ラベル コンピュータ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル コンピュータ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2011年9月4日日曜日

表現革命


デジタルディバイスの本質的なところは、プログラマブルにあると考えていた。そういう意味も半分あって、BlogにはDesign-Programixという造語を当てた。これは1970〜80年代におそらくパパートやケイが目指していたものの自分流の解釈である。
しかし21世紀の今、事態はあまりそのように進んでいないように見える。これはどういうことなのだろう。かれらそして私の読み違いは、「表現」という項目に関する見立てが十分でなかったということがあるのではないかと考えた。(勝手ですが)
プログラム ≒ 理性、論理による理解とコントロールが達成する前に、圧倒的に感性や感覚に直接に訴える「表現」の革新の波がやってきた。プログラマブルが後回しになったのか、スキップされてしまったのかはわからないが、すでに表現革命のまっただ中に入ってしまった。映画やゲームの世界がもっとも顕著であるが、PCからモバイル、組み込み機器などすべてのディスプレイ上の映像表現は圧倒的だ。デジタルカメラのプロセッサーは1ショットで20枚のバリエーション画像を生成する。精細なグラフィックスのゲームを、自分としては両手を挙げて歓迎するわけではないけれど、神経や感性、あるいは心に直接働きかけるほどそれは強力だ。「表現」がある意味、内容を凌駕するような状態をパパートらは、想像できなかっただろうか。
かれらの目指したことは、正しかったし、正しいと私は思う。この表現革命はどこかに落ち着くという意味では、おそらく一過性のものであるだろう。たぶんその前後で小さくない変化が起きるとはいえ通過儀礼のようなものだろう。しかし、今はとにかくそういった時代である。
(110904)

2010年4月9日金曜日

以前と以後

iPhone OS 4.0 発表。あらためてスティーブン・ジョブズ凄いと思う。よく考えて見て、Apple I から一度も、そして一分もぶれていないことがわかる。iPhone そしてもちろん iPad も彼が提案しているのは、一貫してパーソナル・コンピューティングのあるべき姿なのだと思う。iPhone は、けっして賢い電話ではなく、まさしくコンピュータの一つのカタチなのだ。さらにここまできて、彼のこれまでの一つ一つの行動にほとんど無駄なものが含まれていないことにも驚く。NeXT も iPod も、すべて今現在の生きた製品につながっている。(ちなみに Newton は、スカリーの製品だし、いろいろなダメな Mac は、アメリオやスピンドラーの作だ。)
コンピュータが、ディスプレイとキーボードがついたものと、いったいいつ誰が決めたのか。スレート型のコンピュータは iPad がオリジナルではないが、かといって次なるトレンドを追ってあの形のものを出したわけではない。そもそもトレンドがどうとかマーケットがどうとか、そういう発想のプロダクトではないように思える。マーケッターやアナリストの中には、そういうレベルでしか見えていない人もいて、失敗だとか、うまくいくとか、予想している。もちろん結局は NeXT のように、失敗する可能性がゼロとは思わないが、だとしても長いコンピュータの開発史の中で、iPhone、iPad が、切り開いた新しいコンピューティングのカタチは、生きていくのだと思う。Macintosh に以前と以後があったように、iPhone、iPad にも以前と以後があるだろうと思う。こういうことを指してエポックメーキングというのだ。
(100409)

2010年2月2日火曜日

iPadのメッセージ

スティーブ・ジョブスによる "iPad" というメッセージは、コンピュータなんて本当に必要なのか? という問いかけのような気がする。
私たちにとって、コンピュータ(PC)は、たしかに便利でなくてはならないものに感じられるが、本当に私たちが必要としているのはこのPCなのだろうか。
PCは、それ自体が自己目的化している。特にIT関連の業界にいて、日々それに接してそれを作り出す側にいると、根本的な疑問を忘れてしまいそうになる。新しいよりよいPCが必要なのは、それはおそらく今使っているこのPCよりも速く強力だからだ。しかし、そもそもそれが不要だとしたら何のための強力化なのだろう。
本当に必要なものを見極めようとする眼を常に磨いておかなくてはならない。
(100202)

