現在のところ、マッキントッシュとそうでないものにかかわらず、最もホットなソフトウェアである。また、ユーザーインターフェース、スクリーンデザインに関してもかなり関わりの深いソフトウェアである(*1)と言える。I氏の意見によれば、このソフトを境に巷でスクリーンデザインに着手するデザイン事務所なりが大いに排出するあろうということである。
自分にとって、あるいは自分の会社にとってみるとこの動向は二つの意味で要注意ということになる。つまり、第一には競合相手が増えるという直接的なことと、第二に(これが大きいと思うのだが)われわれが目指すコンピュータデザイン(ユーザーインターフェース、スクリーンデザインを大きく包含する概念として)の質が薄まることである。これは例えばCIビジネスの中で、PAOS(=中西元男氏)が目指してイメージしたものがCIの流行(!)と共に、一部に大いなる誤解をもって拡がったことと同様の構造をもっている。ここにおいてもっとも悲劇的なことは、デザイナー自身がことの本質を理解しない(*2)で誤った認識でデザインにあたり、これを流布していったことにある。もっとも、本質を正しく理解する能力がデザイナーにあったならば、デザインが真に重要な意味を占めるはずのこの時代において、デザイナー自身が冷や飯を食っているわけはないのだが。
*1: 何故ハイパーカードがスクリーンデザインと関連深いか?
ごく表面的、直観的に見てもハイパーカードはほとんどスクリーンデザインそのもののように見える。このことはある意味では正解だし、ある意味では当たっていない。
まづ当たっていない理由としては、ハイパーカードはいわゆる羊の皮をかぶった狼であり、このソフトウェアが達成しているレベルはコンピュータだって普通の人間に本当に使えるものであるのだ、ということを完成した製品として例示したことである。当然、マッキントッシュという下地があってはじめて成しえたことではあるが、むしろマッキントッシュというものをコンピュータを作る上での一つのコンセプト(=概念)あるいは、哲学、思想として捉えるならば、ハイパーカードはその概念をより一層明確に形にしたものである。
ただし当然、ハイパーカードが示した方法がただ一つのものではないとは思う。ハイパーカードの示した方向は、今後の展開して行くであろう大きな潮流の One of them. であって、なおかつ初めての One. であったということである。
一方、ハイパーカードはスクリーンデザインそのものであるという理由は、ハイパーカードがビジュアル(視覚表現)に密着して存在している点である。極端に言ってしまえば、ビジュアルがなければハイパーカードはもはやハイパーカードではない。そうなったら、別の名称で呼ばれるべきだし本質的に別物である。たかが視覚表現のことであるが、人間はこの「たかが」の視覚というものによって、考え、発想し、整理し、飛躍する生き物なのである。言葉というものによってある概念が明確に意識され定義づけられ、伝えられたのであろうが、概念そのものがやってきたのは視覚を通してであったのではなかろうか。
コンピュータによってビジュアルを扱うことは(コンピュータグラフィックスではなく)これまでは(正確には XEROX/PARC の研究以前は)とりあげられなかったし、現在もコンピュータサイエンスの分野ではあまり本気で研究されているとは思えない(*)。しかしコンピュータと関係のない実際の生活の場や仕事の場においてはビジュアルの要素なしでは考えられないのではないか。雑誌、書籍などちゃんと印刷されているものをみれば必ずデザインされているし、家具や機器だってデザインされずに生産されることなどありえない。
それでは一般の人が使うべく作られたソフトウェアのディスプレイは?
話が飛躍しましたがハイパーカードはこういった捉え所のない視覚表現を大変たくみな切り口で処理したほとんど初めてのソフトウェアといえる。それはユーザーカスタマイズのきく高度な視覚表現ツールと、組み合わせればかなりなことまでが自由になる基本ツールを解放した。
(1989頃)
今でいえば、Adobe Flash ということになるのかも知れない。しかしインパクトの強烈さでは、ハイパーカードには及ばない。それ以前にそういうものはなかったのだから。
あるいはSmalltalk-80(今でいえばSqueak)になるのかな(ハイパーカードより前だけど)。しかし人々がちゃんと使える、デザインとして完成したものとしてはハイパーカードに及ばない。
とはいえ、そのような革新的なものがなぜ消えていってしまうのだろう。(MacDrawも、Moreも、Newtonも、消えてしまった。)
これは考えるべきことだ。
(100204)
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