2012年3月21日水曜日

表現メディアに恋する


芸術家やデザイナーなどの表現者は、おそらくもれなくメディアに恋をしている。ここでいっているメディアとは、音楽、絵画、小説、詩、文章、写真などの表現の方法というか形式のことである。
もちろん、先行く人の作品自体に魅せられるということは当然あるのだが、作品それ自体にあまりに魅せられるすぎると、自分では作品が作れなくなってしまう。とにかくそれが絶対的によいのだから、それ以上を自分ではどうすることもできない。また、それらの鑑賞者にとっては、作品がよくて好きなだけで十分である。
しかし、「表現者」という側に立つということの中には、それとは別に、たとえば音楽さらにはジャズ、ボサノバ、もっと詳細なカテゴリというか形式、あるいは楽器という手法に、興味をもつことが含まれるのではないか。あるいは絵画から、さらには水彩絵の具、筆の感触など。あるいはカメラやフィルムなど、そういった表現の方法や形式自体に、どうしようもなく惹かれてしまう、まさに恋をしているとしかいいようのない状態が、表現には必要な気がする。
表現したいものがある、だけではおそらく足りない。
(120320)

2012年3月20日火曜日

デザイン論文


デザインについて書かなければいけない論文が一本ある。しかしわたし自身できれば「論述」からは、一歩距離をおきたいと思うのだ。科学や学問は論述あるいは論証をその中心に置いている。つまりそれが「正しい」ということを、きちんと証明し説明しなければならない。ある条件Aが成り立つとき、必ずBが成立する、ということが言えること。それを命題というのだが、デザインはそもそも「命題」を扱っていないのである。そこがそもそも全然違う。
デザインそしておそらく芸術も、ある条件(作品)が、ある結果(人が何かを感じること)を、産むのではないかと、問うている「だけ」だ。結果がでない、つまりそう感じない人がいても別に構わない。100%の人が、確実に同じように感じる何らかの表現を目指してなんかいない。おそらく100%の人が同じように感じる何かを作ってもつまらないだろう。それを月並みという。むしろ少数の人が、非常に鋭く、強く、深く、感じてくれるかもしれない、ということに賭けている。
これらは、論述にはいかにもそぐわない。だからむしろわたしは、詩のように語りたい。
実はその論文で語りたいということは、このようなことなのだ。この言明ははたして「論述」なのだろうか。論文になるのでしょうか。
(120320)