1989年1月1日日曜日

メタデザイン

ただ単に何かのデザインをするというのではなく、デザインの対象を創造的に発見できること。デザイン、デザイン方法論をデザインできること。グラフィックデザインはポスターや広告をデザインし、工業デザインであれば機械、生活用品をデザインし、服飾デザインは洋服をデザインする。その中でテリトリーを拡げるのではなく別次元へイメージをシフトすること。デザインの裏に流れているものを知ること。

(1989頃)

情報の隠蔽

必要な情報を認識するためには、不要な情報を隠すことも重要である。
一般に、情報は多ければ多いほど良い、というのは誤りである。むしろ同じ効果を果たすことができれば少ないほどよい。
情報というのは、加工、変形された後、利用者が最終的には何らかの意志決定における判断材料に使われると考えられる。したがって選択肢は少ないほど情報の重みは重い。
ある情報地図の中から新しい(より高次のレベルにある)情報を発見しようとするとき視覚的に情報のレベルによる差異化をはかる計る必要がある。

(1989頃)

プログラミングとは

コンピュータに向かってプログラムを組むというのは、世界を記述しようとする行為である。そして組上げられたプログラムを使用するということは、その記述された世界に新たな要素をおいてどのように振る舞うかを観察しようという行為である。つまり、本質的、実際的にいってコンピュータの仕事とは「シミュレーション」にほかならない。
実用的な意味でコンピュータの初めての仕事は弾道の計算であったとのことである。弾道の計算をするためにはコンピュータ上に主には力学的な物理世界を記述する必要がある。弾の持つエネルギーと重力や摩擦などによって成り立つ世界である。ENIACはこのコンピュータ上のあるいはソフトウェア上に仮想的に描かれた物理世界にミサイルなどを飛ばし、着弾点などを計算した。
また、オフィスワークにおけるスプレッドシート(表計算)のアプリケーションプログラムはまさしく集計用紙の世界をシミュレートしたものである。ワードプロセッサは原稿用紙と筆記具の世界をシミュレートしている。
ただし、ここでいう「世界」とは、現実の世界のこともあるし、もう少し、拡張された世界のこともある。むしろ開発者のなかの頭の中にある理想的な世界のシミュレーションといったほうが正しいかもしれない。
当然のことであるが、例えばスプレッドシートプログラムのシートと集計用紙、ワードプロセッサ上の画面と普通の原稿用紙はまったく同じではない。まったく同じだったら何も特別な機械に大金を出しはしない。ワードプロセッサで実現しようとしている用紙は、正確にいえば、ものを書くのに理想的なメディアとしての原稿用紙である。もちろん現在のワードプロセッサが理想的な原稿用紙を実現しているとは思えないが、そういった路線で着実に(?)進歩してきていると思える。最近出始めているアイデアプロセッサなどは、完全に従来の原稿用紙を超えた別のものである。むしろ、KJ 法的な世界をシミュレートしているのかもしれない。
いずれにしても、コンピュータ・プログラムの行っている作業がシミュレーションであることには変わりがない。

シミュレーションという言葉に抵抗があるかも知れない。この抵抗には二つの側面があると思う。一つには弾道計算ならまだしもワードプロセッサをシミュレーションとは感覚的に呼びにくいということがあろうし、二つにはコンピュータの行っている創造的な仕事を単なるシミュレーションの結果とは呼びにくいということがあるかも知れない。
今、ここで述べているのは、プログラムを作り上げるという立場からの議論であって、そういった見方からはシミュレーターの作成というやや視点を下げてシンプルに捉えようという意図がある。

●プログラミング能力
現在、プログラミングに必要とされている能力にはどういったものあるだろうか。コンピュータそのものに対する興味と知識、論理的な思考能力、そして体力だといわれている。しかし、もっと大切なものは世界の記述能力である。
世界の記述能力とは
1. 現状を正しく認識する能力、すなわち現状の種々雑多な局面の中から何が重要で本質的なパラメータかを把握する能力。
2. 表現力、本質的なパラメータ同士の関係を正しく位置付けること。

●将来のプログラミングのイメージ
...