2004年3月2日火曜日

メディアはコンピュータ

要するに重要なことは、コンピュータはメディアである、ということ。極端にいうと、メディアはコンピュータである。

マルチメディアとかハイパーメディアとか、×××メディアと、新しさを強調する形容詞を何かとメディア(広告)は、つけたがるわけだが、マルチもハイパーも、はじめにA.Kayらが述べた時に入っていたわけだ。
たぶん、そう遠くない将来メディア(形容詞なし)は、ふつうにあるコンピュータのことをさして使うようになっているだろう。
それが本質的なものであるなら、一般名称になっていく。

テレビのことを、VISUAL RADIOといったとか、いわなかったとか。
テレビはテレビである。

(040302)

1991年1月1日火曜日

メディアについて

これからのコンピュータを考えるとき、コンピュータは道具というよりもむしろメディアとして捉えられるべきものではないだろうか。

道具とメディアの違いについて少し考えてみたい。例えば、紙とペンで何かを書き、伝えるときペンはものを書く「道具」といって差しつかえないだろう。しかし、紙はものを書く「道具」といいきるのにややためらわれる。道具という響きの中にそれを使って何かに積極的にはたらきかけて仕事をするものというイメージがある。紙はどちらかといえば、その仕事の結果を運ぶもの、あるいは仕事の結果を入れる容器のようなものである。そして仕事の結果を伝えるときの媒介、つまりメディアである。ここでは、仕事の結果と単純に無機的な言い方をしたが、時にこれは芸術作品であったり、超極秘の重大な情報であったりする。あらゆる情報(感情的なもの、事実をつたえるもの)はこのメディアをとおして伝えられる。逆にいえば、これらを伝えるものがメディアである。

そして、ときにメディアは中身の情報に大きな影響を与えることがある。メディアによって情報そのものの質が変わりうる。もっといえばメディアがあって初めて情報が存在し、意味を持つことすらある。そのメディアなくしては情報が存在さえしない。そう考えるとメディアはもう情報のいれものというよりも情報を支える一つの要素と考えるべきかも知れない。

例えば、北斎の残した芸術が版画という形でなかったらおそらく世界的な評価はそれなりに異なったものとなったであろう。北斎が版画を選択したそのことから北斎の芸術は始まっている。つまり、メディアを選択したそのことも、芸術の一部であったと考えるべきであろう。

さて、話はコンピュータに戻すことにしよう。一般的な意味からはコンピュータは大変便利な「道具」である。難解な計算をたちどころにやってくれる。文章をきれいな文字で印刷してくれる。細かい制御をして料理をおいしく作ってくれる・・・。確かに便利な道具であった。しかし、ここでいいたいのはもし文字をきれいに印刷してくれることが、そもそも文章を作ることに影響を与え、出来上がった文章に違いが出るとしたら、どうであろうか。

(91年頃)

1990年7月11日水曜日

デザインとコンピュータについて

私達は今、新しいデザインを展開しようとしている。その要求は私達の側にあるのではなく、社会の側にある、というのが私の認識である。もちろん、そうしたいという欲求が自分の中にあることは喜んで認めるところである。
その裏には、今までのデザインではだめなのだというアンチテーゼがあるのは言うまでもないことである。今までのデザインとは何で、それのどこがどうだめなのかということに関して、言及することは(あとでも述べるが)容易なことではない。というか、言葉で説明しようとすること自体に不可能性があるということがある。
といっていてもも始まらないので、いくつかのキーワードを通して、私の考える新しいデザインへのアプローチを試みてみたい。

