2011年2月12日土曜日

デザインを教えること2

特にデザインを教えるということは、学び手がどう感じて、どう考えているかを本人に気づかせることではないかと思う。自分の知っていることを自分で自覚するのはむずかしい。教え手が自分の知っている何かを学び手に伝えることは、少なかならずあるけれど、それはみなデザインの本質とは少し離れたことばかりのような気がする。
デザインの解は、デザイナーが問題に向かった結果、デザイナー本人の中から見つけ出してくるものだ。そうでなければ意味がないと思える。自分の中から何かをひっぱり出してくるには、それなりの慣れや経験が必要になるのだが、当然学生にはそれが不足している。
教師は、学生の「中」に、直接何かを置くことはできない。学生の中にはじめからあった「何か」が触発されてわき出すのを手助けすることしかできない。
ところで、本当に学生の中にそういうものが、埋まっているものなのか? 私は、一粒の小さな植物の種がその植物に「成る」情報を生まれながらすべて完全に持っているように、学生の中にそれは埋まっていると思う。教師は触媒でしかない。あるいは畑?
(110212)

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