携帯は、どれも似たり寄ったりでオリジナリティーに欠ける」というもの。実際には裏で莫大なMicrosoftマネーが動いたというような話もあるみたいだけど、それはともかく、自由さが売り物といっても、一つのプラットフォームの上の自由さには限りがある。逆にある程度そのプラットフォームの制約を受け入れなければ、それを採用する意味がない。本当に100%自由、では、やっぱり自前で作るものが多くなりすぎて作りにくくなってしまう。それに自由だからクリエーティブとか美しいとはかぎらない、というか、そういうものはむしろ制約の中に潜んでいる、と私は思っている。「制約」についても、何か「質」があるのだろう。直感的にいって、デザインは、その「質」に関わる活動なのだろうと思う。(この話はおもしろそうなので、いずれまた。)

ここまでの話って、なんか既視感ありませんか?

そう、MacintoshとWindowsのあの物語ですよ。歴史は繰り返す、のでしょうか?

※ここではまたAndroidばかりを悪者のように扱ってしまいましたが、個人的な恨みは何もありません。ただUIのレベルという意味では、iPhone/iPadにくらべて、現状では少なくとも大学院生と小学生くらいの差はあると思っていますが。
(110224)

2011年2月13日日曜日

まとめの視点

何かを理解するためには、一つ上のレベルでの「まとめ」が必要になる。というか、一つ上のレベルでのまとめの視点が得られたときに、人は「わかった!」という。
この前、Facebookはいろいろな概念がごちゃごちゃとたくさんあってわかりにくい、ということを書いたが、概念がたくさんあってもそれらをつなぐ「まとめの視点」あるいは概念どうしの「関係の法則」が見えれば、「あぁ、なるほどネ」といえるのだ。Facebookには結局それがない。
「まとめの視点」を助けるのは、言葉であり、色や形やレイアウト、つまり「表現」である。表現の専門家あるいは少なくともそこにきちんと向きあう姿勢を持っていない作り手のことばを、私はあまり信用しない。
(110213)

2011年2月12日土曜日

制約による自由の表現

制約こそが自由を担保する。
制約のまったくない100%の自由を考えると、それはほとんど無秩序と同じことのような気がする。制約があって初めてその対比としての自由を認識できるのではないかと思う。地と図の関係といってもいい。地はある意味、反「図」という存在であるが、その地がなければ図を認識することはできない。
私たちは空間的なレイアウトデザインにおいて、常にグリッドということを意識するのだけれど、それは一つの制約である。それは音楽における拍子や音階のようなもの。そういうデジタイズされた、空間を荒く分断するような単位を意識的に用いることによって、受け手に秩序とその中で舞う自由度を伝えることができる。
とはいえ、グリッドつまり「制約」を無理に受け手に意識させる必然はない。受け手に気持ちのよい制約が見えてもよいし、制約はいっさい感じさせずにただただあふれる自由さを感じさせてもよい。しかしどちらにしても、その後ろには制約は存在している。
アントニオ・ガウディのサグラダ・ファミリアという建物がある。自由奔放に筆を走らせたかのような外観であるが、図面を見ると厳格なグリッドが存在しているのがわかる。
(110212)

体は知っている

私の体はいろいろなことを知っているように思える。その広がりと深さを私は想像することができない。知らないのは頭の方なんだと思う。普通にいうと「知っている」のは頭なんだけど、でも本当は体は頭より賢い、というか、頭はかなり頭が悪い。よくコンピュータと人間の脳を比較して、コンピュータの賢くなさを話題にする。その差ほどではないかも知れないけど、体に比べると頭は頭固いし、一つ一つ論理を組み立てないと考えられない。
体 > 頭 > コンピュータ
前にも書いたけど、頭が知るのは体に頭がかろうじて追いつくことなんだと思う。
(110212)

デザインを教えること2

特にデザインを教えるということは、学び手がどう感じて、どう考えているかを本人に気づかせることではないかと思う。自分の知っていることを自分で自覚するのはむずかしい。教え手が自分の知っている何かを学び手に伝えることは、少なかならずあるけれど、それはみなデザインの本質とは少し離れたことばかりのような気がする。
デザインの解は、デザイナーが問題に向かった結果、デザイナー本人の中から見つけ出してくるものだ。そうでなければ意味がないと思える。自分の中から何かをひっぱり出してくるには、それなりの慣れや経験が必要になるのだが、当然学生にはそれが不足している。
教師は、学生の「中」に、直接何かを置くことはできない。学生の中にはじめからあった「何か」が触発されてわき出すのを手助けすることしかできない。
ところで、本当に学生の中にそういうものが、埋まっているものなのか? 私は、一粒の小さな植物の種がその植物に「成る」情報を生まれながらすべて完全に持っているように、学生の中にそれは埋まっていると思う。教師は触媒でしかない。あるいは畑?
(110212)

