2009年12月13日日曜日

工学にむけて

言い古されていることだが、デザインは問題解決である。
問題解決において、論理的な因果律があるなら、それに従うべきである。しかし多くの問題は論理的なアプローチだけで解決することはむずかしい。なぜなら問題は人間が引き起こしているのだから。人間がいなければ問題もない。また別の意味で、論理的に解決できる種類の問題であるなら、そのこと自体「問題」ともいえない、ともいえる。
考えてみても世界には数十億の人間が住んでいるのだから、問題がなくなることはありえない。多くの問題は定式化していない、というか、定式化した時点で問題解決、すなわち問題がなくなるわけなので、問題として残っていることは定式化していない、ということである。この定式化していない問題をなんとか一つずつ定式化してきた、というのは客観的なもう一つの歴史の読みといえると思う。しかし新たな問題の解決があらたな問題を産む。知とは問題の終結でもあるが、問題のはじまりでもある。それはあたかも逃げ水のようなもので、私たちはいつも逃げ水を追いかけている。
論理的に道筋がわからない問題に何らかの答えを出そうとする行為を、私はデザインととらえている。間違えてはならないのは、デザインが非論理的なのではなく非論理的な問題にアプローチすることをデザインと呼ぶと言うことである。また感性(この言葉も怪しい言葉だが)と、最近しきりにいわれるのは、「理屈じゃなくて...」というそんな思いもあるのだろうと思う。
たとえば囲碁の勝負というのは、一つの純粋な問題である。これを完全情報のゼロサムゲームであり、どこまでも論理的に突き詰めていけると考えるなら、問題は霧消してしまう。もちろん事実はそうではあるのだが、答えがあまりに遠い場合の数の先にあるので、(今のところは)人間にとって答えは論理的にわからない範囲にある、という時点において問題なのである。だから囲碁にもデザインがありうる、と願いも交えて思う。そんなわけで、マルバツゲームにはデザインはない。
工学とはどこまでも論理的、実証的、記述可能性の中にあるものと考えている人がいるようだ。だからある意味でデザインは工学の枠の中には入らないと。またそういうふうに考えるデザイナーもいる。しかし世界にある問題は、たぶん上に書いたように定義からして非論理性をはらんでいる。もし工学が「人間の」問題解決の一翼を担おうとするなら、非論理的、非実証的、記述不可能性に向き合う覚悟をしないといけないのではないかと思う。
(091213)

2009年12月1日火曜日

マイクロソフトとアップル

ずいぶん前だが、大谷和利氏は「マイクロソフトは他者を乗り越えようとしているが、アップルは自分を乗り越えようとしている、そこがちがう。」と指摘していた。
私は「マイクロソフトにおいては技術の下にデザインが置かれているが、アップルでは技術の上にデザインがのっている。」と思う。
(091201)

2009年11月29日日曜日

外部構造としての現象

自分の考えるデザインの中心課題とは、「現象」を主体とした判断を行う、というものである。
ここでの「現象」とは、直接に人々の認識の対象となるもの、という意味である。
「非現象」、すなわち内部構造は重要である。それが正しく設計されていなければ、正しい現象は生み出せない。
それでもあえて私が現象と唱えるのは、デザインの受けとり手にとっての判断材料はそれしかないのだから、そこから始めるしかあるまい、ということだ。デザイナーとしての私のリアリティがそう言っている。
またモノづくりの中で、他のどの分野もそれについて取り組むことを表明していないからでもあるのだが。
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現象とは外部構造であると、いってよいのだろうか。ソフトウェア開発の現場で「外部仕様書」という開発文書があるが、これはまさしく外部構造を規定するものであり、本来はデザイナーがこれを書くべきである。というか私たちはこれを時に書く。
(091129)

2009年11月16日月曜日

情報はデザインできない

RT @ジェフラスキン: 情報はデザインできない。デザインできるのは伝達のモードであり、情報の表現方法である。これは情報の本質に関係することなので、デザイナーは『情報」と「意味」の概念を明確に区別しておくことが重要だ。
(091116)

2009年11月13日金曜日

“イメージ”の力

イメージ、それはひとつの想念全体。一次元的な論理の連鎖ではなく、二次元的な広がりをもった全体視野である。“頭”で単にわかっているということではない。その瞬間、関連するすべての事象が“見えて”いる。だから頭でわかっていることをあらためてイメージすることもできる。いやむしろ頭でわかっていることをもう一度イメージすることはなによりも大切なことだ。
(これを語っている今、私の頭(心?)の中には、“イメージ”というものに関するイメージ(メタイメージ)ができあがっている。)
またこうも言えると思う。”理解を見る”ことが、イメージしているときに起こっていることだと。つまりイメージすることの中には、メタ認知的なものがあるということになるのだろうか。
(091113)

