卒業するみんなにたいして、おめでとうやガンバレの言葉を、グッと飲み込んで、ほんとにほんとにほんとに自分のリアルにこだわって、と言おう。たとえ独りになっても。自分と世界を救うには、そうするしかないと思う。
と、私は言った。なぜ「リアル」ということにこだわるのか。それが不変なものに一番「近い」と思うから。自分にとってのリアルさは決して不変では「ない」が、しかし自分のリアルさにそむいた決断も断定も発見もなにもありえない。
ブレないということは、人としてとても重要な要素である。ある人がいつでも同じことを言っている、あるいはいつでも違うことを言っているようにみえても、底に流れている何かが変わらない、と感じることは、その人を信用する(=その人のリアルさが伝わる)基本的な条件である。
私が人を信用できない、というたいていのケースは、その人がブレていて、そのブレに自身が無自覚であるというときだ。繰り返すが、ブレるのはかまわない、変節するのはしかたない。成長だって変わることだ。それだって、リアルがそうするのだ。でも自分が感じていること、すなわち自分自身に対しての不誠実さからは何も生まれない、といいたいのだ。
That's it !!
(110331)
2011年3月31日木曜日
2011年3月28日月曜日
デザイナーに理由を聞かないで
グーグルのビジュアルデザイン責任者が退職した、という記事について。
(http://japan.cnet.com/news/biz/20390324/)
デザイナーとしてこういう経験はたまにある。アバウトにいえばよくある、といっていい。だからこのデザイナーの気持ちは、本当に身につまされる。よく耐えたね、エライ! たぶんグーグルの技術者はとても優秀なんだろうと思う。そして何が正しい選択なのかを彼らなりに追求しているんだろう。
私だって答えを知りたいと思う。青の13番がいいのか54番がいいのか。でもその中間の色を並べて、どれが統計的によいのかを問うのは、なんだか違う。
まず第一に、私たちは「問えていない」ことに気がつかねばならないと思う。多くのデザイン的なデシジョンに関して、私たちデザイナーも含めてだれも、正しく問題を問えていないということを認識すべきだ。
デザイナーである私が青の13番と54番をデザインの候補としてあげるのは、その中間に答えがあるからではない。ある部分の色が代表する何かの意味または「いい感じ」に二通りの候補があるということだ。なんでその二つかは、よくわからない。デザイナーの気持ちとしては、絞りに絞った結果が二つの色なんだから、そのどっちかで決めて欲しい。
まぁしいていえば、これは「経験」であり「勘」なんだというしかない(私はこういう結論は嫌いなんだけど)。もちろん少しは説明することはできる。「この少し赤みを帯びた青は、さわやかさの中にほんの少しだけ「色気」を忍ばすことができるんだ」とかなんとか。それは本当にそうなんだけど、他にも考慮すべき感情や価値観はたくさんあるので、それが正しいかどうか論証を求められてもできない。でも経験や勘という中には、すべてのエッセンスが入っている。と少なくともデザイナーは考えている。
逆に考えて見て欲しい。デザイナーに何を求めているのか、つまりデザインに対する「要求仕様」はいったい何なのかを。それはいったい誰が書くのか?
私は長らくデザインをしてきて、そのようにデザインに対して明確に仕様が提示されたことを一度も経験していない。この問題はなかなかむずかしい。「どこへ行け」と言わずに航海に出して、どこかいいところへたどり着いてください、というのだから。そのように目標が曖昧なんだから、答えが正しいかどうかなんて簡単に言うことはできない。
ではデザイナーは何をしているかというと、その穴だらけの要求仕様(や顔色)の紙背を読んで、自分なりの問いを仮説する。といってもそれを言語化するかどうかはデザイナーによるが。デザイナーがいちばんうんうんとうなるのは、問いを自分の中に定着させることに対してだ。自分として問いが定まらなければ、どんなデザイン案も作り出せない。問いが見えれば「よっしゃ、つかんだ」となる。
そしてここがおもしろいところだけど、デザイナーは問いを定着させるために、答え(絵)を描いてみる。答えを描いてみないと、問いが適切かどうかわからない、というこの逆転現象。これをアイデア出しというのである。アイデアを考えるというのは、答えを探すというより、むしろ問いを探しているような気がする。前にも何度か書いたけれど「デザインは問いと答えを一緒に差し出す」とはそういうことだ。
そして答えを見てその問いが適切かどうかを判断する基準を、私は「リアル」と呼んでいる。私のリアルが「たぶん、こっちだろうね。あってるよ、たぶん。」と私にささやく。
もちろんこの問いが、外れることもある。また駆け出しのデザイナーは、問いは外れていないがスキルが足りなくて問いに対応する答え(デザイン案)を作り出せない、ということもある。ディレクターという人は前半部分の問いを固定する役目の人のことである。
だから、もしデザインの何かを検証しなければならないとしたなら、「問いの正しさ」をこそ測らなければならない。でも、私にはそれがどうすれば可能になるのかわからない。どうしても測りたいというのなら、これらのことを理解して、なんとか測ってみてほしい。デザイナーにその理由を聞かないで。
