2011年9月4日日曜日

表現革命


デジタルディバイスの本質的なところは、プログラマブルにあると考えていた。そういう意味も半分あって、BlogにはDesign-Programixという造語を当てた。これは1970〜80年代におそらくパパートやケイが目指していたものの自分流の解釈である。
しかし21世紀の今、事態はあまりそのように進んでいないように見える。これはどういうことなのだろう。かれらそして私の読み違いは、「表現」という項目に関する見立てが十分でなかったということがあるのではないかと考えた。(勝手ですが)
プログラム ≒ 理性、論理による理解とコントロールが達成する前に、圧倒的に感性や感覚に直接に訴える「表現」の革新の波がやってきた。プログラマブルが後回しになったのか、スキップされてしまったのかはわからないが、すでに表現革命のまっただ中に入ってしまった。映画やゲームの世界がもっとも顕著であるが、PCからモバイル、組み込み機器などすべてのディスプレイ上の映像表現は圧倒的だ。デジタルカメラのプロセッサーは1ショットで20枚のバリエーション画像を生成する。精細なグラフィックスのゲームを、自分としては両手を挙げて歓迎するわけではないけれど、神経や感性、あるいは心に直接働きかけるほどそれは強力だ。「表現」がある意味、内容を凌駕するような状態をパパートらは、想像できなかっただろうか。
かれらの目指したことは、正しかったし、正しいと私は思う。この表現革命はどこかに落ち着くという意味では、おそらく一過性のものであるだろう。たぶんその前後で小さくない変化が起きるとはいえ通過儀礼のようなものだろう。しかし、今はとにかくそういった時代である。
(110904)

0 件のコメント: