2008年12月18日木曜日

問いを見つけること

「No Probrem! 問題ありません。」
はいそう、問題なんてないと思います。問題はクリエイトするものなのです。


デザインというのは「問い」を発見すること、もっといえば「問い」を発明することなのだと思う。そして「問い」を提示することが、本当はもっとも世の中に求められていることなのではないか。三段論法でいえば、だからデザインが持っているパワーは本当に重要なものなのだ、と思う次第です。
いくつも飛躍した仮定の砂の上に城を建ててしまったが、今すぐにここで論証することしない(できない)。こういう状態を「信じている」というのだと思うけれど、これからも書いていく、いくつもの文章でそのことが読んでいる人にじょじょに信じてもらえるとうれしいと思う。


デザイン、あるいは「人が生きる」ということにおいて、答えはいくつもあるように見える。しかし、それらに複数の答えがあると思うのはたぶん錯覚で、あるのは複数の問い、あるいは見方、視点、姿勢、態度、なのだろう。もちろん一つの問いに対して技術的な未熟さから複数の答えが「出てしまう」ことは大いにありえることだろう。でも実際には問いのブレが複数の答えを生んでいるだけの気がする。だから「答え」という概念はそもそもない、ともいえるのかもしれない。うーむ、ちょっと飛躍しすぎかな。


どう問うか、それが問題だ。


きっとこのことは、いつかまた書くと思う。
(081218)

2008年9月19日金曜日

「使いやすさ」とデザイン

ユーザーインターフェースは、私が関わっているデザインの大きな部分である。ユーザーインターフェースのデザインをはしょって言ってしまえば、使いにくい製品をどう使いやすくするか、という視点からみたデザイン(設計)である。
しかし、「使いやすさ」はデザインのすべてではないし、私としては製品をデザインするにあたって、使いやすくしよう、という意識はあまりない。使いにくいことは、罪悪とすら思うし、なんとか使いにくくならないように心を砕いているけれど、不思議とこうすれば使いやすくなるだろう、とは発想しない。
私は、Windows という OS にどうしても慣れられない。(私にとって)使いにくいし、わかりにくいし、時に憎悪の対象にすらなる。Macintosh の方が何倍も自分にはフィットしているが、Macintosh が使いやすいか、と問われると微妙だ。確かにそう聞かれれば、Macintosh は Windows より「使いやすい」と答えるとは思うが。
たぶん私にとっては、「使いやすさ」というのは、相対的な尺度なのだと思う。しかしデザインに求めようとしているのは、絶対的な尺度の何かなのだと思う。それが私にとって「デザイン的によいもの」の概念なのだ。
話を Macintosh にもどせば、Macintosh は相対的でない何らかの価値を持っているように感じる、それ故にデザイン的に優れている、と私は思っている。

(080919)(090425)

2008年9月10日水曜日

NMC(Non Maximum Cognition)

人は常に認知的に最高の状態であるわけではない。一人の人をとってもその時々の体調や精神状態は異なる。また年齢という、より長いスパンで、認知能力が下がる場合もあるし、大きな波もある。
ユーザーインターフェースをデザインするにあたって、認知的に最高の状態を想定してしまいがちだ。冷静に考えれば誰でもわかるだろう、という基準でデザインを決めてしまいたくなる。
しかし、そうではない。それこそがユニバーサルデザインの基本となる視点というべきものなのだろう、と私は考えている。世に言うユニバーサルデザインとは違っているかも知れないが。
(080910)

2008年8月1日金曜日

design-programix

デザインとProgrammingは似ている。それは未来を描くという行為だから。
ともにあくまで計画なのだ。物ごとを作り出していく、という観点においては。
それに対して味わうというのは、事後にそれが何であったか評価すること。
それで、design-programix. というブログなわけだ。
(080801)

デザインとプログラム

デザインとソフトウェアのプログラミングは似ている。
それらはどちらも、いまはまだないモノやコト、つまり「未来」を作り出そうとする行為。
それをするためには、大きな想像力が必要だ。そして、できあがるべきものを事前に評価しなければならない。


(080801)

2008年7月10日木曜日

デザインを教える

デザインを学生に教えるにあたって、What is design と How to design の二つがあるけれど、最終的には What is を教えたい。How to は時とともに変わる。コンピュータ以前/以後でも、What is は変わらない。How to は、表面的には変わった。
How to は必要ではあっても十分ではない。答えが十分であることを決めるのは How to ではない。

「こことここを揃えておいてね。」「はい。」
「あれ、揃ってないじゃん。」「いや、ちゃんと揃えるコマンドを使いました。」
「でも、揃ってないもん。目で見りゃわかるよ。」「でもー、、、ほんとだ。」

では何が答えがそれで十分であるのかを決めるのか。それは感性なり見識ということになるのだが、それを断ずることこそがデザインの本質(What is)といってもよい。
(080710)

2008年7月7日月曜日

高齢者のためのデザイン

高齢者のためのインターフェースデザインは、今後の私の課題というか使命だ。当事者だし。
それは、文字を大きくするとか、色のコントラストを高くするといったことより、もっと認知によった部分で。

たとえば高齢者の認知的プロフィール
・細かな違いに、すぐに気がつかない。
・書いてあることではなく、書いてあると思っていることを信じる。
・意味が頭で像を結ばない。特に新しいことには。
・複数のことを同時に処理できない。
・一度に一つずつシーケンシャルに処理する。(パラレルでなく)
・宙ぶらりんの概念は苦手。
・短期記憶の蒸発性が高い。
・長期記憶への敷居が高い。(それを超えるのはどういうときか?)
(080707)

2008年7月5日土曜日

差異、意味、価値

差異が意味となり、価値を生む。

ハードな差異: 客観的、論理的、実証的な差
ソフトな差異: 個人的、感覚的、非実証的な差

もちろん重要なのはソフトな差異。それがなければ価値のレベルには到達できない。極端な話、ハードな差異は人間がいなくても測れるが、ソフトな差異は人間でなければ測れない。

愛というのは、差異を愛でる心。ちがいに、魅了されること。
しかもその差は、一個性、一回性、個別性、特殊性の中に存在する差。
つまりある人を愛するというとき、その人の個性や固有性、一人かぎりのその人、よいことも悪いことも含めて、他とは違う一個のものとして魅了されること。
(080705)

2008年6月29日日曜日

グッドデザイン

iMacのパワースイッチは好きだ。
それは裏についているから、表からは見えない。左手でディスプレイというか本体の左下の裏あたりを探るとそれはそこにある。本体の背面はマットなプラスティックだが、ちょうど指先(私は中指)あたりにつるんとした丸い緩やかな凹みがある。押すとコツッとへこんでスイッチが入る。
必要にして十分なものだ。日本のメーカーでは、おそらくできないだろうと思う。(提案できるデザイナーはたくさんいると思うけど、これを説得できるデザイナーがいない。)
どこにも一言も"Power"なんて書いていないけど、コンピュータなんて一回スイッチを入れたらそうそうにいじらないし、パーソナルなんだからそれくらい覚えてしまう。というか、一回押せば覚えてしまうような、手の感触の記憶を喚起するような出来だ。
それから、このボタンはiPhoneの前面のものとほぼ同じだ。Appleのデザインセンスとして、ボタンの機能に違いがあれば変えるが、違いがないならわざわざ変えたりしない、ということを自然にさらりと実現している。形に自信があるので、変えたりはしない。変える必然性がない。
(080629)

2008年6月17日火曜日

現象からはじめる

もちろんすべてのソフトウェア開発者についてのことではないけれど、比較的多くのソフトウェア開発者にいえることとして、ソフトウェアというプロダクトを現象として見ない、ということがあるのではないか。
プログラムは、内部構造を規定するものではあるが、その発端は「現象」であるべきだと思う。少なくとも人が操作することを目的とするソフトウェアにおいては。
(080617)

2008年5月24日土曜日

理解を楽しむ

おいしい食事とワインを楽しむように、何かを理解することを楽しみたい。
(080524

2008年5月13日火曜日

眺めること、味わうこと

何もかも、ゆっくりと眺める余裕がないのだが、「眺める」というのは本当に重要なことであると思う。結論を出し切るということも大切なことではあるけれど、最終の結論を出さないままに、対象を何度も繰り返しよく「見る」、それも愛でつつ見る、ということ。あせっていると、つい結論を求める態度でモノをみてしまう。
同じように「味わう」ということも大切。その味の善し悪しを決めるのではなく、より深く知るために、ただ知るということだけのために、味と舌のやりとりを傍観する。
そもそも、結論を出せるような問題は多くはないし、答えが出せるような問題はおもしろくない、とも言える。たぶん。
(080513)

2008年4月23日水曜日

似ていることがわかる

デザインやアートに関する感性や才能、あるいは単に能力というものがあるとしたら、それはどういうものか。
少なくとも、二つのものが似ていること、あるいは似ていないことを言いあてる能力というのは、大きいものではないか、と思うのだ。それは同一性というより、相似性が問題になる。
(080423)

2008年4月18日金曜日

価値

価値というのは、ものについた属性ではない。価値はそれを与える人の側にあるものだから。
たとえばダイヤの指輪があるとして、100万円の値札がついているとしよう。このとき、その指輪には100万円の価値がある、といっていいのだろうか?
いや、それは宝石商が思うところの価値としての値段だ。それを200万円の価値があるという人がいてもいいし、いいや1000円の価値しかないという人がいても構わない。どっちにしても、そんなことは宝石の知ったことではない。
オブジェクト指向的に表現すると、Jewelryクラスのインスタンス変数に価値worthを置くのは間違い、ということだ。
価値はそれを見て評価する人の数だけある。また付け加えれば、時とともにくるくると変わっていくものだ。 
(080418)

2008年4月13日日曜日

楽器という装置

その他のいろいろな物と同様に、楽器という装置は本来なかった。叩いたら、引っ掻いたらおもしろい音がした。少しでもいい音がするようにいじっていったらいつか楽器になった。音がするものが楽器なのだから何でも楽器だ。(何でも重さのあるものは文鎮だ、というのと同じように。)

じつは楽器だけではなく何でもそうなんだ。つまり道具は工夫の結果の何か。だからいろいろな道具は、すでにあるものと考えなくてよい。新しいいろいろな何かを考えたいと思う。

2008年4月11日金曜日

デザインの一回性

デザインの醍醐味はその一回性にあるといってよいと思う。そういう意味でいわゆる工学とは相容れない部分がある。(正しくは、デザインを包含しないと工学は完成しないと思うのだが、現在の工学の基本的な考え方はまさしく一回性を廃して、再現できるものだけを相手にしている、そうである。)
オブジェクト指向による設計の中心はクラスをどう規定するかが焦点である。しかしデザインの立場では、実際の仕事をしているインスタンスに関する考察抜きでは語れない。大切なのは、個人のAさんでありBさんなのであって、AさんやBさんを抽象化した「人間クラス」(やその属性のパターン)なのではない。それは設計上の方便といってもよいと思う。
どのような設計の元にそれが作られたかどうかはどうでもよい話で、それが使い手の中でどう使われ、どう手になじむかどう汚れてどう壊れていくか、捨てられていくかまで含めないとデザインは考えられない。
絶対スケール。また数学的にはスケールは相対的なものであって、あまりそれ自体に意味はない。しかし現実の世界ではスケール(絶対スケール)は大きな意味を持つ。数学的には1000kmと1km、1mと1mmは、相対的に1000分の1の大きさ関係でしかないが、実世界ではその絶対的なスケールが意味をもつ。宇宙と原子核が相似形をしていようと、絶対的なスケールが、ときにはそのスケールだけが意味を持つ。
デザインの一回性、一期一会、個別性、絶対スケール、具象と抽象、クラスとインスタンス、一般化と具現化。
これらはすべてデザインの質について自分が持っているある共通した概念を語ろうとしていることのなのだが・・・、うまくまとめることができない、今は。
(080411)

2008年4月10日木曜日

インターフェースデザイン

「インターフェースデザイン」というけれど、それはトートロジー(同語反復)なのだと思う。「デザイン」をするということは、「インターフェース」を調整することに他ならない。
インターフェース、つまり異なる系Aと系Bが出会うところにこそ問題が生じる。"差異" のないところに "調整" という概念も成立し得ない。
("差異" は、"価値" あるいは "意味" と同義なのであった。)("価値" を生み出そうとすることは、どうやって "差異" を作っていくかということ。)
その人を意義づけるものが価値観であるとするなら、それはその人の "差異感" とでも呼ぶべき物から生まれるといってよい。
その人が感じる違和感(悪い意味ではなく)、なんとなく違うと感じる感性、AとBとの微妙な味の違い、スパイスや塩や出汁の違いを言いあてること、そこからその人が生まれる。
(080410)

2008年3月29日土曜日

ボタンとしてのコンピュータ

ボタンを押すと「計算」をして正しい「答え」を出してくれる、という古典的なコンピュータモデルがある。ここにおいてインターフェースという概念は不要である。しかし多くの人達がこのモデルでコンピュータを観ている。(まさしく「オラクル」=託宣などという名前の巨大なソフトウェアメーカーまである。)
しかし現代においては「インタラクション」こそが、コンピュータにおける問題解決の本質である。もちろインタラクションマシンも本質的には、計算→答えを超高速で膨大な数の処理をしているに過ぎないのだが、圧倒的なスピードがインタラクションという幻想を引き起こしている。


インタラクションの次に来る2020年型のコンピュータモデルとは、いったいどのようなものなのだろうか。


(080329)

2008年3月28日金曜日

具象化と抽象化

小学校の低学年かあるいは幼稚園の頃、色というものについていくつかの自覚的な発見をした。
ピンク色は赤をうすくした色である。同様に、水色は青をうすくした色である、ということに気づいた。それまでは、クレヨンの色はただのバラバラな一つずつの色の寄せ集めでしかなかった。つぎに同系色(グラデーション)の発見、色環の予測(似た色を並べると輪に並ぶ)。こういった発見の瞬間を今でもはっきりと覚えている。


