現状をよく把握して、適切なデザインコンセプトを立てて、コンセプトに沿ってアイデアを出す。大昔からデザインはそのように進めるように言われたり書かれたりしている。私はデザイナーに成り立ての頃に、「デザインコンセプト」と聞いて、わぁカッコイイと思った。やっぱりプロの仕事は違うなぁ、デザイナーになってよかった、そうかやっぱりコンセプトだよな、とか思って周りの仲間と話した。
しかし今、私は上記のステップは間違いではなかったかと思う。
特にここ20年ほど、主にはインタラクションデザインの中でアイデアを出す仕事を本当にたくさんしてきた。でも振り返ってみて、そのような形で進むケースはなかったことに数年前に気づいた。
実際の仕事の上でも学生のデザイン課題でも、デザインコンセプトとデザイン条件が混同されている場合が多い。たとえば「電子式炊飯器」というのは、明らかにデザインコンセプトではない。あるいは単身赴任者向けの電子式炊飯器ぐらいは言うだろう。そしてそれは発見された新しいニッチな大きなマーケットかもしれない。でもそれもデザインコンセプトじゃなくてデザインの条件だ。その条件の中でどういう風にデザインするかがデザインコンセプトだ。これははじめに決めようがないのじゃないだろうか。
時にデザインコンセプトが先行しているように見えるときもある。しかしたぶんそのときも、強力なアイデア、少なくともアイデアのイメージがはっきりあるからこそ、コンセプトを語れる。それなくしてコンセプトだけは語れない。語ったところで、絵に描いた餅のような気持ちがするだろう。
じゃあどうするのか。
現状をよく把握して(ここまではよい)、そしてその中でとにかくアイデアを全方位で出す(ここにもいろいろなことがあるのだが)、その後にアイデアを眺めてどういうコンセプトかを決めるのだ。
コンセプトはアイデアを出す条件ではなく、アイデアを出した結果にデシジョンを加えた「成果」がコンセプトだったのである、と私は気づいた。原因と結果の取り違え、というのがここでも起きている。もちろん人に説明するときには、こういうコンセプトがあってそのデザインがこれです、といってもいい。しかしそれはあくまで説明用の手順だと思う。
デザインが何らかの価値や意味を持つとしたなら、それはデザインが一つの「表現」であって、今までにない表現対象を選択(何をデザインしたのか=What)して、それを今までにない新しいやり方(How)で表現しきった、ということだと思う。デザインコンセプトとは、どうしてそのWhatを選んで、そのHowの仕方で表現したのか、その理由を短い言葉(か、それに代わるもの)で表したものだと思う。デザインを説明するために。そしてアイデアとは、そういう価値のある表現のさまざな気づきの一片一片なのだ。アイデアの一片一片を拾いながら全体像を発見していくのが、デザインの進み方であり、また醍醐味なのだと思う。
「体」は、もしかするとこれらのことをあらかじめ知っていたのではないかと思う時がある。そしてそれを「手」にそれとなく描かせる。それを「頭」の手先である「目」が見て、てーへんだてーへんだと脳に報告して、脳がこれはグレートアイデアかもしれないと感じ、そして脳が本当のグレートアイデアに仕立て上げる。その理(ことわり)をなんとか説明的に表現したものが「コンセプト」という感じ。
最近気づかせてもらったことの一つに、人はどうやら、始めにどういうものを作りたいのか、決めることができないということがある。作り始めて、作ってみて自分が作りたかったものを知る。逆に言うと、自分が何を作りたいのかを知るために作ってみるということ。
(110517)
2011年5月17日火曜日
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