制約こそが自由を担保する。
制約のまったくない100%の自由を考えると、それはほとんど無秩序と同じことのような気がする。制約があって初めてその対比としての自由を認識できるのではないかと思う。地と図の関係といってもいい。地はある意味、反「図」という存在であるが、その地がなければ図を認識することはできない。
私たちは空間的なレイアウトデザインにおいて、常にグリッドということを意識するのだけれど、それは一つの制約である。それは音楽における拍子や音階のようなもの。そういうデジタイズされた、空間を荒く分断するような単位を意識的に用いることによって、受け手に秩序とその中で舞う自由度を伝えることができる。
とはいえ、グリッドつまり「制約」を無理に受け手に意識させる必然はない。受け手に気持ちのよい制約が見えてもよいし、制約はいっさい感じさせずにただただあふれる自由さを感じさせてもよい。しかしどちらにしても、その後ろには制約は存在している。
アントニオ・ガウディのサグラダ・ファミリアという建物がある。自由奔放に筆を走らせたかのような外観であるが、図面を見ると厳格なグリッドが存在しているのがわかる。
(110212)
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