世界を分節化することは、科学の強力なそして科学が持つ根元的なパワフルな方法論である。しかし分節化によって落ちてしまう境界にある、モワモワした部分(ナタデココのモヤモヤしたところ)には何かが潜んでいる。このあいまいな境界線の中にすべてがある、というわけではないが、そこにしか棲めない種類の「生き物」がたしかに存在する。
分節化された世界をもう一度「反」分節化したリアルな姿にもどすために必要な培養液、それがおそらく「芸術」なのだろう。
行きすぎた分節化に警鐘を鳴らす態度には何度も出会い、何度もそういう声を聴いたり読んだりもしたが、今、その「リアル」は、わたしの頭と心の真中にいる。
たとえば、デザインとアートは基本的に同じものではない。デザインとテクノロジーも。そのちがいについて論理的で詳細な議論を私はしたいと思わない。というか細かすぎる見方は意味を失うだろう。デザインにせよアートにせよそのほかのことばにせよ、それぞれがその幸せな価値のある一面を思い出せるような、あるいは未来を夢見るように活動をしていきたいと私は思っている。
一つ一つのことばに明確な定義をあたえて、そうでない陣営を批判する(ということを自分もさんざんにやってはきたのだが)そういうことは、もうやめにしようと思う。いくら自分には正確で正しい自明な定義に見えたとしても、そういう「正しく定義ができる」ということが、そもそも怪しいというか、根拠がないと思うから。
あたかも「デザイン」という概念がアプリオリに「ある」とどうして考えてしまうのだろうか。本当のところは、人々がする行為の一つの傾向を、あるとき誰かが「デザイン」と呼んだということにすぎない。もちろんそれには一般性があったからこそ、人々はそれを了解してそのことばが定着したわけなのだが、元々その概念の境界はあいまいなものであった。一度として明確に線なんか引かれたことはない。すべてのことばは、そういうものだということを忘れて議論(ときには戦争さえ)することの無意味さはどうだ。「ことば」は遅れてやってきた偉大な実務家でしかない。
「定義」のあいまい性を認めつつ、"こと"や"もの"、それ自体、そのことの「実=リアル」を、明快に心に感じ取ることができたらいいのだけれど。あいまいであるからこそ、その核心の部分を言いあてることができる、ということをもっともっと深く考えなければいけないのだろう。
(110301)
あいまいでありながら、核心をいいあてる、ということの念頭にあるのは、たとえば「詩」だ。もちろん芸術的な表現というのは、すべからくそのような機能を背負っているのだが。
(110324)
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