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2010年11月6日土曜日

豊かさ?

これは昨日の朝に瞬間に感じたイメージなので、今はもう他人のことのように語るしかないのだけれど、それはこんなこと。
いろいろなことがうまくできなくなったり、わかっていたと思っていたこともなんとなくモヤモヤとしてきたりする。でもそんな中でときおり、当たり前のことの中に今まで考えたこともなかったような面が見えてきたりもする。それは気づかなかった人生のなんというか味のようなもの。
たぶんそれは、何かを失うことによってしか得られないような何か。たとえば、しみじみと浸るようなあたたかい悲しみとか、あるいは望んでもかなえられない願いを胸に抱えて生きる寂しさとすがすがしさのようなもの。
そういった体を吹き抜けるような寂寥感や焦燥感、はたしてそういったもののない人生が豊かと言えるのかどうか?

自分がデザインするものの中に、そのような深みというか味のようなものがにじみ出たらいいのだけれど。特に人が作って、使うソフトウェアやシステムは完璧なものたり得ない。であれば、不完全さは「完全でない」という以上の、何らかの綾になってもいいのではないか。
いや私個人の名前がでるとか、そういうことではなく、プロダクト、特にソフトウェアにはそういう人間の味が「乗って」いていいと思うのだけれど。感傷的すぎるだろうか。
(101023)

モノづくり

最近いくつかのプロダクトに関わっていて、ある共通したパターンに遭遇している。それはデザイナーとプログラマの感覚の相違から来るものだ。それもかなりお互いの行為の深いところから発している根本的な違いのようだ。
私自身はいくつかのプログラムを自分で書いてきたが、基本はデザイナーという人間である。でもこのことに関しては、デザインはもっと強くプログラマに伝える必要があるし、プログラマはそれがどういう意味を持つのか「まじめに」深く考えるべきことである、と思う。

いくつかのプロダクトは、どれも今までのシステムの概念を打ち破ろうとする実験的、野心的なものだ。その立ち上げにデザイナーとして参画できていることは、画期的なことだと思うし、それだけにいい意味での気負いもあった。
これらのシステムは、いずれも使用者がそれを使って何か生み出したり発見できるような、ある種のクリエーティブなツールだ。
プログラマもデザイナーもどちらもものづくりに関わる仕事であるが、プログラマのそれは、集中的集約的なものだ。プログラムという成果物は、その他の人工物に比べて、高度に整合性を問われるものである。その中では何がどのようにできるのかを「一切を余すところなく」「一分の破綻もない」ように記述しなければならない。そのために、すべての関係する変数やデータ構造、ルーチンを頭の中に置いてコードを書き進めねばならない。だからプログラマがコードを書いている時には、まわりは一言たりとも話しかけてはならない。プログラムに集中できて「乗ってきた」ときは、自分が描く世界のすべてをコントロールできているような絶対的な支配感と高揚感がある。それは根源的な快楽を伴うといっても過言でない。ランナーズハイという言葉があるが、まさしくそういった状態で、エンドルフィンがおおいに分泌されていると思う。たとえばプログラマが彼らの道具であるテキストエディタに強いこだわりを見せるのは、手と頭を直結した一体感が思考を研ぎ澄まし続け、このハイ状態をいかに継続できるかに大いに関係しているからだ。
それに対してデザイナーの仕事は、包括的全体的、またあるときは発散的であるといえる。そして同じように全体性を大切にするものである。プログラムと違う種類のやはり整合性や緻密さが鍵になる。デザインにも課せられている条件や仕様はあるがそれは曖昧であり、条件と言うより希望あるいは方向性というレベルでしかない。したがってデザインは仕様が与えられたとしても、それをまず疑って、本当に何が求められているのかを類推あるいは創造することから始めなくてはならない。
(100724)

2010年2月27日土曜日

ハードなデザイン、ソフトなデザイン

ソフトなデザインとは、使い方からアプローチするデザイン。
ハードなデザインとは、作り方からアプローチすることと、おいてみよう。

ソフトウェアとハードウェアということとは、直接は関係しない。
これらのアプローチは、実際には相対的なものだ。ハードウェアとソフトウェアをしいて比べれば、その名の通りの位置づけになるかもしれないが、それぞれ中にもハード/ソフトはある。つまり南の街にも北の街にも、街の北側はあり南側もある、ということだ。

ハードウェアのデザインにおいて、そのものの使い手はどういう人で、使われる状況はどうであるか、と発想していくこととはソフトなデザインである。
それに対して、材質や設計方法からアプローチするのがハードなハードウェアのデザインアプローチである。あるいは競合機種やマーケット自体だけを見てデザインすることもこちらの範疇だといってよいと思う。
ハードなデザインを行うときにも、実際にはソフトな面をいっさい考えなければものはできない。スポーツカーがスポーツカーであるのは、スポーツ的に人が運転できること、といったソフト的な解釈が暗黙の前提にはある。
しかし、自動車を通したこんなスポーツの在り方もありうるのでは、と問うことはソフト的なアプローチである。もちろん、自動車そのもののソフトを問うことも可能だろう。

ソフトウェアにおいても、ハードなデザインはある。データ構造やアルゴリズムからアプローチすることはハードである。いわゆるユーザーインターフェースは、基本的にはソフトな面であるが、その中にすらハードよりの発想を指摘することができるかも知れない。人間も機械のように見なして、仕事の効率で効果を計ろうとすること。あるいは設計指針として守るべきことを10箇条のガイドラインとしてまとめて守らせようとするようなアプローチ。
ユーザーエクスペリエンスというのは、かなりソフトなアプローチに思える。

ソフトなデザインはそのものにとって、より根源的である。その道具とは何か、何故必要なのか、どのように我々を変えてくれるのか、を問うのだから。これなくして、ハードなデザインはありえない。

私はハードなアプローチは、否定されるべきとは考えない。むしろ非常に重要なものであって、欠かすことができない。多くのイノベーティブなものはハードなブレークスルーをともなわなければ可能にならない。
私が言いたいのは、その両方のアプローチの意義や重要性をよく理解して、どちらが正しいか、というような決着を求めるような議論をしないこと。まさしく車の両輪として働くように、多くの人ができるだけ高いレベルで両方を理解したうえでデザインすることが重要なことだと思う。
(100227)

2008年6月17日火曜日

現象からはじめる

もちろんすべてのソフトウェア開発者についてのことではないけれど、比較的多くのソフトウェア開発者にいえることとして、ソフトウェアというプロダクトを現象として見ない、ということがあるのではないか。
プログラムは、内部構造を規定するものではあるが、その発端は「現象」であるべきだと思う。少なくとも人が操作することを目的とするソフトウェアにおいては。
(080617)

2006年3月18日土曜日

ユーザーインターフェースの装飾

最近はやりのソフトウェア開発のデザインパターンの本の中で、「ユーザーインターフェースの装飾」という言葉が使われていた。これは少々気になった。
「装飾」ととらえる認識自体が間違っていると思う。ソフトウェアがなんのためにあるのか、ということに関して私とは立ち位置が違う。
現在においては、ほとんどのソフトウェアは使用者に「使われる」ものである。使用者とのインタラクションによって結果、成果を出すということが、ソフトウェアの存在意味である。(科学計算などの一部のソフトウェアを除いて)
この本の文脈の中では、「装飾は本来ソフトウェアには不要なものであるが、人間とインタラクションしなければならなくて、一部の使用者が個人的な趣味で望むことがあるのでしかたなく装飾の存在を認める、少々下等なソフトウェア要素である。」というようにひびく。
ソフトウェアにおいて(そのほかの機能体においても)、機能性のない要素は不要であると私も考える。しかしインターフェースは、機能(存在意義)を持つものだし、装飾もそれはそれで機能を持つ。それらは、存在自体が機能をもつのではなく、存在の「質」において機能性を発揮させるものである。つまり出来がよければ飛躍的に全体の機能を向上するし、出来が悪ければマイナスにも働く、ということだ。


現象論的にソフトウェアをとらえることは、彼らが考えるよりは重要だと私は思う。

(060318)

1989年1月1日日曜日

プログラミングとは

コンピュータに向かってプログラムを組むというのは、世界を記述しようとする行為である。そして組上げられたプログラムを使用するということは、その記述された世界に新たな要素をおいてどのように振る舞うかを観察しようという行為である。つまり、本質的、実際的にいってコンピュータの仕事とは「シミュレーション」にほかならない。
実用的な意味でコンピュータの初めての仕事は弾道の計算であったとのことである。弾道の計算をするためにはコンピュータ上に主には力学的な物理世界を記述する必要がある。弾の持つエネルギーと重力や摩擦などによって成り立つ世界である。ENIACはこのコンピュータ上のあるいはソフトウェア上に仮想的に描かれた物理世界にミサイルなどを飛ばし、着弾点などを計算した。
また、オフィスワークにおけるスプレッドシート(表計算)のアプリケーションプログラムはまさしく集計用紙の世界をシミュレートしたものである。ワードプロセッサは原稿用紙と筆記具の世界をシミュレートしている。
ただし、ここでいう「世界」とは、現実の世界のこともあるし、もう少し、拡張された世界のこともある。むしろ開発者のなかの頭の中にある理想的な世界のシミュレーションといったほうが正しいかもしれない。
当然のことであるが、例えばスプレッドシートプログラムのシートと集計用紙、ワードプロセッサ上の画面と普通の原稿用紙はまったく同じではない。まったく同じだったら何も特別な機械に大金を出しはしない。ワードプロセッサで実現しようとしている用紙は、正確にいえば、ものを書くのに理想的なメディアとしての原稿用紙である。もちろん現在のワードプロセッサが理想的な原稿用紙を実現しているとは思えないが、そういった路線で着実に(?)進歩してきていると思える。最近出始めているアイデアプロセッサなどは、完全に従来の原稿用紙を超えた別のものである。むしろ、KJ 法的な世界をシミュレートしているのかもしれない。
いずれにしても、コンピュータ・プログラムの行っている作業がシミュレーションであることには変わりがない。

シミュレーションという言葉に抵抗があるかも知れない。この抵抗には二つの側面があると思う。一つには弾道計算ならまだしもワードプロセッサをシミュレーションとは感覚的に呼びにくいということがあろうし、二つにはコンピュータの行っている創造的な仕事を単なるシミュレーションの結果とは呼びにくいということがあるかも知れない。
今、ここで述べているのは、プログラムを作り上げるという立場からの議論であって、そういった見方からはシミュレーターの作成というやや視点を下げてシンプルに捉えようという意図がある。

●プログラミング能力
現在、プログラミングに必要とされている能力にはどういったものあるだろうか。コンピュータそのものに対する興味と知識、論理的な思考能力、そして体力だといわれている。しかし、もっと大切なものは世界の記述能力である。
世界の記述能力とは
1. 現状を正しく認識する能力、すなわち現状の種々雑多な局面の中から何が重要で本質的なパラメータかを把握する能力。
2. 表現力、本質的なパラメータ同士の関係を正しく位置付けること。

●将来のプログラミングのイメージ
...

(89年頃)

ソフトウェアデザイン宣言2

・ソフトウェアをデザインしなければならない。
・ソフトウェアのデザインとはコーディングレベルのいわゆるプログラムのデザインではない。
 また、そこに静止してある「かたち」のデザインではない。
 むしろ、空間としての「かたち」をデザインすることをも含めた、あらゆるものの時系列上でのレイアウトデザインである。
・ソフトウェアデザインとは「使用する」というまさしく"ing"系のダイナミックな「こと」のデザインである。
 またソフトウェアデザインはコミュニケーションのデザインである。
 人と機械、人と人の情報伝達系のデザインである。

1.デザインとソフトウェア
現在、市場をにぎわしている製品群が世の中に出て使用者の手にわたるまでには数多くのステップが存在している。その中でデザインというものがかかわっている工程は製品企画の段階から最終的なセールスプロモーションまで実に多岐にわたってきている。こうした企業レベルで捉えられる「デザイニング」の傾向は今後おそらくさらに広がって行くであろう。このなかで「ものを作る」という意味での製品デザインという場合、現在工業デザインの分野が主にこれにあたっている。
このような状況中で今、これまでにない製品種としてコンピュータというものが大きな産業の潮流をなしてきた。コンピュータを構成する要素としてはハードウェアとソフトウェアというものがあり、これらは初めからセットになっている場合もあるし、それぞれ製品として独立している場合もある。このうちハードウェアのデザインに関しては、現在のところ従来の工業デザインの手法によって行なわれているわけだが、ソフトウェアに関していえば製品デザインという見地からほとんど何のアプローチもなされていないというのが現状である。このほとんど手つかずの状態の原因は果たしてどこにあるのであろうか。ここではその答えを示すというよりは、問題点の指摘だけをしておこう。

<デザイン対象が不明>
ソフトウェアが通常の製品と決定的に違うのは、まず第一にソフトウェアには「かたち」というものがない。はたして形のないものをデザインすることができるのだろうか? いったい形のないものの何をデザインすればよいのだろうか? この問いに答えるには、そもそもデザインというものが何であって、何をデザインすればデザインをしたことになるのかという原始的で根源的な話題にさかのぼらねばならない。

<デザイン課題が不明>
第二に、ソフトウェアにおけるデザイン的な問題点が見えにくいことが挙げられる。もし、何の問題もなくソフトウェアが設計制作、そして流通されているのならば、デザイナーが何も口だしすべきことはない。いったいデザインによって何を解決しようというのだろうか?
しかし逆の見方からいえば、次から次へと送り出されるこのコンピュータライズした製品群に、はたして買った側は本当に満足してしているのだろうか。たとえばよくでる話題として、購入したパソコンやワープロの多くが押し入れの中で眠っているといわれるが、この押し入れパソコンや神棚ワープロとなってしまうことの原因ははたして使えなかった使用者側にあるのだろうか? 作る側としては使ってもらうユーザーのことを十分に理解して製品を作ったといえるだろうか。このことに関してデザイナーは一歩踏み込んで考える余地は本当にないのだろうか。
また、ソフトウェアとても激しい市場戦略の中で、他社製品と差別化した競争力を持たねばならないのは当然であり、その激しさは他の製品群と比べてもけっして劣るものではない。この市場バランスの競争力となりうる価値をデザインとして付加できる要素があるのではないだろうか。

いずれにしても、ここではソフトウェアにデザインがいまこそ必要であり、なおかつデザインが今後のソフトウェアの進展についての重要な鍵を握っているという視点で以下の章を見ていくことにしよう。

2.コンピュータの現状
コンピュータはハードウェア的に見るとどのような業界と比べても、もっとも進歩の激しい世界である。それどころかこれまでのいろいろな産業の歴史を紐といても、性能・価格の両面で信じられないほどの飛躍のしかたをしている。ソフトウェア的にみてもハードウェア程ではないにせよ、昨日までの夢物語が着実に現実のものになってきている。
特に、ハードウェアの急激な進展の結果として、使用者層の拡大とパーソナル化をもたらしてきた。理科系人間や機械好きの人達から、これまでコンピュータを使うなど少しも考えていなかったような人達に使用者のターゲットが広がってきている。いわゆる「コンピュータを知らない人達」を相手にコンピュータを作り、売らなければならない時代になってきたといえる。同様にパーソナル化の波が押し寄せている。ワードプロセッサやパソコンなどは数万円も出せば誰もが個人用に買えるようになってきているし、ワークステーションといった少し前では研究室レベルで使われていたようなパフォーマンスの機種が個人単位の使用をメインとした使用形態に移ってきている。このような事態を、少し前では誰も思いつかなかったことを考えると、今いわれているコンピュータがひとり一台という時代も、まったくの冗談どころか目前までやってきているといえる。
しかし、一方では前述したとおりこういった技術の進歩に使用者側がついていけないということも現実的には起きているわけで、このギャップはさらに広がっていく傾向にある。

3.コンピュータとはなにか
それでは、このわけのわからないコンピュータの素顔というものを、もう少し見ていくことにしよう。
コンピュータを買いましたとかコンピュータを導入した、というと真っ先に投げかけられるクエスチョンマークが「何に使うのですか?」、「どんなふうに役に立ちますか?」という問いである。実際、ハードウェアとしてのコンピュータを買っただけでは何の役にもたたない。パソコンといった類では、その機種にマッチするソフトウェアを買い、複雑な手続きを踏んでハードウェアに与えてやってはじめて使えるようになるし、大型マシンでは必要な機能を備えたソフトウェアを開発するか、させるかして使うことになる。したがって、導入前に、かなりはっきりした目的意識(何に使い、どのように便利になるのか。)をもってあたらねば、大型マシンでも神棚行きになりかねない。当然のことながら大型機ほど悲惨な結果となる。
一方、エアコンやビデオデッキ、あるいはコピーマシンを買うといやでも中にコンピュータ(この場合は、ソフトウェアはすでに組み込まれている)がはいっている。裏方にまわって仕事をしてくれていたときはよいが、いったんコンピュータとして多機能化の恩恵を受けようとした途端にわけのわからないものになってしまうことがある。これらの機能はいったい役にたっているといえるのだろうか? はっきりいって役にたっていないことが多いし、場合によっては、基本機能を阻害していることすらある。
こう見てくると、コンピュータはそれだけで役に立つ機械というより、むしろ大きな機能モデュールのようなものと考えたほうがよい。たとえば、エンジンやモーターのようなものと同じである。それだけでは、何の役にもたたないが、新しい使い方を考えてやると、とても役にたつものになる。小型のモーターを小さな箱にセットして刃を取付ければ鉛筆削りになるし、強力なものを建物にセットし、人の乗る箱を巻き上げるようにすればエレベーターになる。
コンピュータもセットの仕方、動作の仕方を考えることによってモーターとは比較にならぬ程の変身のしかたをする。この新しい使い方にあたるものが、ソフトウェアである。コンピュータのハードウェアが用意してくれている多くの細かな機能群をどう選び、組み合わせ、配列するかということを定めた仕様書がソフトウェアである。
したがって、ソフトウェアにこそコンピュータの本質があると考えて差し支えない。さらに言うならば、この「使い方のデザイン」こそがソフトウェア、しいてはコンピュータのデザインにほかならない。

4.ユーザーインターフェース
コンピュータと一口で言っても、組み込み型の数ミリ角のものから超高速の部屋を埋め尽くすようなものまである。コンピュータシステムの利用形態からいえば、何年間も無口に無人プラントの管理をするものから、ワープロなどのように人間と機能的なやりとりをしながら仕事をして行くもの、極端な例ではテレビゲームのようにじょう舌に人間とだまし合いを演じるものまである。
ソフトウェアデザインの大きな視座として、ソフトウェアの対話性ということが上げられる。一般的にはユーザーインターフェースとかマンマシンインターフェースという言葉でいわれている分野である。これは上記のようなシステムのうちじょう舌な機種ほどその比率は高いといえるが、どのような機種でもどこかの時点で人間との接点を持っている。ユーザーインターフェースに割かれるソフトウェアのコード(プログラム)の量も、開発の作業量も飛躍的に増加しているし、この傾向はさらに厳しさを増していくだろう。おそらく、ソフトウェアクライシスといわれることの中核的な課題に位置づけられて行くことと思われる。
また、ユーザーインターフェースの質的な面からいうと状況はさらに厳しいといえる。現在、あらゆる方面でその必要性が叫ばれてはいるにもかかわらずこれを専門的に扱っていける分野が存在しない。日本的な事情からいえば、ユーザーインターフェースの解決にあたって必要と思われる資質は、理科系、文科系の両面にクロスオーバーしたものなので、なかなか適切な人材が育ちにくい。問題の所在はもちろんソフトウェアのテクニック上のものではなく、そういったものを前提としたうえで、なおかつ人間と機械、人間と(機械を通しての)人間とのコミュニケーションをデザインしなければならない点がこれまでの分野にないむずかしいところといえる。

5.ソフトウェアデザインの実際

6.ソフトウェアデザインのステップ

....


9.結論
ソフトウェアをデザインするということの中に、新しいデザインの世界が広がっている。これまで、「かたち」あるいは「もの」の世界に限定されがちであったデザインをもう一度再構築し、普遍化するためには避けて通れない一つのゲートである。真に使うものとしての道具という見方から見直すとデザイン上の解決すべき点は数多く残っているし、またこういったアプローチをとれることにこそデザインの特質がある。

ここでの結論はもちろん本論が最初に述べたことではなく、こういった議論はデザイン行為が始まったときから潜在的にあったはずであるし、従来の道具や機械やメディアがデザインされる時点において暗黙のうちに行わていたことであろう。むしろコンピュータという我々の頭脳を模倣する機械が現われて、工業的にそれを処理しなければならなくなってきた今日において、問題が露になったということであろうと思う。


(89年頃)

ソフトウェアデザイン宣言1

ここでいうソフトウェアのデザインとは、そのソフトウェアがどういう機能を持ち、またその機能はどのように働くかを設計することである。これまで、そういう職業がなかったかと言えば、強いて言えば日本では、おそらく SE(Systems Engineer) と呼ばれる人達がこの仕事を行っていたのであろうと思う。しかし、最近のパーソナルコンピュータでの米国産の優れたソフトウェアのクレジットを見ていると、
Design by ...
Program by ...
という形で入っていることが多い。ここにおいてデザインといっている部分で行われている作業というか仕事は、日本で言うところのSEがやっていることとはずいぶん概念が異なっているのではないだろうか。
ソフトウェアデザイナーとSEの違いを感覚的に捉えれば、今までにない新しい問題の切り口を見つけだすことによってより革新的にアイデア発想的に、問題の解決に迫っているかどうかと行った点であろうか。
おそらく、この違いのもとはソフトウェアの設計の出発点の違いによるものであろうと思う。この設計の原点となっているものは、極端に言ってしまえば人間であるか、システムであるかということではないだろうか。現在日本では、ソフトウェアのプログラマーが経験を積んでSEになる、というのが一般的である。したがって、ひとことで言うとSEというのはシステムの事情に通じている人ということがいえる。
しかし、もう一方ではもっと人間よりの発想というのが存在してもよいと思う。人間とは、作業する人でありシステムを使う人である。人間を見て、ソフトウェアをデザインしなければならない。いわゆるデザイナー(設計者一般の意味でなく)は、人を見てきた職能であるといってよいと思う。だからこそ今、デザイナーはソフトウェアをデザインしなければならない。

(89年頃)

ハイパーカードについて

現在のところ、マッキントッシュとそうでないものにかかわらず、最もホットなソフトウェアである。また、ユーザーインターフェース、スクリーンデザインに関してもかなり関わりの深いソフトウェアである(*1)と言える。I氏の意見によれば、このソフトを境に巷でスクリーンデザインに着手するデザイン事務所なりが大いに排出するあろうということである。
自分にとって、あるいは自分の会社にとってみるとこの動向は二つの意味で要注意ということになる。つまり、第一には競合相手が増えるという直接的なことと、第二に(これが大きいと思うのだが)われわれが目指すコンピュータデザイン(ユーザーインターフェース、スクリーンデザインを大きく包含する概念として)の質が薄まることである。これは例えばCIビジネスの中で、PAOS(=中西元男氏)が目指してイメージしたものがCIの流行(!)と共に、一部に大いなる誤解をもって拡がったことと同様の構造をもっている。ここにおいてもっとも悲劇的なことは、デザイナー自身がことの本質を理解しない(*2)で誤った認識でデザインにあたり、これを流布していったことにある。もっとも、本質を正しく理解する能力がデザイナーにあったならば、デザインが真に重要な意味を占めるはずのこの時代において、デザイナー自身が冷や飯を食っているわけはないのだが。

*1: 何故ハイパーカードがスクリーンデザインと関連深いか?
ごく表面的、直観的に見てもハイパーカードはほとんどスクリーンデザインそのもののように見える。このことはある意味では正解だし、ある意味では当たっていない。
まづ当たっていない理由としては、ハイパーカードはいわゆる羊の皮をかぶった狼であり、このソフトウェアが達成しているレベルはコンピュータだって普通の人間に本当に使えるものであるのだ、ということを完成した製品として例示したことである。当然、マッキントッシュという下地があってはじめて成しえたことではあるが、むしろマッキントッシュというものをコンピュータを作る上での一つのコンセプト(=概念)あるいは、哲学、思想として捉えるならば、ハイパーカードはその概念をより一層明確に形にしたものである。
ただし当然、ハイパーカードが示した方法がただ一つのものではないとは思う。ハイパーカードの示した方向は、今後の展開して行くであろう大きな潮流の One of them. であって、なおかつ初めての One. であったということである。
一方、ハイパーカードはスクリーンデザインそのものであるという理由は、ハイパーカードがビジュアル(視覚表現)に密着して存在している点である。極端に言ってしまえば、ビジュアルがなければハイパーカードはもはやハイパーカードではない。そうなったら、別の名称で呼ばれるべきだし本質的に別物である。たかが視覚表現のことであるが、人間はこの「たかが」の視覚というものによって、考え、発想し、整理し、飛躍する生き物なのである。言葉というものによってある概念が明確に意識され定義づけられ、伝えられたのであろうが、概念そのものがやってきたのは視覚を通してであったのではなかろうか。

コンピュータによってビジュアルを扱うことは(コンピュータグラフィックスではなく)これまでは(正確には XEROX/PARC の研究以前は)とりあげられなかったし、現在もコンピュータサイエンスの分野ではあまり本気で研究されているとは思えない(*)。しかしコンピュータと関係のない実際の生活の場や仕事の場においてはビジュアルの要素なしでは考えられないのではないか。雑誌、書籍などちゃんと印刷されているものをみれば必ずデザインされているし、家具や機器だってデザインされずに生産されることなどありえない。
それでは一般の人が使うべく作られたソフトウェアのディスプレイは?
話が飛躍しましたがハイパーカードはこういった捉え所のない視覚表現を大変たくみな切り口で処理したほとんど初めてのソフトウェアといえる。それはユーザーカスタマイズのきく高度な視覚表現ツールと、組み合わせればかなりなことまでが自由になる基本ツールを解放した。

(1989頃)

今でいえば、Adobe Flash ということになるのかも知れない。しかしインパクトの強烈さでは、ハイパーカードには及ばない。それ以前にそういうものはなかったのだから。
あるいはSmalltalk-80(今でいえばSqueak)になるのかな(ハイパーカードより前だけど)。しかし人々がちゃんと使える、デザインとして完成したものとしてはハイパーカードに及ばない。
とはいえ、そのような革新的なものがなぜ消えていってしまうのだろう。(MacDrawも、Moreも、Newtonも、消えてしまった。)
これは考えるべきことだ。

(100204)