2007年11月22日木曜日

ルールとゲーム

ルールはゲームに先立つものだ。
しかし実際にゲームをやってみなければルールは決められない。
(071122)

2007年10月22日月曜日

名前と概念と現象

名前や概念がまずあるわけではない。
おそらくとりあえず先にあるのは事実なのだろう。しかし事実を直接知ることはできない。人が知ることができるのは、現象を通してである。
現象に対して解釈=概念があり、名付け=名前がある。だから、事実(現象)を説明するのに、名前を辞書的な講釈から始めるのは実はあまり適切でない。(自分もたまにそうするのだが)
最終的に読み解こうとするのも結局は現象自体なのだ。(そうでないものを空論と呼ぶ。)
(071022)

2007年10月3日水曜日

デザイナーのゴール

T美術大学の卒業制作中間審査会。多くの学生の発表を見て考えたこと。
「自分が感じた」ということはスタート地点だけど、それを他人に感じさせることがデザイナーの仕事(ゴール)だ。
(071003

2007年9月9日日曜日

二つの大事なこと

人生で二つの大事なこと。
「味わう」ということと「鍛錬」をするということ。
味わうとは、つまりより深い意味を、頭よりはむしろ体で知るということ。
また鍛錬するというのは、自分の身体を拡張するということ。自分の身体の可能生を広げるということ。
後者は体力だけでなく、身体的なスキルという意味。たとえば絵を描くとか、楽器を奏でるとか、身のこなしを整えるとか。
(070909)

2007年8月27日月曜日

アイデアを出す方法

・パラメータをひとつだけシフトする。(できれば極端に)
・ひとつを二つに分解する。
・二つを一つに合体する。
・連想していく/派生させていく/(思いつきはどちらに飛んでもよい)
・バリエーション/表現方法を変えてみる。
・まとめる。(サマリー)
・分類する/似たものをまとめる/エッセンスは何か抽出する
・名前をつける(呼べるように)
・絵/図にする ← 一目でわかる、操作ができる
・一枚一案/孤立、境をはっきり
・何みたいか/似ているものを考える、比喩
・時間を集中して考える、1時間~2時間
・オフの時間に考える。
・少し間を置く。
・個別要素で考える
たとえば:新しい携帯電話 → 形は? 操作は? 画面はどんな? ディバイスは? 使う人は?
(070827)

2007年7月19日木曜日

問題は何か

問い=設問を常に明確にすること。
今、何について考えているのか、何について話をしているのか、問題は何か、得たいものは何なのか。問題に対して答えを出すよりも、むしろその問題を理解するということ。
問題を完全に理解すれば、とりあえずよい。あるいは問題を理解しないうちにそれを解こうとしないこと。


いつか読んだ言葉。
「ルールは破られるためにある。しかし破るためにはそれを理解しなければはじまらない。」(National geographic)
(070719)

2007年4月18日水曜日

現象と印象

デザインは現象とそれが引き起こす印象との関係を調整すること。
ふつうの状況では、人はある現象に相対したときに、ある印象を持つ。
しかしデザイナーがしなければならないことは、未来において人がある印象を持つように、現象を創り出すことである。

ここでいくつか困難なことがある。
第一に、ある印象を引き起こす現象は無数にあること。そして、印象は現象とセットになっているので、現象をさしおいて、どういう印象を与えるべきかを議論できないということ。これはデザインでいえば、ある対象のデザインを考えるとき、コンセプト(=与えたい印象)は、アイデア表現(=作るべき現象)とともにあるので、アイデアスケッチなしで、コンセプトを議論できないということ。あるいはアイデアスケッチを使って「しか」コンセプトが議論できない、ということ。つまり、アイデアスケッチというのは、コンセプトを語るための言語であるということだ。
なんについてもそうだけれど、メディア(ことばとか、アイデアスケッチ)なしでは、概念を語れないということだ。
もしかすると、概念がことばに先立つ、という観念がそもそも違っているのかも知れないという気もするが。

(070418)

機能と構造(100311)で、まったく同型の議論を展開している。
(100314)