(どうやら理解には、その理由を説明できるような形でのものと、そうでない理解というのがありそうな気がしてきた。それはまた今度。)
(110328)
2011年3月14日月曜日
2011年3月1日火曜日
世界を「反」分節化する
世界を分節化することは、科学の強力なそして科学が持つ根元的なパワフルな方法論である。しかし分節化によって落ちてしまう境界にある、モワモワした部分(ナタデココのモヤモヤしたところ)には何かが潜んでいる。このあいまいな境界線の中にすべてがある、というわけではないが、そこにしか棲めない種類の「生き物」がたしかに存在する。
分節化された世界をもう一度「反」分節化したリアルな姿にもどすために必要な培養液、それがおそらく「芸術」なのだろう。
行きすぎた分節化に警鐘を鳴らす態度には何度も出会い、何度もそういう声を聴いたり読んだりもしたが、今、その「リアル」は、わたしの頭と心の真中にいる。
たとえば、デザインとアートは基本的に同じものではない。デザインとテクノロジーも。そのちがいについて論理的で詳細な議論を私はしたいと思わない。というか細かすぎる見方は意味を失うだろう。デザインにせよアートにせよそのほかのことばにせよ、それぞれがその幸せな価値のある一面を思い出せるような、あるいは未来を夢見るように活動をしていきたいと私は思っている。
一つ一つのことばに明確な定義をあたえて、そうでない陣営を批判する(ということを自分もさんざんにやってはきたのだが)そういうことは、もうやめにしようと思う。いくら自分には正確で正しい自明な定義に見えたとしても、そういう「正しく定義ができる」ということが、そもそも怪しいというか、根拠がないと思うから。
あたかも「デザイン」という概念がアプリオリに「ある」とどうして考えてしまうのだろうか。本当のところは、人々がする行為の一つの傾向を、あるとき誰かが「デザイン」と呼んだということにすぎない。もちろんそれには一般性があったからこそ、人々はそれを了解してそのことばが定着したわけなのだが、元々その概念の境界はあいまいなものであった。一度として明確に線なんか引かれたことはない。すべてのことばは、そういうものだということを忘れて議論(ときには戦争さえ)することの無意味さはどうだ。「ことば」は遅れてやってきた偉大な実務家でしかない。
「定義」のあいまい性を認めつつ、"こと"や"もの"、それ自体、そのことの「実=リアル」を、明快に心に感じ取ることができたらいいのだけれど。あいまいであるからこそ、その核心の部分を言いあてることができる、ということをもっともっと深く考えなければいけないのだろう。
(110301)
あいまいでありながら、核心をいいあてる、ということの念頭にあるのは、たとえば「詩」だ。もちろん芸術的な表現というのは、すべからくそのような機能を背負っているのだが。
(110324)
分節化された世界をもう一度「反」分節化したリアルな姿にもどすために必要な培養液、それがおそらく「芸術」なのだろう。
行きすぎた分節化に警鐘を鳴らす態度には何度も出会い、何度もそういう声を聴いたり読んだりもしたが、今、その「リアル」は、わたしの頭と心の真中にいる。
たとえば、デザインとアートは基本的に同じものではない。デザインとテクノロジーも。そのちがいについて論理的で詳細な議論を私はしたいと思わない。というか細かすぎる見方は意味を失うだろう。デザインにせよアートにせよそのほかのことばにせよ、それぞれがその幸せな価値のある一面を思い出せるような、あるいは未来を夢見るように活動をしていきたいと私は思っている。
一つ一つのことばに明確な定義をあたえて、そうでない陣営を批判する(ということを自分もさんざんにやってはきたのだが)そういうことは、もうやめにしようと思う。いくら自分には正確で正しい自明な定義に見えたとしても、そういう「正しく定義ができる」ということが、そもそも怪しいというか、根拠がないと思うから。
あたかも「デザイン」という概念がアプリオリに「ある」とどうして考えてしまうのだろうか。本当のところは、人々がする行為の一つの傾向を、あるとき誰かが「デザイン」と呼んだということにすぎない。もちろんそれには一般性があったからこそ、人々はそれを了解してそのことばが定着したわけなのだが、元々その概念の境界はあいまいなものであった。一度として明確に線なんか引かれたことはない。すべてのことばは、そういうものだということを忘れて議論(ときには戦争さえ)することの無意味さはどうだ。「ことば」は遅れてやってきた偉大な実務家でしかない。
「定義」のあいまい性を認めつつ、"こと"や"もの"、それ自体、そのことの「実=リアル」を、明快に心に感じ取ることができたらいいのだけれど。あいまいであるからこそ、その核心の部分を言いあてることができる、ということをもっともっと深く考えなければいけないのだろう。
(110301)
あいまいでありながら、核心をいいあてる、ということの念頭にあるのは、たとえば「詩」だ。もちろん芸術的な表現というのは、すべからくそのような機能を背負っているのだが。
(110324)
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