2005年10月27日木曜日

エモーショナル・デザイン

D・ノーマン「エモーショナル・デザイン」今さらだけど、DNも、少しは大人になったかな。でも相変わらず嫌みだな。
クリエイティブということに対する、respect が足りない。何となく見下している感じがする。言葉とはうらはらに、そのニオイは消えない。
ということは、そのような人なのだ。
DNは、デザインに限らず、何にせよ、リスペクトする気持ちが、希薄なことがイライラさせる。(翻訳のせいなのかな)

それはともかく、その中にあった例。
「情動(≒感情)が欠落していると、何かを(特に簡単なことを)決めることができない」今日の夕食とか、同等な距離の道のどちらを使って目的地にたどりつくか、など。

自分には、情動を押さえよう、という力が働いているのではないかと思う。
論理や、知性、つまり「頭を使って考えねばならない」という観念が強い。
それで最近、簡単な結論はもちろん、いろいろなことに決断ができなくなっている。
大きな枠組に変化はないのだけれど、バランスが変わってきたため、変調が発生している。

(051027)

2005年10月1日土曜日

わからない、ということ

多くの「わからないこと」の中で、重要なポイントは、それが「何であるのか」とうことの不明さよりも、「何でないのか」ということの不明さがもたらすのではないか、と思う。
何であるのかは、知っている人に聞けばたいていは答えてくれる。しかし何でないのかは、話題に上りにくい。それはたぶん、一見的はずれの答えのように見えるからだろう。

(091015)

2005年7月18日月曜日

感覚で判断するということ

デザイナーの能力を一言で言えば、あるモノなりコトなりに対して、それはありそうか、という観念を一瞬にして持てるかどうかということであると私は思う。
「それはありそうか」という問いは、そのモノやコトが存在としての正当性を持っているかどうか、ということである。それをいわば感覚的、さらにいえば嗅覚的にかぎ分けられるかということである。まさにアブダクションによるものといってよいと思う。
では何故、感覚的にそれを行わなければならないのか。正確にいうと感覚的に行わなければ「ならない」のではない。この判断にはスピードが要求されるので、感覚で処理しないと追いつかないということであると思う。
(一つの大きな命題に対して正当性を問うというのなら、時間をかけて論理的な実証を行えばいい。しかしここで問題にしていることは、もっと...)
また正当性を問うというときには、その正当さを判断するある基準が存在しなければなければならない。日本の国の法の下に正当であるのか、ある倫理性の下に正当であるのか、あるいは次に作るべき製品として正当であるのか。もっと現実的な例をいえば、この製品が若者に使われるとして、現在の若者嗜好傾向や、たった今流行している他の事象との関係や、...といったことから、この製品形状の案はヒット商品として正当でない、つまりあり得ない(または正当である=あり得る)、というような具合にある条件や基準下に判断は下されるのである。またこれらの判断を、これを一瞬に行うことを、たくさん積み重ねてデザイナーは仕事をしている。ここで重要なことは、判断基準そのものと正当性を「同時に」捕まえて断を下している点である。つまり問いと答えを対にした観念を持つということである。問いは与えられているのではない。つまり問いが自分の外からくるのではなく自分の中にある。通常は、問いを与えられて、その問いにどう答えるか、という形式をとる。「問い」それ自体の正当性は問われない。問いの正当性は何を基準に判断を下せばよいのか、ということを考えると、話はメタな方向に再帰してしまう。

デザインは、一つ一つの事象の正当性を論理的に検証して積み重ねる、いわゆる工学的なやり方とは大きく違う。
こういった瞬間的に正当性を判断する感覚をその人の持つ「リアリティ」に関する感覚と私は呼んでいる。
実際にこういった感覚はデザイナーに特に必要なもの、というだけではなく、広く一般に起きていることを、ほんの少しだけプロフェッショナルな視点で述べただけである。

感覚は論理性には負ける。
デザイナーは、論理性は重視しないで感覚的に判断する、という批判や賞賛がある。私は、論理的に検証されたことは、感覚による判断よりも絶対的に正しいと思う。ただ日常の会話(製品開発などの局面などでの)ソフト開発者やSEが下す多くの「論理的な判断」は、全然論理的でないことが多い。あるいは、問いを自分の外において(問いを既定の事実と「仮定」して)の判断であったり。そもそも問い(土台)が怪しいのに、その上にいくら緻密な理論を築いても何も立ちはしない。

(050718)

2005年1月22日土曜日

不動の視点

何事につけても視点というか見解を持っているということは重要なこと。それを我々は売ってもいる。
視点。大切なことは動かないということ。その視点が真実かどうか、ということよりも、その視点が不動のものであるということの方が上位のことなのだ。
不動のものを求めたその一つの結果を”真実”と呼んでいる。


いつであっても、どこであっても。
過去から未来永劫、地球のこちら側から向こう側であっても、さらに他の宇宙であっても、変わらない"もの"、あるいは"こと"というのは、何であるのか?


数学ー科学ー社会学ー... スパンや区切りはちがっても、求めているのは不動の点。


人々が求めているものも、やはり不動な何かなのだ。
(050122)