2007年4月12日木曜日

分析と統合

工学や科学の手法は分析(analysis)的で、細かく物事を分けて理解し、そしてデザインは統合(synthesis) である、ということになっている。
しかし何故、統合の科学というものがないのか?(あるのかな?)
デザイナーはできるだけ大きな絵を描こうとする。すべてが含まれるように。
(1)デザインは、全体を扱おうとする。
(2)デザインは現象を扱おうとする。
どちらも本質的な部分と思うが、それらの関係は?
(070412)

2007年4月1日日曜日

ノーマンの批判

ノーマンをはじめとしたユーザビリティの専門家たちは、既存の製品を批判することが好きである。何となくその物言いに、敵対心のようなものが私には感じられるが、彼らの読者には、そういった毒も受けているようだ。
でも、ドアの取っ手が引くようにみえるとか、押すように見えるからダメだとか、確かに使い手を惑わせるような形はよくないが、デザイナーであればそういったことには気づけて当たり前なことであるような気がする。
もちろん、気づけずに失敗することもあるだろうけど、デザイナーは早くこのようなレベルから先に進んだ方がよい。もっともっと大きなことをデザイナーはやっていると私は思う。いわれてへこむ必要なんかぜんぜんないと思うな。
(070401)

2007年3月30日金曜日

ユーザビリティとデザイン

先日あるクライアントのデザインマネージャーのH氏と話をしていたときのこと、彼は次のようなことをいっていた。
「ユーザビリティのテスターと、デザインは明らかに全く違う。自分たちのやっているデザインの価値は本当に高い(私たちも同じ)ので、それをもっとどうにかして社内外に伝えなければならない。」と。
彼は大きなメーカーのデザインセクションに属している。製品のユーザーインターフェースデザインを実際にやっているデザイナーからみたら、ユーザビリティ系の活動はぜんぜん中途半端に見えるのだと思う。私もそう思う。

最近では、ユーザビリティ専門家たちは「ビッグユーザビリティ」といったことをいっている。使いにくいものを使いやすくするだけではなく、さらに気持ちよい、楽しくなるような使い心地を実現することを指している。またそれには「感性」といった言葉が付随することも多い。
でもいったいどんな手法で、それを実現しようというのだろう。彼らの目には、デザイナーが100年もやってきたことは何と映っているのだろう。
(070330)

2007年3月9日金曜日

好みに関する不確定性原理

人々に好まれるデザインがよいデザインとはかぎらない、ということを私は支持するものである。しかし一部の人達が、結果的に人の好みを計算して、デザインを決めようとしているようである。人の好みを測定し、計算し、決定することはできるのだろうか?

もし仮に、人々の何やかやを測定し、AというデザインがBよりもよい、と決定できたとしよう。しかし私だったら、デザインAは皆に好まれているそのことによって、好きでない、といいたい。少なくともそういう人がいても構わない。つまり測定すること自体が結果に影響を与えてしまう、ということである。このような好みに関する不確定性原理は成立すると思う。
(070309)

デザイナーと大工

家を建てるには大工が必要である。その意味はつまり、現場合わせや材料任せで作る部分がないと家はできない、ということ。すべてを設計時に決めることはできない。これをブリコラージュといってもよいのだろうか。
一方、大工だけでは家はできない。犬小屋ならともかく、人の住む家は設計者が設計図を書かなくては作れない。普通。
コンピュータのインターフェースを作る場合、デザイナー(あるいは他の誰でも)は、設計と大工の両方に関わらなければならない。発想を得るためのアイデアスケッチや全体の見取り図も書かなければならないし、カンナで材料を削ったりペンキで壁に色を塗ったりしなければならない。

学者(ユーザビリティの専門家、研究者)は、筆の使い方を知らない。使えなくても仕方ないのだけれど、むしろ問題は、ここで述べているような事情を理解していないために、それをないがしろにするか、無視する傾向にあるということ。そして彼らの目には、デザイナー=大工としか見えていないのではないか。どんなによい設計であっても、大工がヘボなら出来は悪いさ。

一方中途半端なデザイナーは、大工レベルのスキルに満足する、あるいはやはり自分でデザイナー=大工と考える。その上のレベルの仕事というのが存在することを想像することすらできない。

