2008年3月29日土曜日

ボタンとしてのコンピュータ

ボタンを押すと「計算」をして正しい「答え」を出してくれる、という古典的なコンピュータモデルがある。ここにおいてインターフェースという概念は不要である。しかし多くの人達がこのモデルでコンピュータを観ている。(まさしく「オラクル」=託宣などという名前の巨大なソフトウェアメーカーまである。)
しかし現代においては「インタラクション」こそが、コンピュータにおける問題解決の本質である。もちろインタラクションマシンも本質的には、計算→答えを超高速で膨大な数の処理をしているに過ぎないのだが、圧倒的なスピードがインタラクションという幻想を引き起こしている。


インタラクションの次に来る2020年型のコンピュータモデルとは、いったいどのようなものなのだろうか。


(080329)

2008年3月28日金曜日

具象化と抽象化

小学校の低学年かあるいは幼稚園の頃、色というものについていくつかの自覚的な発見をした。
ピンク色は赤をうすくした色である。同様に、水色は青をうすくした色である、ということに気づいた。それまでは、クレヨンの色はただのバラバラな一つずつの色の寄せ集めでしかなかった。つぎに同系色(グラデーション)の発見、色環の予測(似た色を並べると輪に並ぶ)。こういった発見の瞬間を今でもはっきりと覚えている。


物事の理解は人の頭の中で、具象→抽象の流れをたどるわけではない。何かに気づくこと自体は、抽象的な発想といえるのではないか。(具象物や経験から触発されて発想するということは、それとは別に当然あるのだが) あるいは理解とは対象について一定の構造を見いだすこと、といってよいと思う。
たぶん「発想」という行為は、具象化の流れを持つものではない。発想自体は抽象化のレベルで起きることだ。具象はたまたまその抽象と一緒にやってくる同伴者だ。
しかしコミュニケーションのためには、いったん具象の門を通った方が伝わりやすい。つまり何かを伝えようとするときに起きていることは、自分の頭の中では抽象→具象の変換をして伝達し、相手の頭の中で具象→抽象の流れをとる。


つまり人は、具象を吸って抽象をはき出す植物のようなもの、あるいは抽象化マシン。違う言葉で言えば、理解マシン、解釈マシンということになるだろうか。


(080328)(080403)

2008年3月26日水曜日

理解のカタチ

二人の人間がいたとすると、二人は違った「理解のカタチ」をもっている。AとBが討論をするとき、互いに自分の発想したアイデアを、自分の理解しているカタチ(形式、枠組み)で表現する。結果的にほとんど同じ内容であっても、AとBの理解のカタチがあまりに違うと合意にいたれない場合がある。また合意にいたっても、それを表現するベストなカタチは自分のものであるように互いに思うものだ。
また理解のカタチが違えば、話し合っても頭や心に内容がとどかないこともある。


理解のカタチを乗り越える一つの方法は、視覚化、現象化、インスタンス化すること。万全な方法ではないけれど。


(080326)

2008年2月19日火曜日

変なもの

今までになかったようなブレークスルーをはたしたシステムやソフトウェアは、どれもこれも少し変なところがあると思う。たとえば、スプレッドシート、アウトラインプロセッサにしても、ハイパーカードにしても、Webシステムにしても。あるいはMacintosh(やLISA)、Star、Alto、Smalltalk、Sketch Pad、Augumented System、それにマウス。みんななんか変だよなぁ。
変なものがすべて革新的なものではないけれど、あたりまえに進化したもの、あまりに自然なものは革新的ではありえない。革新的なものは何か違和感を持っているものだ。


今、違和感のあるすべてのシステムに関する評価を、留保することにしよう。


(ハイパーカードがWebを産んだ、というのは風説? 事実?)


(080219)

2008年1月28日月曜日

自分を知るというのは

自分を知るというのは、頭が遅ればせながら体に追いつくということ。

デザインにおける知とは、頭が遅ればせながら体に追いついてそれを追認するということなのである。
多くのことを体はすでに知っている。というか、むしろ頭で知ろうとするすべてのことは、体のことなのだ。

「納得」できるのは、すでに体がそれを知っているから。(体が知らないことを、頭は「納得」できない。)

脳が見る前に、眼が見なければならない。あるいは耳が「見」なければならない。

「補色」:
たとえば、ある色を見せられてその補色(反対の色)は何か、と問われても、色彩について学んでいなければふつう即答はできない。しかしその色の色面をしばらく凝視したあと、パッとそれを隠せば自然にその補色が目に浮きでてくる。つまり体は「補色」を知っているということだ。
(080128)

2008年1月17日木曜日

デザインは方法を超える

デザインという行為について最近しばしば以下のようなことを考える。
デザインのための方法というものが仮にあったとして、それにのっとって何かを生み出す行為を、はたして私はデザインと呼ぶだろうか?
それはこういうことだ。与えられた条件から、論理的、あるいは科学的に(つまり誰がそれを行っても必ず到達できる再現性のある方法で)デザイン解が得られるような公式があったとしたら、もはや人間はスタートボタンを押すだけの存在でしかない。そのスタートボタンを押す行為を、私はデザインとは呼ばないだろう、ということである。
私は答えの定まっていない問いに、なんとか最良の解を探し出そうとあがく行為をデザインと呼んでいるのだと思う。
もちろん、常によりよい答えにいたる道を見つけ出そうという態度は、デザインとしての正しい姿勢だ。
いつでも、優れたデザインは既存の方法論を超えたところにあるものだ。


デザインは実際にそれを生み出す現場にしかない。理論があってデザインがあるのでは、決してない。よいデザインはとにかく、そこに、はじめに、ある。
そこに理論があるかどうかは関係のないことだ。デザインはダイナミックな(弁証法的な?)行為である。よいデザインは変容する。いつも同じではない。それをはかる尺度というものは進展していく。


(080117)

2007年11月22日木曜日

ルールとゲーム

ルールはゲームに先立つものだ。
しかし実際にゲームをやってみなければルールは決められない。
(071122)