デザイナーの能力を一言で言えば、あるモノなりコトなりに対して、それはありそうか、という観念を一瞬にして持てるかどうかということであると私は思う。
「それはありそうか」という問いは、そのモノやコトが存在としての正当性を持っているかどうか、ということである。それをいわば感覚的、さらにいえば嗅覚的にかぎ分けられるかということである。まさにアブダクションによるものといってよいと思う。
では何故、感覚的にそれを行わなければならないのか。正確にいうと感覚的に行わなければ「ならない」のではない。この判断にはスピードが要求されるので、感覚で処理しないと追いつかないということであると思う。
(一つの大きな命題に対して正当性を問うというのなら、時間をかけて論理的な実証を行えばいい。しかしここで問題にしていることは、もっと...)
また正当性を問うというときには、その正当さを判断するある基準が存在しなければなければならない。日本の国の法の下に正当であるのか、ある倫理性の下に正当であるのか、あるいは次に作るべき製品として正当であるのか。もっと現実的な例をいえば、この製品が若者に使われるとして、現在の若者嗜好傾向や、たった今流行している他の事象との関係や、...といったことから、この製品形状の案はヒット商品として正当でない、つまりあり得ない(または正当である=あり得る)、というような具合にある条件や基準下に判断は下されるのである。またこれらの判断を、これを一瞬に行うことを、たくさん積み重ねてデザイナーは仕事をしている。ここで重要なことは、判断基準そのものと正当性を「同時に」捕まえて断を下している点である。つまり問いと答えを対にした観念を持つということである。問いは与えられているのではない。つまり問いが自分の外からくるのではなく自分の中にある。通常は、問いを与えられて、その問いにどう答えるか、という形式をとる。「問い」それ自体の正当性は問われない。問いの正当性は何を基準に判断を下せばよいのか、ということを考えると、話はメタな方向に再帰してしまう。
デザインは、一つ一つの事象の正当性を論理的に検証して積み重ねる、いわゆる工学的なやり方とは大きく違う。
こういった瞬間的に正当性を判断する感覚をその人の持つ「リアリティ」に関する感覚と私は呼んでいる。
実際にこういった感覚はデザイナーに特に必要なもの、というだけではなく、広く一般に起きていることを、ほんの少しだけプロフェッショナルな視点で述べただけである。
感覚は論理性には負ける。
デザイナーは、論理性は重視しないで感覚的に判断する、という批判や賞賛がある。私は、論理的に検証されたことは、感覚による判断よりも絶対的に正しいと思う。ただ日常の会話(製品開発などの局面などでの)ソフト開発者やSEが下す多くの「論理的な判断」は、全然論理的でないことが多い。あるいは、問いを自分の外において(問いを既定の事実と「仮定」して)の判断であったり。そもそも問い(土台)が怪しいのに、その上にいくら緻密な理論を築いても何も立ちはしない。
(050718)