2011年2月7日月曜日

答えたら終わり、ではない

デザインとは問題を解決すること、と教わったのだけど、正確にはよりよい解を「提示し続ける」ことなのではないかと思う。その前提には、まず問題があってその解決をはかる、といったテスト問題形式の問と答えの関係をデザインが相手にしているわけではない、と思えることがある。たとえば科学上の未解決の疑問を研究によって解き明かすことを、デザインとは言わないだろうということ。
デザインが相手にしているのは、一つの(問+答)のセットが新たな問となっているような問題。人にとっての多くの問題はこの形をしている。これに答えればすべて解決、とはならない。だから、つねに解は、「よりよい解」でしかない。明日には、今日求めた解が産んだ新しい問いに挑まねばならない。
デザインの仕事が夜遅くなってしまうのも、プレゼンテーション(解を提示する日)が一週間延びたら一週間仕事を続けることができてしまうのも、そういうところから来ている。
一歩踏み込んでいうと、そのように答えが新たな問いを産むような形の問いに挑むことをデザインと呼んでいる、といえるのではないかと思うのだ。
(110207)

Facebookのインターフェース

Facebookには、少し前から触っている。その作者の伝説は映画にもなっているようだけど、ここではまたFacebookのインターフェースについて書いておこう。Androidのところでも書いたけれど、はじめの感覚はあくまではじめの感覚で、じきに忘れてしまうものだと思うので、間違いを覚悟で書いておく。
5億人とか6億人が使っているということだけど、はっきり言ってこのインターフェースのデザインは「ひどい」と私は発言しておこう思う。少なくとも私の頭はこれを理解することを拒んでいる。
Androidのときとも似ているけれど、概念がたくさんありすぎることと、概念の関係が像を結ばない。まず言葉の選択がデザイン的に不適切だしセンシティブでない。オリジナルを見ていないので、オリジナルの問題なのか翻訳の問題なのかわからない。けど、たぶんオリジナルなんだろうな。いつでも完璧に行うのはむずかしいのだけれど、言葉のレベルがあっていない。最上位(だと思う...)に、ホーム/プロフィール/アカウント/フィードバック/初心者マークがあって二階層めは下記の通り。どういう関係かわかりにくいが、これらと並行して、友達リクエスト/メッセージ/お知らせ、というメニューがある。
全体に名詞系、動詞系の言葉が入り乱れているし、どこをとっても概念が並んでいない。これらの言葉群から全体像を想像することはできない、というか想像することを阻むように言葉を選んでいるようにすら感じる。また「友達」のようにダブった言葉もあれば(その内容は微妙に異なる)、概念の似たような言葉も多い(ニュース、メッセージ、お知らせ)。
さらに操作をしてみると、いろいろなところが不意につながっているので、せっかく構築しようとした概念が壊れてしまう。一度見かけた画面に何故かもう一度到達することができない。
日本語で呼びかけられたと思うと、あるときはローマ字で呼びかけられる。また突然親しげに名字でなく名前で呼ばれたりもするが、そのルールがよくわからない。
言葉の問題に輪をかけて、スクリーンのレイアウトが概念の形成を助けてくれない。アプリと呼ばれる機構も動きに不明な点が多い。
まだまだあるけれど、疲れたのでここらでやめておく。
冷静に考えると、全体としてはそれほど複雑ではない気がするし、よりよいデザインは十分に可能であると思う。おそらく徐々に継ぎ足しで改造してきた結果こうなってしまったのだろうと想像できるし、途中で見直すこともできなかったのだろうな、とも思う。
情状は酌量するが、でも残念ながら有罪は有罪である。

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(110207)

2011年2月6日日曜日

Android-110206

今Androidが、熱狂的に受け止められている。よくわからないが、そうらしい。ここしばらくAndroidのスマートフォンXperiaを使用する機会があったので、印象と感覚を書き留めておきたい。たぶんもっとこのプラットフォームが一般的になってしまった後では、忘れてしまうだろうから、ここで第一印象を記しておくのも意味のあることだろう。
Androidにはとにかくインターフェース上の概念がたくさんありすぎる。どれも便利にしようとしてよくよく考えた結果のものだと思うのだが、初めて見たら迷宮のようでめまいがする。よくいう笑い話にこんなのがある。居間にテレビやビデオ、クーラーのリモコンがあふれて、どれがどれやらわからなくなってしまったので、統合リモコンでまとめようとしたら、結局はリモコンが一個増えただけだった。チャンチャン。
Androidは、とにかく便利にするために、考えられるものをできるだけ盛り込もう、という戦略のように見える。一つ一つが便利なものであっても、増やせば増やすほど複雑さは増す、ということは脇においといて。「シンプルに」というのは、ほとんどのデザインガイドのトップにうたわれる内容なのだけど、この辺はGoogleはどう考えているのだろう。シンプルさより便利さ、あるいは便利そうな名前のついた機能やしかけで使用者を誘うことの方が重要って感じなのか。
でも冷静に考えると、それもわからなくない。そういう方向でがんばらないと埋没してしまう、というか、実際に根本的なところでインターフェースとして見るべきものはないので、そういうことでしかアピールしようがないのだ、ということなのだろう。それにiPhone/iPadがある意味シンプルの極みの線で存在しているので、後発的には対抗上イロイロ盛り込み戦略しかとれない、ということのような気がする。
だから本来なら、Googleは根本的にiPhone/iPadと違うものを作るべきだったのだろう。Appleの土俵でない何か。でもそれこそ超難題か。
他にもハードボタンのことや、Androidのデザインガイドのこと、そのほか細かいいろいろなことなどあるのだけれど取り合えずここまで。