1. コンピュータ
それへの理解なくしてはこの新しいデザインは理解できない。もちろんここで言っているコンピュータの理解とは、コンピュータの原理を理解するということではなく、コンピュータの本質を理解するということである。
もう少し引いた言い方をすると、コンピュータの本質を理解できるような感性を持っていなければ、このデザインを把握できないということなのだ。つまり、コンピュータの本質の理解がこのデザイン理解のバロメータになっているということである。コンピュータの本質を理解することとこの新しいデザインを理解することが極めて同質の問題を含有している。

2. メタ・デザイン
デザインという行為は、デザインするということがどう言うことなのか、あるいは「デザインするという行為やその思考」そのものをデザインするという自己言及という側面を持っている。このような再帰的な問題意識を持っているところにデザインの本質的なパワーがあると私は見ている。昨今、あらゆることにデザイン的なアプローチが叫ばれていることの裏にはこのメタ・デザインという構造的なパワーが要求されているのだと、今私は気づいた。

3. 問題意識
これは、最も重要なことである。現在の(旧来の)デザインにおける問題意識とは一体何だったのだろうか? デザインによって一体何を解決しようとしているのだろうか。問題は何だ? アメリカにおいては「デザイン」は「問題解決のための総合的なアプローチ」と捉えられている。まず、問題を認識できなければ解決しようもない。再度問う、問題はどこにあるのだ。デザインしたことによって解決したことは何なんだ。

4. マクロな視点
ミクロな視点も重要だが、ここで問いたいのはマクロな視点である。デザインが新しくなるというその変化は非常に大きなものである。決して流行的な一次的な変化ではなくデザインも含めた精神活動、思考活動における地殻変動的な変化である。あまりに大きすぎてほとんど目に見えないぐらいである。ほとんど視覚的に(あるいは言葉や論理=ロゴス)捉えることが不可能になっている。この変化を言葉で伝えることが困難であるというのはこういった理由による。小さい変化の積み重ねが、決して大きい変化ではない。(部分の総和が全体ではない。)

※コンピュータの定義(私が考える)
コンピュータ≠計算マシーン
コンピュータ≠省力マシーン
テクノロジーが進化してきて、いま人間の感性や思考に直接アクセスしようとしているのだ。何故か急にそれが可能になりそうなのだ。あるいは急にそれができることに気づいた。そのようにテクノロジーによって人間の感性や思考に直接タッチしてくるものを私はコンピュータと呼んでいる、と思ってもらってよい。別に今あるこのコンピュータの仕組みや形にこだわるつもりは更々ない。(もちろん、私にとってのとっかかりはこの機械としてのコンピュータであったが、もはやそんなことはどうでもよいことだ。)
曰く、コンピュータ=メディアである。(他にもあるかな?)
したがって、いま私達デザイナーに求められていることは、感性とは何か、思考とは何かというメタ感性、メタ思考を研ぎすますことなのだ。感性を感じる感性、思考を考える思考、それを常時持ち続けなければこのコンピュータ時代をデザインすることはできない。

※私の問題意識
上記コンピュータ定義に基づく、「コンピュータが人間の感性や思考を飛躍的に拡大するのだという認識」がまずあり、
A. こういった感性拡大マシーンであるコンピュータによって人間がハッピーになれるのだ。
B. そのことに、デザイナーを含めた多くの人が気づいていない、理解していない。
C. この感性拡大マシーンであるコンピュータを完成させるには、デザイナーが不可欠であるが、B.以上に理解されていない。
D. 実際にどうすればこのマシーンを完成させることがきるのかということに関する思考方法、方法論の模索。

(900711)

1989年1月1日日曜日

プログラミングとは

コンピュータに向かってプログラムを組むというのは、世界を記述しようとする行為である。そして組上げられたプログラムを使用するということは、その記述された世界に新たな要素をおいてどのように振る舞うかを観察しようという行為である。つまり、本質的、実際的にいってコンピュータの仕事とは「シミュレーション」にほかならない。
実用的な意味でコンピュータの初めての仕事は弾道の計算であったとのことである。弾道の計算をするためにはコンピュータ上に主には力学的な物理世界を記述する必要がある。弾の持つエネルギーと重力や摩擦などによって成り立つ世界である。ENIACはこのコンピュータ上のあるいはソフトウェア上に仮想的に描かれた物理世界にミサイルなどを飛ばし、着弾点などを計算した。
また、オフィスワークにおけるスプレッドシート(表計算)のアプリケーションプログラムはまさしく集計用紙の世界をシミュレートしたものである。ワードプロセッサは原稿用紙と筆記具の世界をシミュレートしている。
ただし、ここでいう「世界」とは、現実の世界のこともあるし、もう少し、拡張された世界のこともある。むしろ開発者のなかの頭の中にある理想的な世界のシミュレーションといったほうが正しいかもしれない。
当然のことであるが、例えばスプレッドシートプログラムのシートと集計用紙、ワードプロセッサ上の画面と普通の原稿用紙はまったく同じではない。まったく同じだったら何も特別な機械に大金を出しはしない。ワードプロセッサで実現しようとしている用紙は、正確にいえば、ものを書くのに理想的なメディアとしての原稿用紙である。もちろん現在のワードプロセッサが理想的な原稿用紙を実現しているとは思えないが、そういった路線で着実に(?)進歩してきていると思える。最近出始めているアイデアプロセッサなどは、完全に従来の原稿用紙を超えた別のものである。むしろ、KJ 法的な世界をシミュレートしているのかもしれない。
いずれにしても、コンピュータ・プログラムの行っている作業がシミュレーションであることには変わりがない。

シミュレーションという言葉に抵抗があるかも知れない。この抵抗には二つの側面があると思う。一つには弾道計算ならまだしもワードプロセッサをシミュレーションとは感覚的に呼びにくいということがあろうし、二つにはコンピュータの行っている創造的な仕事を単なるシミュレーションの結果とは呼びにくいということがあるかも知れない。
今、ここで述べているのは、プログラムを作り上げるという立場からの議論であって、そういった見方からはシミュレーターの作成というやや視点を下げてシンプルに捉えようという意図がある。

●プログラミング能力
現在、プログラミングに必要とされている能力にはどういったものあるだろうか。コンピュータそのものに対する興味と知識、論理的な思考能力、そして体力だといわれている。しかし、もっと大切なものは世界の記述能力である。
世界の記述能力とは
1. 現状を正しく認識する能力、すなわち現状の種々雑多な局面の中から何が重要で本質的なパラメータかを把握する能力。
2. 表現力、本質的なパラメータ同士の関係を正しく位置付けること。

●将来のプログラミングのイメージ
...

(89年頃)

スクリーン・オリエンテッド・ソフトウェア・デザイン

スクリーンを中心にしてソフトウェアをデザインしていくこと。ソフトウェア、特にアプリケーションソフトウェアを考えるに当たって、普通一般的に行われている方法としては、まず機能を列挙することから始まりまる。例えば、競合となる機種の機能表、ならびに価格とを見比べて、遜色のない機能をこれから開発するシステムに想定する。
でもそうではなく、スクリーンという目に見えるものからソフトウェアをデザイン(設計)しましょう。

(1989頃)

ウィンドウはえらい

ウィンドウ以前―――テキストスクリーン
DOS などのスクリーンは基本的には1枚のコンソール画面という考え方によってによってユーザーとのコミュニケーションを取っている。
文字は基本的には1次元のバイト(またはワード)列である。したがってもし人間の短期記憶容量に制限がなければ、本来的に言えば、「一文字」しか表示できない画面でもよいといえる。(正確にはリターンを打つ前なら、エディットできるという意味では一行単位のディスプレイがあればよい。)

しかし、ハイパーテキストという概念を持ち出すまでもなく、人間の情報処理は同時発生的というか、一時にはるかに多面的な活動を行なっている。
すなわち、dir あるいは ls と打って、ダンプされたファイルのリストを見ながら、コマンドを打つなど。

この多面的な活動をサポートしようとして考えられたのがウィンドウという仕組みである。ウィンドウの概念以前には(*)マルチコンソールがあるのだろうと思う。

DOS のコマンドを打っていた頃にも、なぜバックスクロールができないのか、非常にもどかしかった。画面はたかだか 20数行しかないので、ちょっと長いファイルリストは、すぐに画面の上方にかき消えてしまうのだった。またマシンのスピードが徐々に上がって、ctrl+S なんて打っている暇もない。
しかし、その時代でも多少バッファをもてば、ある程度の逆スクロールぐらいできただろうにと思うのだ。それも見るだけだったら簡単なはずだ。(気が利かないやつ。)

ウィンドウは、本当にえらい。

マルチコンソール:
これはファンクションキーなどによって複数のコンソールを切り換えられるものである。一時に一枚の画面しか見ることができないが、それでも一つのコンソールよりは画期的に便利。
OS-9 という OS で実現していた。

(1989頃)

ソフトウェアデザイン宣言1

ここでいうソフトウェアのデザインとは、そのソフトウェアがどういう機能を持ち、またその機能はどのように働くかを設計することである。これまで、そういう職業がなかったかと言えば、強いて言えば日本では、おそらく SE(Systems Engineer) と呼ばれる人達がこの仕事を行っていたのであろうと思う。しかし、最近のパーソナルコンピュータでの米国産の優れたソフトウェアのクレジットを見ていると、
Design by ...
Program by ...
という形で入っていることが多い。ここにおいてデザインといっている部分で行われている作業というか仕事は、日本で言うところのSEがやっていることとはずいぶん概念が異なっているのではないだろうか。
ソフトウェアデザイナーとSEの違いを感覚的に捉えれば、今までにない新しい問題の切り口を見つけだすことによってより革新的にアイデア発想的に、問題の解決に迫っているかどうかと行った点であろうか。
おそらく、この違いのもとはソフトウェアの設計の出発点の違いによるものであろうと思う。この設計の原点となっているものは、極端に言ってしまえば人間であるか、システムであるかということではないだろうか。現在日本では、ソフトウェアのプログラマーが経験を積んでSEになる、というのが一般的である。したがって、ひとことで言うとSEというのはシステムの事情に通じている人ということがいえる。
しかし、もう一方ではもっと人間よりの発想というのが存在してもよいと思う。人間とは、作業する人でありシステムを使う人である。人間を見て、ソフトウェアをデザインしなければならない。いわゆるデザイナー(設計者一般の意味でなく)は、人を見てきた職能であるといってよいと思う。だからこそ今、デザイナーはソフトウェアをデザインしなければならない。

(89年頃)

ハイパーカードについて

現在のところ、マッキントッシュとそうでないものにかかわらず、最もホットなソフトウェアである。また、ユーザーインターフェース、スクリーンデザインに関してもかなり関わりの深いソフトウェアである(*1)と言える。I氏の意見によれば、このソフトを境に巷でスクリーンデザインに着手するデザイン事務所なりが大いに排出するあろうということである。
自分にとって、あるいは自分の会社にとってみるとこの動向は二つの意味で要注意ということになる。つまり、第一には競合相手が増えるという直接的なことと、第二に(これが大きいと思うのだが)われわれが目指すコンピュータデザイン(ユーザーインターフェース、スクリーンデザインを大きく包含する概念として)の質が薄まることである。これは例えばCIビジネスの中で、PAOS(=中西元男氏)が目指してイメージしたものがCIの流行(!)と共に、一部に大いなる誤解をもって拡がったことと同様の構造をもっている。ここにおいてもっとも悲劇的なことは、デザイナー自身がことの本質を理解しない(*2)で誤った認識でデザインにあたり、これを流布していったことにある。もっとも、本質を正しく理解する能力がデザイナーにあったならば、デザインが真に重要な意味を占めるはずのこの時代において、デザイナー自身が冷や飯を食っているわけはないのだが。