(89年頃)

スクリーン・オリエンテッド・ソフトウェア・デザイン

スクリーンを中心にしてソフトウェアをデザインしていくこと。ソフトウェア、特にアプリケーションソフトウェアを考えるに当たって、普通一般的に行われている方法としては、まず機能を列挙することから始まりまる。例えば、競合となる機種の機能表、ならびに価格とを見比べて、遜色のない機能をこれから開発するシステムに想定する。
でもそうではなく、スクリーンという目に見えるものからソフトウェアをデザイン(設計)しましょう。

(1989頃)

デザイナーの職能

『価値』というものは、一枚の紙のようなもの、あるいは認定証のようなものに思える。ある時代ある場所で、ある事なりある物にペタッと貼られるものだ。もちろん貼られたり、はがされたりを繰り返している。そういう意味では、流れて行くものであると言える。
我々が、見つけださなければならないのは、そういった貼ったりはがされたりするものとしての『価値』のふるまいの仕組みである。つまり、『メタ価値』とでもいうべきものだ。
物そのもの、あるいは事それ自体を見ていても、『メタ価値』を認識することはできない。つまり形を追ってはいけないということ。例えばテレビのデザインをするのに見なければいけないのは、それが置かれる環境であり、使われる状況であり、使う人である。テレビをデザインするということは、テレビの形を作ることではなく、テレビとそれが存在するすべてを含んだ場との新しくて、気持ちのよい『関係(Interaction)』を見つけだすことなのだ。
そのように、『価値』というものに対して直に面と向かわなければならないというのが、デザイナーとしての職能だと私は考える。また、そのように考えると、そのような職種についている人というのはデザイナー以外にないのではないかと思える。一歩下がっても、デザイナーがそこに一番近い場所にいるのではないだろうか。

(89年頃)

リズム感

リズム感はある美しい配列や調和を産み出すことのための、とても重要な要素である。例えば、カラーの調和にしても図形的なレイアウトにしても、ある調和の概念が存在するところには必ず、美しいリズム感がある。


実際にリズムを創っているのは規則性と、不規則性の綾織りである。

(1989頃)




リズム感とは、いったい何なのか。
これは、人間の感じる「美しさ」や、「気持ちよさ」が何なのか、という問いと同次元のものであるといってよい。その秘密は、規則というか秩序に関係するものだと思う。
本当の意味での、まったくの無規則、無秩序を、おそらく人間は気持ちよく感じないだろう。かといって、わかりきった規則にも美しさはない。

規則性:
規則があるということは、先の展開が予想できる、ということである。あるいは、先の展開が予想できることを「規則がある」と呼んでいる、といってもよい。
ある和音の次には、ある規則によって約束された和音が来なければならない。つまり、こうなるという期待が満たされること。
テレビの水戸黄門が何十年も相変わらず受けたり、野球はジャイアンツを見ていれば満足(?)、などなど。

不規則性:
不規則であるということは、先の展開が読めない、ということである。毎回、毎回、決まった和音のつながりばかりでは、それもつまらない。こうなる期待したら、思いもかけない展開になった。
しかし、不規則性についてさらに思う。美しい不規則さとは、何なのか。
その不規則が、サイコロを転がしたような本当の不規則、at random ならば、たぶん美しくはないのだと思う。一次的には不規則に見えるが、一つあがった次元の元では、やはり何らかの規則がなければならないのではないか、ということである。
一見不規則に見えても、微分して次元を下げれば、そこには判然とした規則性が現れるというか。

ということで、私は、深いにせよ、浅いにせよ「規則」をこそ、人は美しいと感じるのではないかと考えるのである。

第一に、規則があること。
第二に、ときどきは、その規則をくずすような不規則があること。
第三に、その不規則には、やはり別の次元の規則があること。

人間は、規則を食って生きている。

#規則、規則というと、あまり気持ちよくないのも事実。
#「規則」という言葉についた手垢、あるいは形式主義者の匂いがしてしまう。

よいリズムとは?
4分の2拍子と、4分の3拍子の違いは何?
シンコペーションの意味とは? 弱起の意味とは?
考えてみたい。

(991002)

メッセージのデザイン

まずはじめに、コミュニケーションの極く簡単なモデルを図示することにする。まず、送り手は自分の頭の中に、伝えたい内容を想起する。あるいはすでに想起されたイメージあるいはメッセージを受け手に対して伝えることを企てる。頭の中の内容を直接受け手とやりとりすることはできないので、メッセージは何らかの媒体(メディア)上に表現される必要がある。そして受け手は送り手によって表現された媒体を見る、あるいは聴く触れる。最後に受け手はそれを解釈して自分の頭の中にイメージを組み立てる。こうして簡単な一方通行のコミュニケーションは達成されたことになる、めでたし、めでたし。あらゆるデザイン活動や社会的な行為をこの単純化されたモデルにあてはめて見ることができる。企業は機能と共にある生活のイメージやメッセージを製品に託して(表現して)買い手に提示する。買い手がそれを良しとした場合売買が成立する。
しかし、このような単純なコミュニケーションと言えども、普通の場合それほどことは簡単にすまない。つまり、一般的に受け手のイメージ=送り手のイメージにならないということである。受け手にしてみれば自分の言っていることを相手が理解しないということであるし、受け手の側から言えば、あいつの話しはどうもよくわからないということになる。このように、どちらか一方がわかりあえていないと思うときはまだいいのだが、お互いわかったように思っていながら本当は通じあえていないことも良くある。そのやりとりを見ている第3者がハラハラしたりするわけだ。
なぜこのような不都合が起きるのか考えてみると、その理由には次のようなものがある。