ここで述べていることは、インターフェースデザイン上のことである。足かせの多いAppleの開発の不自由さに辟易している多くの開発者やメーカーにとって、プラットフォームとしてはAndroidしか選択肢はないのだから、その自由度の中で製品をつくるしか道はない。この道はいつか来た道。MacintoshとWindows、iOSとAndroidはまったく同じ話をなぞるのだろうか。
(110206)

使いやすさについて

使うことに関するデザインをしているのだけど、「使いやすさ」を向上するとか改善する、という意識はほとんどなかったし、これからもたぶんないだろうと思う。使いにくいのは問題だし、使いやすいことを目指してはいる。でも素直に「使いやすさ」を目指してデザインしています(キッパリ) とは、なぜか言えない。
それは使いやすい、という事象を一次元的な数直線上にマッピングできないと感じているからだと思う。何かデザイン上の工夫やアイデアを盛り込んでも、単純に使いやすさが上がったとはいえない。その実施が新たな使いにくさをはらんでいる可能性はおおいにある。だから慎重に判断しなければならない。それが私にとってリアルな反応だ。
知り合いのデザイナーをみても、使いやすをデザインしていますとキッパリと発言できるタイプの人と、私のようにその事にはモゴモゴとしてしまう人がいる。でも私は私のリアルに従うしかない。私は「私のリアル」の奴隷なのだ。
(110206)

2011年2月4日金曜日

Design Professional Blues

私はデザインを職業としている。デザインもほかのいろいろな分野の活動と同じように、今やとても細分化しているので、私が直接知っているのはデザインのほんの小さな部分にすぎない。しかしそれなりに長いあいだ関わっているので、デザインという行為そのもについて、自分なりに気づいたことや理解したこともたくさんある、ような気がしている。そして何より私は私なりになんとかして「デザイン」のことを言い止めたいと思っている。
デザインについて、それが何かを「産み出す」行為だとしたら、産み出されたものを使う側の人たち、つまりデザインの「受け手」がいる。しかし私の視点はそれを産み出す側の人間、つまりデザインの「産み出し手」のものである。さらにそれは専門的な職業としての視点である。
語るスタンス上の一つのキーワードは「リアル(さ)」ということである。自分がこれは本当にそのとおりだ、と思っているかどうかのある種の真剣さの尺度を私は「リアル」と呼んでいる。
私にとってブルースという音楽は、リアルさの象徴である。リアルだからちょっぴり悲しいのだ。
(110204)

2011年1月9日日曜日

デザインという行為

先日久しぶりに会った旧友、彼女はかつてグラフィックデザイナーだったが、今はデザインはしていなくて、たまたま手伝いではじめた老人介護に生きがいを見いだしつつあるという。彼女によると、介護という現場のいろいろな局面で「デザイン」が関係しているという実感があるそうだ。聞いたことを私なりにまとめると(だから彼女の思い通りではないかも知れないが)、それは介護の仕方にデザイン的な工夫がもっとできるはずだ、とかもっといろいろなシステムをデザインすべき、といったことではなく(それはそれで大いに意味があると思うけど)、もっと人として根源的な、簡単なものを作ったり、作業をしたり、計画をしたり、といった生き甲斐というか、人が人を楽しむことに直接結びついている部分と「デザイン」という行為が繋がっている、ということと私は聞いた。
なんとなく漠然と思っていたことをはっきりと指摘されたような気がした。デザインが何をしなければならないかという視点の手前に、人が生きていることとその中から生まれた行為の一つの型・パターンとしてのデザインが当然繋がっているという事実があることを忘れないでいたい。
デザインされたものが、かっこいいとか、使いやすいとか、というその以前にデザインすること自体が楽しいということ。

※これらのことは自分自身の中では「デザイン」と呼んで既に定位していることで、たぶん圧倒的少数のわかる人にはわかるかもしれないが、きっとこれじゃ説明不足なんだろうな。
(110109)