物事の理解は人の頭の中で、具象→抽象の流れをたどるわけではない。何かに気づくこと自体は、抽象的な発想といえるのではないか。(具象物や経験から触発されて発想するということは、それとは別に当然あるのだが) あるいは理解とは対象について一定の構造を見いだすこと、といってよいと思う。
たぶん「発想」という行為は、具象化の流れを持つものではない。発想自体は抽象化のレベルで起きることだ。具象はたまたまその抽象と一緒にやってくる同伴者だ。
しかしコミュニケーションのためには、いったん具象の門を通った方が伝わりやすい。つまり何かを伝えようとするときに起きていることは、自分の頭の中では抽象→具象の変換をして伝達し、相手の頭の中で具象→抽象の流れをとる。


つまり人は、具象を吸って抽象をはき出す植物のようなもの、あるいは抽象化マシン。違う言葉で言えば、理解マシン、解釈マシンということになるだろうか。


(080328)(080403)

2008年3月26日水曜日

理解のカタチ

二人の人間がいたとすると、二人は違った「理解のカタチ」をもっている。AとBが討論をするとき、互いに自分の発想したアイデアを、自分の理解しているカタチ(形式、枠組み)で表現する。結果的にほとんど同じ内容であっても、AとBの理解のカタチがあまりに違うと合意にいたれない場合がある。また合意にいたっても、それを表現するベストなカタチは自分のものであるように互いに思うものだ。
また理解のカタチが違えば、話し合っても頭や心に内容がとどかないこともある。


理解のカタチを乗り越える一つの方法は、視覚化、現象化、インスタンス化すること。万全な方法ではないけれど。


(080326)

2008年2月19日火曜日

変なもの

今までになかったようなブレークスルーをはたしたシステムやソフトウェアは、どれもこれも少し変なところがあると思う。たとえば、スプレッドシート、アウトラインプロセッサにしても、ハイパーカードにしても、Webシステムにしても。あるいはMacintosh(やLISA)、Star、Alto、Smalltalk、Sketch Pad、Augumented System、それにマウス。みんななんか変だよなぁ。
変なものがすべて革新的なものではないけれど、あたりまえに進化したもの、あまりに自然なものは革新的ではありえない。革新的なものは何か違和感を持っているものだ。


今、違和感のあるすべてのシステムに関する評価を、留保することにしよう。


(ハイパーカードがWebを産んだ、というのは風説? 事実?)


(080219)

2008年1月28日月曜日

自分を知るというのは

自分を知るというのは、頭が遅ればせながら体に追いつくということ。

デザインにおける知とは、頭が遅ればせながら体に追いついてそれを追認するということなのである。
多くのことを体はすでに知っている。というか、むしろ頭で知ろうとするすべてのことは、体のことなのだ。

「納得」できるのは、すでに体がそれを知っているから。(体が知らないことを、頭は「納得」できない。)

脳が見る前に、眼が見なければならない。あるいは耳が「見」なければならない。

「補色」:
たとえば、ある色を見せられてその補色(反対の色)は何か、と問われても、色彩について学んでいなければふつう即答はできない。しかしその色の色面をしばらく凝視したあと、パッとそれを隠せば自然にその補色が目に浮きでてくる。つまり体は「補色」を知っているということだ。
(080128)

2008年1月17日木曜日

デザインは方法を超える

デザインという行為について最近しばしば以下のようなことを考える。
デザインのための方法というものが仮にあったとして、それにのっとって何かを生み出す行為を、はたして私はデザインと呼ぶだろうか?
それはこういうことだ。与えられた条件から、論理的、あるいは科学的に(つまり誰がそれを行っても必ず到達できる再現性のある方法で)デザイン解が得られるような公式があったとしたら、もはや人間はスタートボタンを押すだけの存在でしかない。そのスタートボタンを押す行為を、私はデザインとは呼ばないだろう、ということである。
私は答えの定まっていない問いに、なんとか最良の解を探し出そうとあがく行為をデザインと呼んでいるのだと思う。
もちろん、常によりよい答えにいたる道を見つけ出そうという態度は、デザインとしての正しい姿勢だ。
いつでも、優れたデザインは既存の方法論を超えたところにあるものだ。


デザインは実際にそれを生み出す現場にしかない。理論があってデザインがあるのでは、決してない。よいデザインはとにかく、そこに、はじめに、ある。
そこに理論があるかどうかは関係のないことだ。デザインはダイナミックな(弁証法的な?)行為である。よいデザインは変容する。いつも同じではない。それをはかる尺度というものは進展していく。


(080117)