1. 表現力の問題
送り手の表現が不十分なとき。送り手の頭の中にあるイメージとその表現がマッチしていない。(本人、気づいている場合と、いない場合とがある)

2. 理解力の問題
受け手の理解力が足りなくて、表現を自分の頭の中に組み立てられない。(やはり、本人、気づいている場合と、いない場合とがある)

3. メッセージの曖昧さ
そもそも、伝えるべき内容がはっきりとしていない場合。送り手本人はわかっているつもりでいるのだが、よくよく調べてみるとはっきりしない場合も多い。また特に、送り手が複数の人間からなりたっている場合(つまり、会社の企画部門とか)、各々考えていることが全然違うことよくある。

今特に問題にしたいのは、3.のメッセージが曖昧であるときのことである。さてここでもう一度、企業が物を作って市場に出すときのことを考えてみよう。デザイナーは立てられたコンセプトに添って製品の形をデザインする。(表現としてのデザインのレベル) デザイナーがいくら頑張ってもその商品は失敗することもある。もちろんデザイナーの表現能力不足ということもあるだろうし、コンセプトすなわちメッセージがあまりに時代に先駆け過ぎていて買い手が理解できないこともある。しかし、一番多いケースはコンセプトつまりその製品のメッセージが曖昧であることである。結局会社なり、社長なり、企画担当者なりに明確なイメージ(メッセージ)がないことが一番の原因である。あるいはイメージは持っているが本当に買い手の欲するイメージではないこともある。(その場合、買い手という不特定多数のイメージを企画者に理解する能力がなかったということである。つまり、市場を読み損なったということ)
しかし、現在インダストリアルデザインが行なっている作業は、図の「もの」から受け手への局面に向かい過ぎてはいないか。つまり、物をデザインの視点の中心に置き過ぎてはいないか。物そのものの形を操作(デザイン)することによって買い手がどういう感じを受けるのかということに注意が集中し過ぎていないか。デザインマップをつくって、この形だとユーザーは親近感を感じる(のではないか)、またはこの形によってユーザーは先端技術のイメージを持つのではないか。あるいはコンサバティブなユーザー層はこんな形を好むとか、クールなユーザーは...とか。
ここにおいて、欠けている視点は言うまでもなくメッセージを表現すると言う局面である。この中で表現力の問題に関しては個人の技量の問題というかまた別な次元の問題なのでここで述べることはしない。むしろ、メッセージが曖昧、はじめからない、あるいは間違ったメッセージであるとき。この場合デザイナーはどうすべきなのだろうか。
結論から言うと、今この時代のなかではもはや、われわれデザイナーこそがそのメッセージ自身を創造しなくてはならないということである。理由はいろいろある。世の中複雑化してきて、何が正しいのだか誰にもよくわからなくなってきているのだ。企画を10年やっているなんていったってわかりはしないのだ。そんな中で頭の中にあるイメージを外在化すること行なってきたデザイナー、売れるかどうかということからある程度距離を置いて何がいいものなのかを客観的に考えられる位置にいたデザイナー、それを形を作ることで検証してきたデザイナー。
まあいいか。とにかく、これからはメッセージを作る仕事を本気でデザイナーがやらなければならないのだ。考えてもみなさい。今の企画マンらに伝えるべきイメージなんてないか、あったってどうせ間違っているんだから、我々がやるっきゃないじゃないか。(中には本物の企画屋さんもいるかも知れないけれど、僕はあまりすごいと思ったことないなあ) なんだかんだいったって、結局はいままでだってデザインコンセプト等と言ってメッセージを作る仕事をしてきているでしょう。それだったらそのことに本気で取り組むべき時ではないかということである。
ユーザーのマップなんてものをクライエントや企画者のためにつくっていないで、かれらの示すべきメッセージを彼らにプレゼンテーションすべきである。会社はどちらに進むべきなのか、どういうメッセージをユーザーに発信すべきなのかをプレゼンテーションをすべきだ。もちろんそのためにはそれなりの勉強が必要だけれど。
少なくともクラエントにユーザーマップを見せて、パッシブかアクティブかなんてことを伺い立てても、彼らは迷うばかりである。そして必ずや間違ったディレクションを決定する。それより、あなたがたのいいたいこと(メッセージ)はこうなのではないか、あるいはあなたがたの言うべきことはこれである、ということをぶつけるべきである。
ここで必要なことが「見識」ということなのだ。我々は見識を売って商売しているといっていいと思う。見識があるとは価値がわかるということである。見識を売るとは価値を売るということなのだ。ここで価値とはメッセージである。例えば、「車は本来自由な物であって、自分が欲しいものは、本当はスペックなんてそれほどどうだっていいんだ。かわいければいいんだ。クルママニアに笑われたっていいんだ、自分が欲しいというものを欲しがることはかっこのいいことなんだ。」といったメッセージは車の持つ機能に負けないぐらい大きな価値になっていると思う。そして、デザインはもはや付加価値ではない。デザインは「機能」についたおまけではない。製品が持つメッセージは製品の機能と同等か場合によってはそれ以上の価値をもつといっていいと思う。メッセージをデザインするというのはこういったことである。

