言い古されていることだが、デザインは問題解決である。
問題解決において、論理的な因果律があるなら、それに従うべきである。しかし多くの問題は論理的なアプローチだけで解決することはむずかしい。なぜなら問題は人間が引き起こしているのだから。人間がいなければ問題もない。また別の意味で、論理的に解決できる種類の問題であるなら、そのこと自体「問題」ともいえない、ともいえる。
考えてみても世界には数十億の人間が住んでいるのだから、問題がなくなることはありえない。多くの問題は定式化していない、というか、定式化した時点で問題解決、すなわち問題がなくなるわけなので、問題として残っていることは定式化していない、ということである。この定式化していない問題をなんとか一つずつ定式化してきた、というのは客観的なもう一つの歴史の読みといえると思う。しかし新たな問題の解決があらたな問題を産む。知とは問題の終結でもあるが、問題のはじまりでもある。それはあたかも逃げ水のようなもので、私たちはいつも逃げ水を追いかけている。
論理的に道筋がわからない問題に何らかの答えを出そうとする行為を、私はデザインととらえている。間違えてはならないのは、デザインが非論理的なのではなく非論理的な問題にアプローチすることをデザインと呼ぶと言うことである。また感性(この言葉も怪しい言葉だが)と、最近しきりにいわれるのは、「理屈じゃなくて...」というそんな思いもあるのだろうと思う。
たとえば囲碁の勝負というのは、一つの純粋な問題である。これを完全情報のゼロサムゲームであり、どこまでも論理的に突き詰めていけると考えるなら、問題は霧消してしまう。もちろん事実はそうではあるのだが、答えがあまりに遠い場合の数の先にあるので、(今のところは)人間にとって答えは論理的にわからない範囲にある、という時点において問題なのである。だから囲碁にもデザインがありうる、と願いも交えて思う。そんなわけで、マルバツゲームにはデザインはない。
工学とはどこまでも論理的、実証的、記述可能性の中にあるものと考えている人がいるようだ。だからある意味でデザインは工学の枠の中には入らないと。またそういうふうに考えるデザイナーもいる。しかし世界にある問題は、たぶん上に書いたように定義からして非論理性をはらんでいる。もし工学が「人間の」問題解決の一翼を担おうとするなら、非論理的、非実証的、記述不可能性に向き合う覚悟をしないといけないのではないかと思う。
(091213)
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