*1: 何故ハイパーカードがスクリーンデザインと関連深いか?
ごく表面的、直観的に見てもハイパーカードはほとんどスクリーンデザインそのもののように見える。このことはある意味では正解だし、ある意味では当たっていない。
まづ当たっていない理由としては、ハイパーカードはいわゆる羊の皮をかぶった狼であり、このソフトウェアが達成しているレベルはコンピュータだって普通の人間に本当に使えるものであるのだ、ということを完成した製品として例示したことである。当然、マッキントッシュという下地があってはじめて成しえたことではあるが、むしろマッキントッシュというものをコンピュータを作る上での一つのコンセプト(=概念)あるいは、哲学、思想として捉えるならば、ハイパーカードはその概念をより一層明確に形にしたものである。
ただし当然、ハイパーカードが示した方法がただ一つのものではないとは思う。ハイパーカードの示した方向は、今後の展開して行くであろう大きな潮流の One of them. であって、なおかつ初めての One. であったということである。
一方、ハイパーカードはスクリーンデザインそのものであるという理由は、ハイパーカードがビジュアル(視覚表現)に密着して存在している点である。極端に言ってしまえば、ビジュアルがなければハイパーカードはもはやハイパーカードではない。そうなったら、別の名称で呼ばれるべきだし本質的に別物である。たかが視覚表現のことであるが、人間はこの「たかが」の視覚というものによって、考え、発想し、整理し、飛躍する生き物なのである。言葉というものによってある概念が明確に意識され定義づけられ、伝えられたのであろうが、概念そのものがやってきたのは視覚を通してであったのではなかろうか。

コンピュータによってビジュアルを扱うことは(コンピュータグラフィックスではなく)これまでは(正確には XEROX/PARC の研究以前は)とりあげられなかったし、現在もコンピュータサイエンスの分野ではあまり本気で研究されているとは思えない(*)。しかしコンピュータと関係のない実際の生活の場や仕事の場においてはビジュアルの要素なしでは考えられないのではないか。雑誌、書籍などちゃんと印刷されているものをみれば必ずデザインされているし、家具や機器だってデザインされずに生産されることなどありえない。
それでは一般の人が使うべく作られたソフトウェアのディスプレイは?
話が飛躍しましたがハイパーカードはこういった捉え所のない視覚表現を大変たくみな切り口で処理したほとんど初めてのソフトウェアといえる。それはユーザーカスタマイズのきく高度な視覚表現ツールと、組み合わせればかなりなことまでが自由になる基本ツールを解放した。

(1989頃)

今でいえば、Adobe Flash ということになるのかも知れない。しかしインパクトの強烈さでは、ハイパーカードには及ばない。それ以前にそういうものはなかったのだから。
あるいはSmalltalk-80(今でいえばSqueak)になるのかな(ハイパーカードより前だけど)。しかし人々がちゃんと使える、デザインとして完成したものとしてはハイパーカードに及ばない。
とはいえ、そのような革新的なものがなぜ消えていってしまうのだろう。(MacDrawも、Moreも、Newtonも、消えてしまった。)
これは考えるべきことだ。

(100204)

デザインとコンピュータ

現在、コンピュータはますます安価になって使用者の裾野を拡げています。近い将来には誰でもが何らかの形でコンピュータを操作するようになります。勿論どのような使用形態になるかは難しいところですが、いわゆる組み込み型のものを、知らないうちに使うというのではなくコンピュータそのものを使うようになるでしょう。
たぶんその時のコンピュータは今のようにキーボードなどは勿論、マウスも付いているか怪しいものです。もしそれを肯定するとしてその時一体どんなユーザーインタフェースが付いているでしょうか。
そのコンピュータは、どんなデザインが与えられているか想像をしましょう。

(1989頃)