(89年頃)

規則と不規則、そして意味

はじめに存在した音は、おそらくホワイトノイズのような何の規則も持たない音の連なりであっただろう。風が奏でる木々のざわめき、火山の唸り、動物達の叫び声、それらの入り交じったノイズ。意味も持たずに発せられた音と音が不協和なままで存在していた。

たぶんはじめの人間達はそういった混沌とした音の堝(るつぼ)の中から何らかの規則性を読み取ることを覚えていったのだろう。波の寄せては返す繰りかえしのリズムも、はじめはただの冷たい水と固い砂の作りだすノイズであったに違いない。しかしひとたびそこにリズムを見いだすやいなや様々な意味がそこに生まれた。
(あるいは、自らの生きている証である心臓の鼓動とダブらせただろうか。)

はじめにあったカタチは、見えるがままのただの形であった。動物達の目に映る木々は木々の、動物は動物の、そして山は山のかたちであり、それらはただその他のものと区別をするに役に立つしるしであった。そして、形のもつ規則性により、木々と山々と動物達は同じ種類(!)のものでなく、また犬族と猫族はことなり、食べられる草とそうでない草とを見分けることを覚えたのだろう。
そして意味が生まれた。

規則とはあるものとあるものが同じであるということをつなぐ、見えない糸のようなものであり、不規則とはあるもの(ある種類のもの)があるものと違うという壁のようなものである。
しかし、当然これらは一つのことの裏と表であり切り離しては考えられない。N極のないS極だけの磁石はないし、男しかいない世界に「おとこ」という概念が存在しないのと同じことである。
つまりここで言っている規則性とは「同じであること」であり、不規則性とは「違っていること」といったほどの意味である。

(1989頃)

ウィンドウはえらい

ウィンドウ以前―――テキストスクリーン
DOS などのスクリーンは基本的には1枚のコンソール画面という考え方によってによってユーザーとのコミュニケーションを取っている。
文字は基本的には1次元のバイト(またはワード)列である。したがってもし人間の短期記憶容量に制限がなければ、本来的に言えば、「一文字」しか表示できない画面でもよいといえる。(正確にはリターンを打つ前なら、エディットできるという意味では一行単位のディスプレイがあればよい。)

しかし、ハイパーテキストという概念を持ち出すまでもなく、人間の情報処理は同時発生的というか、一時にはるかに多面的な活動を行なっている。
すなわち、dir あるいは ls と打って、ダンプされたファイルのリストを見ながら、コマンドを打つなど。

この多面的な活動をサポートしようとして考えられたのがウィンドウという仕組みである。ウィンドウの概念以前には(*)マルチコンソールがあるのだろうと思う。

DOS のコマンドを打っていた頃にも、なぜバックスクロールができないのか、非常にもどかしかった。画面はたかだか 20数行しかないので、ちょっと長いファイルリストは、すぐに画面の上方にかき消えてしまうのだった。またマシンのスピードが徐々に上がって、ctrl+S なんて打っている暇もない。
しかし、その時代でも多少バッファをもてば、ある程度の逆スクロールぐらいできただろうにと思うのだ。それも見るだけだったら簡単なはずだ。(気が利かないやつ。)

