アイコンの評価基準は、次のとおり。
(1)弁別性
その他のアイコンといかに弁別できるかということ
したがって、アイコンで表現するものの数も実際には問題
(2)学習性、印象性、象徴性
一度覚えたら、忘れない
教えられたり、学習してもよい/つまり(3)のよりも重要である。
(3)意味性
それが何であるか、説明をされなくてもわかる
自己説明性が高い
できあがったアイコンを見せたとき、説明不要でその意味がわかることは大変すばらしい。→(3)
しかし、実際にはそれよりも(2)の方がポイントが高い。つまりパッと見せてそれがなんであるかわからないアイコンであっても、一回説明されれば強く印象に残り、忘れにくいのであれば(2)、そのことの方が重要である。
通常はとかく、アイコンは(3)で評価されがちである。説明なしでわからないと、こんなアイコンじゃ意味がわからないよ、といわれてしまう。他の人にも見せて「ほらやっぱりわからないよな」といって完全に否定されてしまう。しかし文字による表象ではないので、そのことはたいした問題ではない。
もっとも重要な点は、瞬間的にきっちりと他のアイコンと区別がつくことである。→(1) ようく見ないと、違いがわからないのでは、アイコンを使う意味がない。ようく見て正確にアイコンの意味内容がわかることを目指すべきではない。それが重要ならアイコンではなく、文字でしっかり記述すべきである。
とはいえ、駅の券売機などのように学習も説明もされないようなシステムでは、もちろん(3)の重要性は高まるが。
以上を満たすアイコンとして、最高傑作をあげれば個人的にはLasso(投げ縄)をあげたい。
これを最初に見て機能を言い立てた人は、いないと思う。しかしこの機能をして、これ以上のアイコンを描くことは困難であると思う。私はこの機能を一生忘れないと思う。
アイコンをデザインするのは最高レベルに難しい。釣りはフナに始まりフナに終わる、などといわれるが、インターフェースのデザインは、アイコンにはじまりアイコンに終わると言える。
(061003)
2006年10月3日火曜日
デザインの定義
デザインは問題の解決を目指すものである。
問題解決にあたって、しっかりと手法化されていたり、有効性が確認されたツールがあるならば、それを用いるのはもちろんよいことである。
しかし、既存の方法では解決できない局面や状況というものがある。あるいは現状の解決方法より少しでも適切な解が望まれるときは、どうすればいいのだろうか。
多くの場合、その問題用ではない手法で援用できそうな方式をためしたり、経験の中から使えそうな似た知識や解決パターンを探す。また実験をして可能性のある解を作り出すしかない。
デザインとは、そのような非定型の問題解決にむけた奮闘(struggle)や実験的なチャレンジであると考えられないだろうか。そういった解決方法の定まっていない問題の解決に対するユニバーサルな方法論こそが、デザインの本質なのではないかと思う。少なくとも、そういう要素がもともとデザインに根源的に織り込まれているように思えてならない。
デザインという仕事は、問題に対する解を得ることであるが、たった一つの視点による問いに答えるだけではすまない。多様な、時には相矛盾するような評価軸をもった問題に最適な解を提示することが求められる。
したがって、視点つまり問いとともに答えを提示することになる。「デザイナーである私は、このように問題を捉えたので、答え(A案)はこれです」と。プランBもプランCもある。
ある問題において、解決の手法やプロセスを作り出すことはデザインの仕事といえると思う。しかし、それらの手法やプロセスを用いて問題を解決する行為自体はもはやデザインとはいえない。ここでの答えとは、問いの提示における回答例であるに過ぎないともいえる。つまり答えはおまけ、添え物という位置づけになる。
デザインとはまた、人工物(誰かによって造られたもの)に属するある種の性質=属性と見ることもできるのではないか。つまり「デザイン性」という多寡の測れる性質があって、デザインという行為はその性質を高めるために行うものである、というとらえ方。
もちろん実際には、原初的にデザインというやむにやまれぬ行為があって、その結果「デザイン性」という概念が生まれたのであろうが。
問題解決にあたって、しっかりと手法化されていたり、有効性が確認されたツールがあるならば、それを用いるのはもちろんよいことである。
しかし、既存の方法では解決できない局面や状況というものがある。あるいは現状の解決方法より少しでも適切な解が望まれるときは、どうすればいいのだろうか。
多くの場合、その問題用ではない手法で援用できそうな方式をためしたり、経験の中から使えそうな似た知識や解決パターンを探す。また実験をして可能性のある解を作り出すしかない。
デザインとは、そのような非定型の問題解決にむけた奮闘(struggle)や実験的なチャレンジであると考えられないだろうか。そういった解決方法の定まっていない問題の解決に対するユニバーサルな方法論こそが、デザインの本質なのではないかと思う。少なくとも、そういう要素がもともとデザインに根源的に織り込まれているように思えてならない。
デザインという仕事は、問題に対する解を得ることであるが、たった一つの視点による問いに答えるだけではすまない。多様な、時には相矛盾するような評価軸をもった問題に最適な解を提示することが求められる。
したがって、視点つまり問いとともに答えを提示することになる。「デザイナーである私は、このように問題を捉えたので、答え(A案)はこれです」と。プランBもプランCもある。
ある問題において、解決の手法やプロセスを作り出すことはデザインの仕事といえると思う。しかし、それらの手法やプロセスを用いて問題を解決する行為自体はもはやデザインとはいえない。ここでの答えとは、問いの提示における回答例であるに過ぎないともいえる。つまり答えはおまけ、添え物という位置づけになる。
デザインとはまた、人工物(誰かによって造られたもの)に属するある種の性質=属性と見ることもできるのではないか。つまり「デザイン性」という多寡の測れる性質があって、デザインという行為はその性質を高めるために行うものである、というとらえ方。
もちろん実際には、原初的にデザインというやむにやまれぬ行為があって、その結果「デザイン性」という概念が生まれたのであろうが。
(061003)
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