2011年12月12日月曜日

自意識


さっき電車の中で、自分のある考え方のパターンに思いいたって急いでメモをとった。それは画期的な自分自身に関する気づきであると思った。それはほんとうに小さいときから自分を支配している原理であって、自分を特色づけているものだ。なぜこのことにこの年齢になるまで意識を向けられなかったのかと思った。それはこうだ。

自分は何かを感じたときに、感じたままをストレートに発言したり行動したりすることができない。まずそう感じている自分自身を、自分として許せるかどうかというチェックを、どのような些細なことに対しても必ずおこなっている。こういうことを感じる自分は、かっこう悪くはないか? という自問。
その判断基準は、別に高尚なものではなく、ほんとうにかっこうよいか悪いかという表層的なレベルのものだ。自分にとってかっこうよいとは、つまりホンモノかどうかというような感じのリアリティ。これは強固なもので、絶対に踏み外してはならない自分の掟だ。自分に課しているということではなく、そうしないではいられない。そうしないと根源的に恥ずかしいと感じるような何か。しかし困ったことに、そのように自分自身の感覚と行動のあいだにギャップをもうけること自体を、もっともかっこうよくないと感じている自分がいる。

しかし今それをこうして書いてみると、あまりに普通のことであるように思えてきた。あんなに自意識の化けの皮をはいでやったと思ったのに。これはたぶん誰でも自然にやっているレベルのことだ。ときどきそんなこととは、ぜんぜん関係なく行動していると感じられるような人もいるけれど。

つまり「自意識」のことについて、遠回りして堂々巡りしたということだけなのかもしれない。たぶん問題は、この判断基準のありようそのものなんだろう。

それとも、電車の中で感じたことは、もっと別の要素があったのかもしれない。しかし、そうだとしてもその思いはもう失われてしまった。もう二度とそれはやってこない、誰にも、どこにも。
(111204)

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