ウィンドウは、本当にえらい。

マルチコンソール:
これはファンクションキーなどによって複数のコンソールを切り換えられるものである。一時に一枚の画面しか見ることができないが、それでも一つのコンソールよりは画期的に便利。
OS-9 という OS で実現していた。

(1989頃)

ソフトウェアデザイン宣言2

・ソフトウェアをデザインしなければならない。
・ソフトウェアのデザインとはコーディングレベルのいわゆるプログラムのデザインではない。
 また、そこに静止してある「かたち」のデザインではない。
 むしろ、空間としての「かたち」をデザインすることをも含めた、あらゆるものの時系列上でのレイアウトデザインである。
・ソフトウェアデザインとは「使用する」というまさしく"ing"系のダイナミックな「こと」のデザインである。
 またソフトウェアデザインはコミュニケーションのデザインである。
 人と機械、人と人の情報伝達系のデザインである。

1.デザインとソフトウェア
現在、市場をにぎわしている製品群が世の中に出て使用者の手にわたるまでには数多くのステップが存在している。その中でデザインというものがかかわっている工程は製品企画の段階から最終的なセールスプロモーションまで実に多岐にわたってきている。こうした企業レベルで捉えられる「デザイニング」の傾向は今後おそらくさらに広がって行くであろう。このなかで「ものを作る」という意味での製品デザインという場合、現在工業デザインの分野が主にこれにあたっている。
このような状況中で今、これまでにない製品種としてコンピュータというものが大きな産業の潮流をなしてきた。コンピュータを構成する要素としてはハードウェアとソフトウェアというものがあり、これらは初めからセットになっている場合もあるし、それぞれ製品として独立している場合もある。このうちハードウェアのデザインに関しては、現在のところ従来の工業デザインの手法によって行なわれているわけだが、ソフトウェアに関していえば製品デザインという見地からほとんど何のアプローチもなされていないというのが現状である。このほとんど手つかずの状態の原因は果たしてどこにあるのであろうか。ここではその答えを示すというよりは、問題点の指摘だけをしておこう。

<デザイン対象が不明>
ソフトウェアが通常の製品と決定的に違うのは、まず第一にソフトウェアには「かたち」というものがない。はたして形のないものをデザインすることができるのだろうか? いったい形のないものの何をデザインすればよいのだろうか? この問いに答えるには、そもそもデザインというものが何であって、何をデザインすればデザインをしたことになるのかという原始的で根源的な話題にさかのぼらねばならない。

<デザイン課題が不明>
第二に、ソフトウェアにおけるデザイン的な問題点が見えにくいことが挙げられる。もし、何の問題もなくソフトウェアが設計制作、そして流通されているのならば、デザイナーが何も口だしすべきことはない。いったいデザインによって何を解決しようというのだろうか?
しかし逆の見方からいえば、次から次へと送り出されるこのコンピュータライズした製品群に、はたして買った側は本当に満足してしているのだろうか。たとえばよくでる話題として、購入したパソコンやワープロの多くが押し入れの中で眠っているといわれるが、この押し入れパソコンや神棚ワープロとなってしまうことの原因ははたして使えなかった使用者側にあるのだろうか? 作る側としては使ってもらうユーザーのことを十分に理解して製品を作ったといえるだろうか。このことに関してデザイナーは一歩踏み込んで考える余地は本当にないのだろうか。
また、ソフトウェアとても激しい市場戦略の中で、他社製品と差別化した競争力を持たねばならないのは当然であり、その激しさは他の製品群と比べてもけっして劣るものではない。この市場バランスの競争力となりうる価値をデザインとして付加できる要素があるのではないだろうか。

いずれにしても、ここではソフトウェアにデザインがいまこそ必要であり、なおかつデザインが今後のソフトウェアの進展についての重要な鍵を握っているという視点で以下の章を見ていくことにしよう。

