2011年8月14日日曜日

アナログに知る


「知る」という行為にはもっと「深さ」があると考えるべきなんじゃないか。たとえば味。何度も味わって、はじめて知るその本当のところの味の意味(?)というのはある。
アナログな行為、といえばいいのか。知るという行為の結果は知っているか/知らないかというデジタルな状態ではなく、無限の中間状態が結果としてあるような行為。
知っているかいないか、YesかNoか、それだけだったらつまらない。知っているということに関して、それは事実かそうでないか、私はそれに結論を出したくない。いつまでもそれは何なのかにこだわって考えつづけ、感じつづけていたいんだ。

(110814)

ブログやtwitter/facebookについて


ブログ、間が空いてしまった。その間、自分は何も考えていなかったわけではない。空いてしまったことには、いくつかはっきりした理由がある。
一つは、忙しかったからということ。でもそれは、仕事が相対的に増えたとかいうことよりは、それをこなすパワーが自分に生まれなかったことが大きい。年齢のせいかしら、それとも体重増加のせいかしらね。
それから、3.11以降の話として、いろいろな事象をまとめて判断することが難しくなってしまった自分がいる。科学の問題でもあり、人の問題でもあるという、ことの大きさや複雑さ、そして多くの命にかかわるという重大さが、自分を圧倒している。
それに対して、twitterやfacebookにあふれる情報、というか流言の濁流。それは、まるであの津波の後の人も家も車も生活も流れていく映像とのダブルイメージに映る。そこでの人々の発言は、あまりに性急だ。これはこうだから東電がわるい、これをああすれば放射能が...、あれがああだから首相の資格が...。どのことも、一定の範囲で正しいのだとは思うけれど、どれもこれも答えがあまりに性急ではないか? もちろんことは急いではいる、一刻の猶予もならない。でも急ぐべきは、対処の策であって、犯人探しや罪の深さの査定は、もっと落ち着いてやれないか。
性急すぎる判断は、事態の把握を単純化する。単純化して悪者をやり玉にあげることも、それに快哉の声も上げることも、口汚くののしることも、ある種の快感をともなうものだ。
でも結果として、風評被害や多くの起きなくてもいい不幸は、そういう悪意のない小さい快感の積み重ねから生まれてくるのじゃないのか? つまり自分も加害者の一人になってしまうかもしれないということから逃れられないのじゃないか、そんな風に思っていた。
書いて見るとちょっと大げさにも思えるね。でもだいたいはそんなところだ。
(110814)

表現について


少し前に思ったのだが、ここ数年~10年くらいといっていいか、自分は言葉というものに魅せられている気がする。あるいは、あらためて「表現」全般に恋をしているような状況といえばいいか。言葉にしても、詩にしても、小さな絵にしても、歌にしても、何かを表現するということは、ほんとうに楽しい。それから文字を描くことも。小学生くらいまで、ノートに毎日毎日絵を描いていたときのことを思い出す。自分よりうまい人に嫉妬したり、大好きなマンガ家に私淑したり。
絵画として大作を描いたり、小説を書いたりということではなく、日々の気づきを文章に写しとったり、そこらに転がっているものや空想の事物に形を与えてみたりしたものは、私が世界をどうとらえているかということの証である。つまり私自身がどういう人間で、どういう生き方をしているのかを、私に教えてくれる何かである。
いったいそういったものなしに、私は私の顔をどうやって識ることができるというのだろうか。
(110814)