2011年9月22日木曜日

ことばの意味について


たとえば、デザインとアートは基本的に同じものではない。そのちがいについて論理的で詳細な議論をしたくない。というか、細かい見方は意味を失う。一つ一つのことばに明確な定義をあたえて、そうでない陣営を批判する(ということをさんざんやってはきたが)ということは、もうやめにしたい。いくら自分に正確で正しい定義に見えたとしても、そういう「正しい定義」ができるということが、そもそも怪しいというか、根拠がない。
あたかも「デザイン」という概念がアプリオリに「ある」とどうして考えてしまうのだろうか。人々がする行為の一つの傾向を、誰かが「デザイン」と呼んだということにすぎないのに。
もちろんそれには一般性があって、それだからこそ人々はそれを了解してそのことばが定着したわけなのだが、元々その概念の境界はあいまいなものである。すべてのことばは、そういうものだということを忘れて議論、ときには戦争さえすることの無意味さはどうしたものだ。
「定義」のあいまい性を認めつつ、明快にそれ自体、その「実」を語ることができたらいいのたが。あいまいであるからこそ、その核の部分を言いあてることができる、ということをもっともっと深く考えなければいけないのだろう。
(110922)

使いやすさについて


使うことに関するデザインをしているのだけど、「使いやすさ」を向上するとか、改善する、という意識はほとんどなかったし、これからもたぶんないだろうと思う。使いにくいのは問題だし、使いやすいことを目指してはいる。でも素直にきっぱりと「使いやすさ」を目指してデザインしていますとは、なぜか言えない。
それは使いやすい、という事象を一次元的な数直線上にマッピングできないと感じているからだと思う。何かデザイン上の工夫やアイデアを盛り込んでも、単純に使いやすさが上がったといえない。その実施が新たな使いにくさをはらんでいる可能性はおおいにある。だから慎重に判断しなければならない。それが私にとってリアルな反応だ。
知り合いのデザイナーをみても、使いやすをデザインしていますとキッパリと発言できるタイプの人と、私のようにその事にはモゴモゴとしてしまう人がいる。でも私は私のリアルに従うしかない。私は「私のリアル」の僕なのです。
(110922)

2011年9月4日日曜日

表現革命


デジタルディバイスの本質的なところは、プログラマブルにあると考えていた。そういう意味も半分あって、BlogにはDesign-Programixという造語を当てた。これは1970〜80年代におそらくパパートやケイが目指していたものの自分流の解釈である。
しかし21世紀の今、事態はあまりそのように進んでいないように見える。これはどういうことなのだろう。かれらそして私の読み違いは、「表現」という項目に関する見立てが十分でなかったということがあるのではないかと考えた。(勝手ですが)
プログラム ≒ 理性、論理による理解とコントロールが達成する前に、圧倒的に感性や感覚に直接に訴える「表現」の革新の波がやってきた。プログラマブルが後回しになったのか、スキップされてしまったのかはわからないが、すでに表現革命のまっただ中に入ってしまった。映画やゲームの世界がもっとも顕著であるが、PCからモバイル、組み込み機器などすべてのディスプレイ上の映像表現は圧倒的だ。デジタルカメラのプロセッサーは1ショットで20枚のバリエーション画像を生成する。精細なグラフィックスのゲームを、自分としては両手を挙げて歓迎するわけではないけれど、神経や感性、あるいは心に直接働きかけるほどそれは強力だ。「表現」がある意味、内容を凌駕するような状態をパパートらは、想像できなかっただろうか。
かれらの目指したことは、正しかったし、正しいと私は思う。この表現革命はどこかに落ち着くという意味では、おそらく一過性のものであるだろう。たぶんその前後で小さくない変化が起きるとはいえ通過儀礼のようなものだろう。しかし、今はとにかくそういった時代である。
(110904)