2.コンピュータの現状
コンピュータはハードウェア的に見るとどのような業界と比べても、もっとも進歩の激しい世界である。それどころかこれまでのいろいろな産業の歴史を紐といても、性能・価格の両面で信じられないほどの飛躍のしかたをしている。ソフトウェア的にみてもハードウェア程ではないにせよ、昨日までの夢物語が着実に現実のものになってきている。
特に、ハードウェアの急激な進展の結果として、使用者層の拡大とパーソナル化をもたらしてきた。理科系人間や機械好きの人達から、これまでコンピュータを使うなど少しも考えていなかったような人達に使用者のターゲットが広がってきている。いわゆる「コンピュータを知らない人達」を相手にコンピュータを作り、売らなければならない時代になってきたといえる。同様にパーソナル化の波が押し寄せている。ワードプロセッサやパソコンなどは数万円も出せば誰もが個人用に買えるようになってきているし、ワークステーションといった少し前では研究室レベルで使われていたようなパフォーマンスの機種が個人単位の使用をメインとした使用形態に移ってきている。このような事態を、少し前では誰も思いつかなかったことを考えると、今いわれているコンピュータがひとり一台という時代も、まったくの冗談どころか目前までやってきているといえる。
しかし、一方では前述したとおりこういった技術の進歩に使用者側がついていけないということも現実的には起きているわけで、このギャップはさらに広がっていく傾向にある。

3.コンピュータとはなにか
それでは、このわけのわからないコンピュータの素顔というものを、もう少し見ていくことにしよう。
コンピュータを買いましたとかコンピュータを導入した、というと真っ先に投げかけられるクエスチョンマークが「何に使うのですか?」、「どんなふうに役に立ちますか?」という問いである。実際、ハードウェアとしてのコンピュータを買っただけでは何の役にもたたない。パソコンといった類では、その機種にマッチするソフトウェアを買い、複雑な手続きを踏んでハードウェアに与えてやってはじめて使えるようになるし、大型マシンでは必要な機能を備えたソフトウェアを開発するか、させるかして使うことになる。したがって、導入前に、かなりはっきりした目的意識(何に使い、どのように便利になるのか。)をもってあたらねば、大型マシンでも神棚行きになりかねない。当然のことながら大型機ほど悲惨な結果となる。
一方、エアコンやビデオデッキ、あるいはコピーマシンを買うといやでも中にコンピュータ(この場合は、ソフトウェアはすでに組み込まれている)がはいっている。裏方にまわって仕事をしてくれていたときはよいが、いったんコンピュータとして多機能化の恩恵を受けようとした途端にわけのわからないものになってしまうことがある。これらの機能はいったい役にたっているといえるのだろうか? はっきりいって役にたっていないことが多いし、場合によっては、基本機能を阻害していることすらある。
こう見てくると、コンピュータはそれだけで役に立つ機械というより、むしろ大きな機能モデュールのようなものと考えたほうがよい。たとえば、エンジンやモーターのようなものと同じである。それだけでは、何の役にもたたないが、新しい使い方を考えてやると、とても役にたつものになる。小型のモーターを小さな箱にセットして刃を取付ければ鉛筆削りになるし、強力なものを建物にセットし、人の乗る箱を巻き上げるようにすればエレベーターになる。
コンピュータもセットの仕方、動作の仕方を考えることによってモーターとは比較にならぬ程の変身のしかたをする。この新しい使い方にあたるものが、ソフトウェアである。コンピュータのハードウェアが用意してくれている多くの細かな機能群をどう選び、組み合わせ、配列するかということを定めた仕様書がソフトウェアである。
したがって、ソフトウェアにこそコンピュータの本質があると考えて差し支えない。さらに言うならば、この「使い方のデザイン」こそがソフトウェア、しいてはコンピュータのデザインにほかならない。

4.ユーザーインターフェース
コンピュータと一口で言っても、組み込み型の数ミリ角のものから超高速の部屋を埋め尽くすようなものまである。コンピュータシステムの利用形態からいえば、何年間も無口に無人プラントの管理をするものから、ワープロなどのように人間と機能的なやりとりをしながら仕事をして行くもの、極端な例ではテレビゲームのようにじょう舌に人間とだまし合いを演じるものまである。
ソフトウェアデザインの大きな視座として、ソフトウェアの対話性ということが上げられる。一般的にはユーザーインターフェースとかマンマシンインターフェースという言葉でいわれている分野である。これは上記のようなシステムのうちじょう舌な機種ほどその比率は高いといえるが、どのような機種でもどこかの時点で人間との接点を持っている。ユーザーインターフェースに割かれるソフトウェアのコード(プログラム)の量も、開発の作業量も飛躍的に増加しているし、この傾向はさらに厳しさを増していくだろう。おそらく、ソフトウェアクライシスといわれることの中核的な課題に位置づけられて行くことと思われる。
また、ユーザーインターフェースの質的な面からいうと状況はさらに厳しいといえる。現在、あらゆる方面でその必要性が叫ばれてはいるにもかかわらずこれを専門的に扱っていける分野が存在しない。日本的な事情からいえば、ユーザーインターフェースの解決にあたって必要と思われる資質は、理科系、文科系の両面にクロスオーバーしたものなので、なかなか適切な人材が育ちにくい。問題の所在はもちろんソフトウェアのテクニック上のものではなく、そういったものを前提としたうえで、なおかつ人間と機械、人間と(機械を通しての)人間とのコミュニケーションをデザインしなければならない点がこれまでの分野にないむずかしいところといえる。

5.ソフトウェアデザインの実際

6.ソフトウェアデザインのステップ

....


