実際に自分の身に起こっていることなんだけれど、いろいろな局面で、いろいろなことが昔のようにはできなくなっている。記憶も印象もうっすらとうす味になっている(ふふふ、若い者にはわかるめい。)この成り行きは悲しいことではあるけれど、しっかりと味わおうと思う。
私の仕事は、きちんと気持ちよく使える道具やメディアを作るという仕事である。IT関係の"もの"や"こと"を中心に(今は)デザインをしている。そういった最先端の機器は、若者やビジネスマンが中心で、その人達がマーケットを引っ張っている。
でもその人達だけが利用者というわけではないし、個人的には「ビジネス」という切り口は、そろそろ自分の正面のテーマでないような気もしている。(もちろん、なんだってやりますけどね。)そういった中で今、自分に起こりつつあるこの自然のゆっくりとした変化は、悲しくとも大切な体験であるのだと思う。だから、しっかり目を見開いて自分自身に起きることを見つめていきたい。
「わからない」から「わかる」へ向かう、ある種の成長の過程は記録され研究もされていると思うが、「わかる」から「わからない」に向かう衰退の過程におけるUIのデザインという視点は、領域として新しいと思う。これ以上の臨床体験はない。そしてまたこのタイミングというのも絶妙なポイントのような気がする。たぶん、10年前でも10年先でもない、本当にジャスト今、この分野の成熟の具合と、自分の年齢の状況と、自分の経験値の三つが交差する地点のできごとは、偶然ではないのだと考えたい。
どうして機器が理解できなくなるのか/どうしてわかっていたのか。
どのように機器がわからないのか。
なぜ、なにが、学習を阻んでいるのか。
どうして忘れてしまうのか/どうして覚えていられるのか。
これから、できるだけ折に触れてそういうことを報告をしていこう。
(もし、覚えていたならだけど。)
「悲しみがとどまって寄る辺のない気持ちになるとき、その悲しみはどんな味がするのかを自分に問う。その味に神経を集中する、つまり味わおうとすると、気持ちがふっと冷静になれる。怒りに心をうばわれるときも。」
今日の言葉:「だってそうなんだからしかたない。」(S先生)
(110408)
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