これらの人の片方ないし両方が、ほとんどのものを産みだしているのが現実なのだが、私たちはいったいこの事態に対してどのように対処すべきなのだろう。
(070309)

2007年2月22日木曜日

感性が強い

感覚が研ぎ澄まされているとか、感性が強いとは、「問い」をダイナミックに生み出せるかどうか、ということではないかと思う。すくなくともそれらはシンクロしている。
(070222)

2007年1月19日金曜日

何かを変えるということ

人が生きるということは、世界に影響を与えてそれを変えるということ。あるいはそこに足跡を残すということなのだろう。
しかし自分の中に、世界をまったく変えずにそのままにしておきたい、という気持ちがある。いったいこれは何だろう。
(070119)

2007年1月15日月曜日

工学とデザインについて

方法が定式化されなけば工学ではないという。
すくなくとも方法論を定式化しようとしなければ工学にはならないと言われた。
知り合いの(ハイレベルな)ソフトウェア・エンジニアも同じようなことをいっていた。「誰がやっても同じ高さのレベルが達成されるやり方がよいやり方であって、我々はそうしろと教えられた」そうだ。それは私が、「使う人ごとに違う結果が得られるようなツールを作りたい」と言ったことに対して、おもしろがって笑いながら答えてくれたことだった。
まぁ、工学がそういうものである、というならそれはそれで結構なことだと思う。しかし私がデザイナーとして目指しているのは、とにかくよいものを作り出すということがあるだけなんだ。方法として確立されているか、あるいは確立することができるかは、どうでもいいことで、とにかく与えられた条件の中で(ときには条件を疑いながら)ベストなものは何なのかを追求しようとしている。デザインの態度とはそういうのものなのではないかと思う。

しかし、もし工学が本当に記述することができない方法を排除するとしたら、おかしなことだと思う。本当に優れた工学者や、たとえばセンスのよいソフトウェア・エンジニアというものは、いったい何だというのだろう。最終的にはそういう人達のやり方を解析、分析して方法論化するのだから、「方法論化されていないすぐれた方法」は、工学にとって宝の種、なのではないかと思う。
それはセンスだから、と言い捨てるのはいったいどういうことなのだろう。

デザインがセンスに頼っているとしても、出した答えが正解であるなら、それはいつかはセオリーになる、ということは、私にとっては火を見るよりも明らかなことのように思える。

デザイナーはもっとリスペクトされていいんじゃないか?
(070115)

無意識(あるいは無自覚)な知識とは

使用性を語るときには、ふつう自覚的な知識しか問題にしない。しかし実際には自覚しないで知っていることに、行動や判断は大きく左右されている。
デザインにおいては、そこまで考えて行わなければならない。
(070115)

2007年1月9日火曜日

比喩の力

JFKが講演の中で、大衆にとって厳しい政策を説得させる時に次のように言った。
「屋根を修理するのは、晴れた時だ。」(雨が降ってから修理するのでは遅い。)
こういう比喩は非常に説得力がある。
言い訳じみた甘言を弄して下手な説明をくどくどするよりも、よほど正確だし状況を共有しやすい。
そのような状況に対する理解と言葉遣い(表現)ができるようになりたいものだ。
(070109)

生はバラエティを好む

他人と同じであるということを、どうして指向するのか? (ランキング東急)
→ 近視眼的なミクロの話
「生きているものは、バラエティを好む」(by me)
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デザインすべき方向を計算(コンピュータ)によって求めようとする動きがデザイン界の中にもある。しかし原理的にいって、あまりおもしろみのない話だ。(1)「計算によって、導かれた」という事実自体が、好みに作用する可能性がある。 そして(2)究極的にいって計算で出された解を人の好みは否定するであろう。なぜなら、生きているということが、バラエティ(ちがっていること)を指向するから。それが生き物としての戦略だから。同じものをえらぶことは、停滞すなわち”死”を意味している。
(070109)

問いについて

多くの問題は問題を規定する段階、問題を特定する段階で行き詰まる。
あるいは多くの解が問いを同定せずに提示される。したがって、多くの反論や議論は問いとは何か、というレベルで行われることになる。
むしろ、問いに対する答え、という図式をこそ疑うべきなのかも知れない。