9.結論
ソフトウェアをデザインするということの中に、新しいデザインの世界が広がっている。これまで、「かたち」あるいは「もの」の世界に限定されがちであったデザインをもう一度再構築し、普遍化するためには避けて通れない一つのゲートである。真に使うものとしての道具という見方から見直すとデザイン上の解決すべき点は数多く残っているし、またこういったアプローチをとれることにこそデザインの特質がある。

ここでの結論はもちろん本論が最初に述べたことではなく、こういった議論はデザイン行為が始まったときから潜在的にあったはずであるし、従来の道具や機械やメディアがデザインされる時点において暗黙のうちに行わていたことであろう。むしろコンピュータという我々の頭脳を模倣する機械が現われて、工業的にそれを処理しなければならなくなってきた今日において、問題が露になったということであろうと思う。


(89年頃)

ソフトウェアデザイン宣言1

ここでいうソフトウェアのデザインとは、そのソフトウェアがどういう機能を持ち、またその機能はどのように働くかを設計することである。これまで、そういう職業がなかったかと言えば、強いて言えば日本では、おそらく SE(Systems Engineer) と呼ばれる人達がこの仕事を行っていたのであろうと思う。しかし、最近のパーソナルコンピュータでの米国産の優れたソフトウェアのクレジットを見ていると、
Design by ...
Program by ...
という形で入っていることが多い。ここにおいてデザインといっている部分で行われている作業というか仕事は、日本で言うところのSEがやっていることとはずいぶん概念が異なっているのではないだろうか。
ソフトウェアデザイナーとSEの違いを感覚的に捉えれば、今までにない新しい問題の切り口を見つけだすことによってより革新的にアイデア発想的に、問題の解決に迫っているかどうかと行った点であろうか。
おそらく、この違いのもとはソフトウェアの設計の出発点の違いによるものであろうと思う。この設計の原点となっているものは、極端に言ってしまえば人間であるか、システムであるかということではないだろうか。現在日本では、ソフトウェアのプログラマーが経験を積んでSEになる、というのが一般的である。したがって、ひとことで言うとSEというのはシステムの事情に通じている人ということがいえる。
しかし、もう一方ではもっと人間よりの発想というのが存在してもよいと思う。人間とは、作業する人でありシステムを使う人である。人間を見て、ソフトウェアをデザインしなければならない。いわゆるデザイナー(設計者一般の意味でなく)は、人を見てきた職能であるといってよいと思う。だからこそ今、デザイナーはソフトウェアをデザインしなければならない。

(89年頃)

ハイパーカードについて

現在のところ、マッキントッシュとそうでないものにかかわらず、最もホットなソフトウェアである。また、ユーザーインターフェース、スクリーンデザインに関してもかなり関わりの深いソフトウェアである(*1)と言える。I氏の意見によれば、このソフトを境に巷でスクリーンデザインに着手するデザイン事務所なりが大いに排出するあろうということである。
自分にとって、あるいは自分の会社にとってみるとこの動向は二つの意味で要注意ということになる。つまり、第一には競合相手が増えるという直接的なことと、第二に(これが大きいと思うのだが)われわれが目指すコンピュータデザイン(ユーザーインターフェース、スクリーンデザインを大きく包含する概念として)の質が薄まることである。これは例えばCIビジネスの中で、PAOS(=中西元男氏)が目指してイメージしたものがCIの流行(!)と共に、一部に大いなる誤解をもって拡がったことと同様の構造をもっている。ここにおいてもっとも悲劇的なことは、デザイナー自身がことの本質を理解しない(*2)で誤った認識でデザインにあたり、これを流布していったことにある。もっとも、本質を正しく理解する能力がデザイナーにあったならば、デザインが真に重要な意味を占めるはずのこの時代において、デザイナー自身が冷や飯を食っているわけはないのだが。

