2011年11月17日木曜日
人を生きるということ
Blues !!
黒人を生きるとはどういうことなんだろう。
自分が黒人だったら、どんな気持ちがするだろう、と考えていた。あこがれの気持ちをもって。
でもそれは自分が「日本人を生きるってどういうこと?」と(あこがれをもって?)問われるのと、同じこと。
いいたいことも叫びたいこともあるのだと思うけれど、二つの人を生きることはできないのだから、いや、この一人の人を生きられることを贅沢なことだと思いたい。いや、実際にそういうことだ。
(111117)
That's all right.
まいっている。
でも自分が何かまずいことをやった?
やっているんだろうけどさ、完璧からはほど遠いんだろうけどさ。
自分としてはよかれと思ってやっているし、きっとそれはよいことなんだろうと思うよ。
たぶん、うまく歯車がかみ合っていないだけ。
一生かみ合わないしれないけれど、そうやって自分の歯車を自分は回すしかないんだもの。
That's all right. これでいいのだ、と思おう。
いや、それでいいのだ。
(111117)
2011年11月14日月曜日
どうしようもないこと
何か、スパッと解決するようなことは幻想だ。だいたいにおいて、問題というのは「どうしようもない」ものだ。どこもかしこもが満足するようなピタッと収まる解はない。もしそういうものがあれば、たいていはそのようにすでに解決しているのである。そういう問題はあったとしても、結局あんまり人を悩ませない。
問題のうちの99パーセントは「どうしようもなさ」を抱えているのじゃないか? それを認めた上で、そこから出発して「自分の(自分だけの)解」に向かうべきなのだと思う。「自分」という視点からすべてを始めたいと私は思う。「どうしようもない」という問題のありようを前提にして、「私自身の解」にいたるという道筋しか、私には考えつかない。
(111114)
2011年11月7日月曜日
直感について
人の話や出会った事柄について直感的に「これは正しい」とか「きっとこれは本当のことだ」あるいは「これはおかしい」と感じることがある。
その感じは常に正しいとはかぎらない、というか正しくないことが少なくない。しかしときにそれは強い確信とともにやってくる。
できるかぎり直感を信じたい。というか、信じられる直感を育てたいと思う。そして直感の限界も正しく判断したい。直感でもって。
直感が心の中に鳴ったときに、私の中で起きていることは、その事象が「ああ、あれに適合している」「ああ、これにも合致している」「ああ、あれにも...」と、いくつものスクリーニングを瞬間的に行っている。
自分の中に適合すべきあんなことやこんなことが、自分の中にあらかじめはいっていなければ、直感は働かないものなのだと思う。だから若い人の「直感」はあまり信じられない。ましてや子供の直感というのはありえないとさえ思う。(子供なりに感覚的な理解に基づく行動というのはあると思うけれど、それは私の思う直感とはたぶん違う。)
なぜ直感が大切かというと、論理的な思考は「遅い」から。もちろん、直感は正しさにおいて論理に勝ることはできない。しかし絶対的に確かな正しさよりも、不確かな正しさを瞬時に重ねて到達する高みである、ある種の「境地」というのが意味を持つ場面は、人にとって少なくない、と私は思う。
(111107)
2011年11月3日木曜日
デザインの課題
デザインの授業で学生に課題を決めさせると、何割かはデザインと言うよりアート寄りの視点で課題を提案してくる。デザインとアートの線引きにはいろいろな解釈や立場があっていいと思うが、何年もデザインをしてきた教師陣には違和感のあるデザイン課題の設定である場合が少なくない。おそらくアートの先生からみたらそれはアートとしても違和感があるにちがいない。
なぜそうなるかというと、つまりデザインの課題を学生は自分の頭や経験の中から汲み出すことができない、ということなのだと思う。それまでの20年間、そういうことをいっさい考えてきたわけでもなく、たかだか数年、無理やり知識として説教されたたけでは、先生が納得するようなデザインらしい課題を設定できないのはしかたない。しいてそれらしいものを自分の中に探した結果、「アートのようなもの」に行き着いてしまうのは当然の帰結だろうと思う。また自分も含む教師側も、好きなこと、やりたいことをやりなさい、などと言うものだからさらにそうなる。
デザインを学生に教える者は、スキル以前に、何がデザインの課題なのかを伝える必要があるのだろう。直接にそれを語るという仕方でなく、教師それぞれが自分はこれが課題と考えるという例を表明するという形で。
なんでこんなに偉そうなことが言えるかというと、うんと昔に自分自身がそんな学生であったからなんだが。
(111103)
考え続ける
何にせよ、考え続けるというのは大切なことだ。でも考え続けるためには、感じ続けなければならない。
一つのことをとにかく10年くらい考え続ければ、効率が悪くても、歩みが遅くても、曲折した道筋をとろうと、そしてはじめの目標にたどり着けなくても、そこには語るべき何かがあるだろう。
考え続けるとは、つまり解答にたどりつかないまま、問題を何度も何度もくりかえし「解釈し直す」ことなのだと思う。常に解決の途中にありながら、問いを解釈し続けるためには、問いの芯となる何かを、名状しないままに頭の中に置く、つまり「感じる」という作用が必要になってくるのだと思う。
自分は、けっこう細かなことや、思わずしてしまった発言をいつまでも考え続けてしまうことがある。もっと大きな大切なことを忘れてしまうことも、それ以上にあるのだけれど。
(111103)
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