2009年11月4日水曜日

デザインという仕事

デザインという仕事が、いったい何をやっているかといえば、未来のモノゴトを計画的によりよく決めるということである。そしてそこで用いる方法論はかなり単純なものである。(と思う。)
はじめには、対象となるモノゴトを現象として捉え、理解するということであり、つぎにそれらに関するアイデアを考えて、できるだけきちんと(複数の案に)表現して、そしてそれらを比べ、よりよい方を採用する、ということである。
すごく当たり前のことであるが、現象的に見ればこれ以上のことはないといってよいと思う。

デザイナーが絵(図、図面)を描くのは、このためである。(サウンドデザイナーなら、絵を描かなくてもよいかも知れない。たぶん、その代わりに音のスケッチをする。)
絵(具体的な表現=未来の想像による現象)を描かないデザイナーを信用してはいけない。言葉だけでコンセプトを語る人をデザイナーとは呼ばない、と私は思う。

現象:人が観ることのできる象(かたち)として現れていること。
(091104)

2009年10月24日土曜日

私のデザイン

私が「デザイン」というとき、念頭においているデザインのカテゴリは、プロダクトデザインやグラフィックデザイン、中でも特に、インターフェースデザインが中心になっている。その他の呼び方としては、情報デザインやインタラクションデザイン、ユニバーサルデザイン(インクルーシブデザイン)、ユーザーエクスペリエンスのデザインなどである。これらは自分で実際に手を染めて活動をし、あるいは教育をしている分野である。その他、実際のデザイン経験があるわけではないが、ファッションや、建築、インテリアのデザインも概念としては含んでいる。
広告に関するデザインについては、別の意味で少し距離を置いている。売れるということは、そのモノやコトにとって大きな意味があるが、ここではそちらの面にはあまり詳細には立ち入らない。(立ち入れない。)
私の興味は主に、人と人工物(モノやコト)の存在意義や現象性、関係性などにある。「なぜ」そして「どうやって」それ(人工物)を作ったり実現するかに興味がある。
また、このうように考えついできたデザインという思考のアプローチが、人の行為や生き方を理解したり気づきを起こしていることが、こういった文章を書く機縁となっている。
(091024)

2009年5月11日月曜日

ビッグバン

ビッグバンというのは、不思議な現象だ。宇宙に「はじまり」があるなんて。
しかしその現象の科学的でない、ひとつの状況証拠として、地球以外の知的生命体が見つかっていないことがあげられるのではないか。
つまりもし、「はじまり」というものはなくて(と、書くと逆にそれはそれで妙な感じもする)、永遠の昔から宇宙が存在しつづけているとすると、現在われわれが他の知的生命体と遭遇していないことをどう説明できるだろうか?


もし、「はじまり」がなかったのならば、現在までですでに永遠の時が流れているということである。
永遠の時が流れたということは、起こりうることはすべて起こり終えているのではないか、ということである。
そして今のところ、我々は知的生命体と遭遇をしていない。
だとするなら、知的生命体は地球人だけしかいないということにはならないか。
それは地球人が奇跡の存在(つまり神の子?)であるか、人間以外の知的生命体が宇宙に存在し続けられない正当な理由が他にあるか。
これはどちらもわたしには受け入れがたいような気がするのだが...。
(090511)


注:この話は論理的に抜けがあります。頭の体操と思って考えてみて。
(091214)

2009年5月8日金曜日

クリエーティブな問い

デザインというのは、与えられた問題に対して答えを導き出すことである、と遠い昔に教わった記憶がある。
しかし、むしろデザインというのは問いを発見することではないかと思うのだ。そしてもちろんその問いに対する答えも提示しなければならない。「現状はこのようになっているが、これはいささか問題ではなかろうか。」で止まったらそれは評論家なので、デザイナーは「このようにすればそれは解決できる」というところまで示す必要がある。


問いというものがあって、それに答えを出すとき、クリエーティブな答えというのはあるのだろうか。
よくよく考えて見ると、クリエーティブさは問いにこそあるのではないか。
(090508)

2009年4月26日日曜日

使用者の幻想

ユーザーインターフェースは、使用者の目の前に現れる「インタラクティブな現象」ととらえることができる。使用者は与えられた現象のみからすべてを理解しなければならない。使用者側からみると、現象とは目に見え、耳に聞こえ、手で触れることなどの五感によって看取されるものであるが、作り出す側から見るとそれは一つの「表現物」ということになる。またそれは実際の機器の内部状態とは必ずしも一致しない。Alan C. Kay は、これを使用者の幻想(Illusion)と呼んだ。
(090426)