*1: 何故ハイパーカードがスクリーンデザインと関連深いか?
ごく表面的、直観的に見てもハイパーカードはほとんどスクリーンデザインそのもののように見える。このことはある意味では正解だし、ある意味では当たっていない。
まづ当たっていない理由としては、ハイパーカードはいわゆる羊の皮をかぶった狼であり、このソフトウェアが達成しているレベルはコンピュータだって普通の人間に本当に使えるものであるのだ、ということを完成した製品として例示したことである。当然、マッキントッシュという下地があってはじめて成しえたことではあるが、むしろマッキントッシュというものをコンピュータを作る上での一つのコンセプト(=概念)あるいは、哲学、思想として捉えるならば、ハイパーカードはその概念をより一層明確に形にしたものである。
ただし当然、ハイパーカードが示した方法がただ一つのものではないとは思う。ハイパーカードの示した方向は、今後の展開して行くであろう大きな潮流の One of them. であって、なおかつ初めての One. であったということである。
一方、ハイパーカードはスクリーンデザインそのものであるという理由は、ハイパーカードがビジュアル(視覚表現)に密着して存在している点である。極端に言ってしまえば、ビジュアルがなければハイパーカードはもはやハイパーカードではない。そうなったら、別の名称で呼ばれるべきだし本質的に別物である。たかが視覚表現のことであるが、人間はこの「たかが」の視覚というものによって、考え、発想し、整理し、飛躍する生き物なのである。言葉というものによってある概念が明確に意識され定義づけられ、伝えられたのであろうが、概念そのものがやってきたのは視覚を通してであったのではなかろうか。

コンピュータによってビジュアルを扱うことは(コンピュータグラフィックスではなく)これまでは(正確には XEROX/PARC の研究以前は)とりあげられなかったし、現在もコンピュータサイエンスの分野ではあまり本気で研究されているとは思えない(*)。しかしコンピュータと関係のない実際の生活の場や仕事の場においてはビジュアルの要素なしでは考えられないのではないか。雑誌、書籍などちゃんと印刷されているものをみれば必ずデザインされているし、家具や機器だってデザインされずに生産されることなどありえない。
それでは一般の人が使うべく作られたソフトウェアのディスプレイは?
話が飛躍しましたがハイパーカードはこういった捉え所のない視覚表現を大変たくみな切り口で処理したほとんど初めてのソフトウェアといえる。それはユーザーカスタマイズのきく高度な視覚表現ツールと、組み合わせればかなりなことまでが自由になる基本ツールを解放した。

(1989頃)

今でいえば、Adobe Flash ということになるのかも知れない。しかしインパクトの強烈さでは、ハイパーカードには及ばない。それ以前にそういうものはなかったのだから。
あるいはSmalltalk-80(今でいえばSqueak)になるのかな(ハイパーカードより前だけど)。しかし人々がちゃんと使える、デザインとして完成したものとしてはハイパーカードに及ばない。
とはいえ、そのような革新的なものがなぜ消えていってしまうのだろう。(MacDrawも、Moreも、Newtonも、消えてしまった。)
これは考えるべきことだ。

(100204)

二つの概念の比較

情報をデザインすることと情報の関係をデザインすること
発信源(センダー)と受け手(レシーバー)
発信内容(メッセージ)と媒体(メディア)
ねあかとねくら
空間のデザインと時間のデザイン
美しさをデザインすることとわかりやすさをデザインすること
ソフトウェアデザインとハードウェアデザイン
「わかる」ことと「わからない」こと
抽象化と具象化
右脳と左脳
価値と意味
実体と名前
開発者の悩み
出来る/出来ない
容易/めんどくさい
やりたい/やりたくない
名前のないものと名前のあるもの
簡易指向と本格指向(バカチョン/リコウチョン)
構造と内容(ストラクチャーとコンテンツ)
背景と主役(図と地)
アナログとデジタル
NOUN-VERB方式とVERB-NOUN方式
生きているものと死んだもの
定性的と定量的

(1989頃)

デザインとコンピュータ

現在、コンピュータはますます安価になって使用者の裾野を拡げています。近い将来には誰でもが何らかの形でコンピュータを操作するようになります。勿論どのような使用形態になるかは難しいところですが、いわゆる組み込み型のものを、知らないうちに使うというのではなくコンピュータそのものを使うようになるでしょう。
たぶんその時のコンピュータは今のようにキーボードなどは勿論、マウスも付いているか怪しいものです。もしそれを肯定するとしてその時一体どんなユーザーインタフェースが付いているでしょうか。
そのコンピュータは、どんなデザインが与えられているか想像をしましょう。

(1989頃)