2011年10月14日金曜日

デザイン的によいこと


「デザイン的によいこと」をひとつの性質の中にとじこめることはできない。
たとえば、デザインは、「シンプルであること」、「一貫性があること」「メッセージが明快であること」などの金言は(ほとんど)正しい。でも完全無欠というわけではない。
常に相反することとのバランスの上にそれはある。あるいはさらにその上位(メタ?)なレベルからみた、配合の妙がそれを作り出している。

デザイン的にいって、シンプルなことはだいたいよいことだ。だけど極端な割り切り、切り捨てすぎは、いいとはいいがたい。シンプルがいいというのは、シンプルでないものがあまりに多いから言っているのだと思う。だから「だいたい」「ほぼつねに」シンプルをめざしてよい。
しかしたとえば「味」というのは多少とも複雑なものから生じるのではないかと思う。なんともいいきれないもの中に味はある。(もちろん「いいきれないもの」が味、なのではない。)
単純でもいけないし、複雑でもいけないとなるといったい何ならいいのか? 少なくとも単純から複雑にいたる軸とは直行するような別の第二の軸がある。あるいは第三の軸も。(第四の軸はないかもしれない。だって複雑すぎるから。)

釈尊のいう中庸というのはそういうことかもしれない。(ちがうかもしれない。)

私たちの身のまわりで起こっている事象を、あまり複雑なものととらえたくないけれど、それほどシンプルなものでもない。

アインシュタインは、ものごとはシンプルに、ただしシンプルすぎてはいけない、といった。

(この話、複雑すぎる?)

(111014)

2011年9月22日木曜日

ことばの意味について


たとえば、デザインとアートは基本的に同じものではない。そのちがいについて論理的で詳細な議論をしたくない。というか、細かい見方は意味を失う。一つ一つのことばに明確な定義をあたえて、そうでない陣営を批判する(ということをさんざんやってはきたが)ということは、もうやめにしたい。いくら自分に正確で正しい定義に見えたとしても、そういう「正しい定義」ができるということが、そもそも怪しいというか、根拠がない。
あたかも「デザイン」という概念がアプリオリに「ある」とどうして考えてしまうのだろうか。人々がする行為の一つの傾向を、誰かが「デザイン」と呼んだということにすぎないのに。
もちろんそれには一般性があって、それだからこそ人々はそれを了解してそのことばが定着したわけなのだが、元々その概念の境界はあいまいなものである。すべてのことばは、そういうものだということを忘れて議論、ときには戦争さえすることの無意味さはどうしたものだ。
「定義」のあいまい性を認めつつ、明快にそれ自体、その「実」を語ることができたらいいのたが。あいまいであるからこそ、その核の部分を言いあてることができる、ということをもっともっと深く考えなければいけないのだろう。
(110922)

使いやすさについて


使うことに関するデザインをしているのだけど、「使いやすさ」を向上するとか、改善する、という意識はほとんどなかったし、これからもたぶんないだろうと思う。使いにくいのは問題だし、使いやすいことを目指してはいる。でも素直にきっぱりと「使いやすさ」を目指してデザインしていますとは、なぜか言えない。
それは使いやすい、という事象を一次元的な数直線上にマッピングできないと感じているからだと思う。何かデザイン上の工夫やアイデアを盛り込んでも、単純に使いやすさが上がったといえない。その実施が新たな使いにくさをはらんでいる可能性はおおいにある。だから慎重に判断しなければならない。それが私にとってリアルな反応だ。
知り合いのデザイナーをみても、使いやすをデザインしていますとキッパリと発言できるタイプの人と、私のようにその事にはモゴモゴとしてしまう人がいる。でも私は私のリアルに従うしかない。私は「私のリアル」の僕なのです。
(110922)

2011年9月4日日曜日

表現革命


デジタルディバイスの本質的なところは、プログラマブルにあると考えていた。そういう意味も半分あって、BlogにはDesign-Programixという造語を当てた。これは1970〜80年代におそらくパパートやケイが目指していたものの自分流の解釈である。
しかし21世紀の今、事態はあまりそのように進んでいないように見える。これはどういうことなのだろう。かれらそして私の読み違いは、「表現」という項目に関する見立てが十分でなかったということがあるのではないかと考えた。(勝手ですが)
プログラム ≒ 理性、論理による理解とコントロールが達成する前に、圧倒的に感性や感覚に直接に訴える「表現」の革新の波がやってきた。プログラマブルが後回しになったのか、スキップされてしまったのかはわからないが、すでに表現革命のまっただ中に入ってしまった。映画やゲームの世界がもっとも顕著であるが、PCからモバイル、組み込み機器などすべてのディスプレイ上の映像表現は圧倒的だ。デジタルカメラのプロセッサーは1ショットで20枚のバリエーション画像を生成する。精細なグラフィックスのゲームを、自分としては両手を挙げて歓迎するわけではないけれど、神経や感性、あるいは心に直接働きかけるほどそれは強力だ。「表現」がある意味、内容を凌駕するような状態をパパートらは、想像できなかっただろうか。
かれらの目指したことは、正しかったし、正しいと私は思う。この表現革命はどこかに落ち着くという意味では、おそらく一過性のものであるだろう。たぶんその前後で小さくない変化が起きるとはいえ通過儀礼のようなものだろう。しかし、今はとにかくそういった時代である。
(110904)

2011年8月14日日曜日

アナログに知る


「知る」という行為にはもっと「深さ」があると考えるべきなんじゃないか。たとえば味。何度も味わって、はじめて知るその本当のところの味の意味(?)というのはある。
アナログな行為、といえばいいのか。知るという行為の結果は知っているか/知らないかというデジタルな状態ではなく、無限の中間状態が結果としてあるような行為。
知っているかいないか、YesかNoか、それだけだったらつまらない。知っているということに関して、それは事実かそうでないか、私はそれに結論を出したくない。いつまでもそれは何なのかにこだわって考えつづけ、感じつづけていたいんだ。

(110814)

ブログやtwitter/facebookについて


ブログ、間が空いてしまった。その間、自分は何も考えていなかったわけではない。空いてしまったことには、いくつかはっきりした理由がある。
一つは、忙しかったからということ。でもそれは、仕事が相対的に増えたとかいうことよりは、それをこなすパワーが自分に生まれなかったことが大きい。年齢のせいかしら、それとも体重増加のせいかしらね。
それから、3.11以降の話として、いろいろな事象をまとめて判断することが難しくなってしまった自分がいる。科学の問題でもあり、人の問題でもあるという、ことの大きさや複雑さ、そして多くの命にかかわるという重大さが、自分を圧倒している。
それに対して、twitterやfacebookにあふれる情報、というか流言の濁流。それは、まるであの津波の後の人も家も車も生活も流れていく映像とのダブルイメージに映る。そこでの人々の発言は、あまりに性急だ。これはこうだから東電がわるい、これをああすれば放射能が...、あれがああだから首相の資格が...。どのことも、一定の範囲で正しいのだとは思うけれど、どれもこれも答えがあまりに性急ではないか? もちろんことは急いではいる、一刻の猶予もならない。でも急ぐべきは、対処の策であって、犯人探しや罪の深さの査定は、もっと落ち着いてやれないか。
性急すぎる判断は、事態の把握を単純化する。単純化して悪者をやり玉にあげることも、それに快哉の声も上げることも、口汚くののしることも、ある種の快感をともなうものだ。
でも結果として、風評被害や多くの起きなくてもいい不幸は、そういう悪意のない小さい快感の積み重ねから生まれてくるのじゃないのか? つまり自分も加害者の一人になってしまうかもしれないということから逃れられないのじゃないか、そんな風に思っていた。
書いて見るとちょっと大げさにも思えるね。でもだいたいはそんなところだ。
(110814)

表現について


少し前に思ったのだが、ここ数年~10年くらいといっていいか、自分は言葉というものに魅せられている気がする。あるいは、あらためて「表現」全般に恋をしているような状況といえばいいか。言葉にしても、詩にしても、小さな絵にしても、歌にしても、何かを表現するということは、ほんとうに楽しい。それから文字を描くことも。小学生くらいまで、ノートに毎日毎日絵を描いていたときのことを思い出す。自分よりうまい人に嫉妬したり、大好きなマンガ家に私淑したり。
絵画として大作を描いたり、小説を書いたりということではなく、日々の気づきを文章に写しとったり、そこらに転がっているものや空想の事物に形を与えてみたりしたものは、私が世界をどうとらえているかということの証である。つまり私自身がどういう人間で、どういう生き方をしているのかを、私に教えてくれる何かである。
いったいそういったものなしに、私は私の顔をどうやって識ることができるというのだろうか。
(110814)