2009年4月14日火曜日

テレビ電話

「テレビ電話」という機器は長らく典型的な夢の未来の機械だったと思う。10年ほど前にドコモのFoma一号機が世に出て、それは現実のものになり、今では多くの人が実際にその機能をポケットに入れて歩いている。そして使うことになんの支障も見あたらない、にもかかわらず、誰一人としてテレビ電話を使っていない。使っているのを見たことすらない...。
ものの有効性と「使用されること」の間には、まだ私たちには認知しにくい大きな溝が横たわっているように思える。私はいろいろな機器や機能、サービスを提案する側にいるが、未来の機器の提案の難しさを思わざるをえない。もちろん今では「テレビ電話」を使わない理由を列挙することができるが、私は「テレビ電話は実現できても誰も使いはしないだろう」と予言できなかった。
そして今や、世の中はSkypeの時代である。誰もテレビ電話の機能なんか使わないさ、というのは簡単だが、相変わらず私はそう断言できない。もしSkypeが私のクライアントなら、私は何とかして使わせるような解はあるはず、それを解く1ピースはどこかに存在していると信じることからはじめるだろう。ブレークスルーはいつだってそうやってなされたことを私は知っているから。そして散っていった幾千のアイデアもあったことも。きっとアイデアは生み出せると思う。と、そんなことを最近考えた。
(090414)

2009年4月11日土曜日

デザインについて

「デザイン」とは、何事につけ、物事がうまく運ぶように按配することなのだと思う。
週末に行うホーム・パーティーがどうやったらうまくいくかに考えをめぐらすこと、来年度に売り出す新製品の形や機能考えること、キャンペーン用の効果的なポスターを考えること、日本という国の行く末を考えて、実効性のあるアイデアを考えること、これらはどれもデザインと呼んでいいと思う。
この場で究極的にやりたいこと、それを簡単にいうと、自分なりにもう一度デザインを定義することなのだが、上で述べた宣言と例示は、まさにその出発点となるものである。
(090411)

2009年2月16日月曜日

iPhoneのUI

少し前に「魅力的なUIに向けて、iPhoneを超えるには」というような会合があったらしい。私は参加していないのでそのタイトルから感じて考えたことを書いておく。
ちなみにわたしは iPhone を持っているし、その UI はきわめてよくできている、と日々関心している。その一方でこれ以上改良の余地のない最高のものである、と思っているわけではない。UI として改良すべき点も、別の解答もたくさんあり得ると思う。
しかし、iPhone の卓抜しているところは、他のメーカーでのあまたのUIの延長でないところに一気に、しかも飛びぬけて高いレベルで存在してしまったことはその通りなのだが、それよりもジャンルそのものを創成してしまったところにある。超える超えない(勝った負けた)、というのは一つの土俵に乗っているときの比較の話だ。そして今、iPhone はとても強い大横綱だが、もっと強烈なところは、相撲というスポーツ自体を作ったことにある。これまでの携帯とはそのまま比べられない。
いつかは iPhone の UI を超えるものが出てくるだろう。しかしもし iPhone を本当に超えるとしたら、携帯インターネット(携帯電話ではなく)を超えたコンセプトの出現をもってなされるのだろうと思う。
(090216)

2009年1月16日金曜日

リアリティということ

デザイナーにとって私がもっとも大切だと今思うことを書いておこう。それはリアリティということだ。自分にとってそれが本当らしいかどうかという感覚を指しているが、あくまで「自分にとって」の感覚なのでこれを他人と比べることはナンセンスだ。おまえのリアリティよりも俺のリアリティが優れている、とは言えない。
ただしどちらがより人々にとって意味があるかは、結果として現れてくる。残念ながら、あるいは幸運なことに、その結果はある時点での結果でしかないが。
それからリアリティには、人によって強弱ないしコントラストがある。デザイナーとしてはコントラストは強い方がよいだろう、たぶん。すべての事象に対して、平均的なリアリティを感じるよりも、リアリティの明暗が強い方が、デザインとしてわかりやすいし、強い。
もう一つ計れることは、自分の感覚としてのリアリティを、どれだけ自分の意識が正確に受け止めたか、あるいは自分の生き方として自分のリアリティをまっとうしたかどうか、それは自分に向かって問える、と私は思う。
そんなこんなで、リアリティこそがデザイナーの生命線である、と言えると思うのだが、皆さんはどう考えるだろうか?
(T美大2009年3月の卒業生へ)
(090116)