「考える」ことは、最重要な行為だ。考えないことがカッコイイだなんて、夢にも思わないこと。もっと、もっと、もっと考える必要があると思う。
「感じる」ことは、特にデザインにとっては大切なことだ。しかし感じるように「努力」することは、実はむずかしい。感じることは、いわば不随意筋の仕業なので、力んでみても感じるようになるとは限らない。しかし考えることはがんばれる。そして考え続けることによって、感じることの回路は開かれうる。体験をし、考えを重ねることによって、感じられるようになる。体験を決心するのは、考えることによってのみではないか?
「仕事」というものには、実は二つしかないのだ。つまり体を動かすか、頭を使うか。あるいは両方か。ここにある物を、実際に体を使って何とかしてあそこに運ぶか、あるいは何をいつどうやって運ぶのかを考えて運ぶことを「決める」か。
(100615)
2010年6月15日火曜日
2010年4月10日土曜日
使用者の成長
iPhone OS 4.0 は、マルチタスキングやフォルダを実現する。この進化はまっとうなものといえるが、今さらという感じもしないではない。その操作方法は、正直にいってあまりシンプルなものでも自明なものでもない。もっといえば納得がいかないというか、本当にこれがベストなの? っていう感じ。この操作方法が iPhone 誕生時に載っていたら、もしかするとここまで iPhone は、普通に受け入れられなかったような気もする。
結果的には、iPhone にはすでに世界中に多くの私を含む使用者が存在していて、少々複雑で奇異な作法に対する下準備ないし学習が完了しているので、おそらくこの受け入れは通過するものと思われる。すでにこのギャップより、マルチタスキングの効用が勝るところに使用者はもって行かれてしまっている。マルチタスキングというごちそうのおあずけ状態が、少々の困難な操作方法をも乗り越えてしまうパワーを蓄積させたといえるのかもしれない。これをはたして、使用者の成長と呼んでいいのだろうか? 少々複雑な気持ちだ。
ただ冷静に考えると、マルチタスキングもフォルダも、こういった小さな機器ではシンプルな操作とはなり得なかったのかもしれないとも思う。だからこういった進展をたどることが必然だった、という見方もできる。もしこういったことを見越して Apple がそういう戦略を採用したのだとしたら、これは恐るべきことだ。
がしかし、やっぱりそうではないのだろうな。なぜなら、はじめからマルチタスクなりフォルダに関する操作のことをとことん想定していたら、初代=現時点の操作作法をそもそも採用していなかっただろう。それらの高等なことはとりあえず置いといて、その時点で受け入れられアピールするシンプルな操作をとにかく実現したのだろう。それはそれで正しい判断であったと私は思うが、それがベストない感の理由でもある。
(100410)
2010年4月9日金曜日
以前と以後
iPhone OS 4.0 発表。あらためてスティーブン・ジョブズ凄いと思う。よく考えて見て、Apple I から一度も、そして一分もぶれていないことがわかる。iPhone そしてもちろん iPad も彼が提案しているのは、一貫してパーソナル・コンピューティングのあるべき姿なのだと思う。iPhone は、けっして賢い電話ではなく、まさしくコンピュータの一つのカタチなのだ。さらにここまできて、彼のこれまでの一つ一つの行動にほとんど無駄なものが含まれていないことにも驚く。NeXT も iPod も、すべて今現在の生きた製品につながっている。(ちなみに Newton は、スカリーの製品だし、いろいろなダメな Mac は、アメリオやスピンドラーの作だ。)
コンピュータが、ディスプレイとキーボードがついたものと、いったいいつ誰が決めたのか。スレート型のコンピュータは iPad がオリジナルではないが、かといって次なるトレンドを追ってあの形のものを出したわけではない。そもそもトレンドがどうとかマーケットがどうとか、そういう発想のプロダクトではないように思える。マーケッターやアナリストの中には、そういうレベルでしか見えていない人もいて、失敗だとか、うまくいくとか、予想している。もちろん結局は NeXT のように、失敗する可能性がゼロとは思わないが、だとしても長いコンピュータの開発史の中で、iPhone、iPad が、切り開いた新しいコンピューティングのカタチは、生きていくのだと思う。Macintosh に以前と以後があったように、iPhone、iPad にも以前と以後があるだろうと思う。こういうことを指してエポックメーキングというのだ。
(100409)
2010年4月1日木曜日
皿洗いの法則
「何かを考える」ということ、それはとても不思議な行為だと思う。たとえば、「今日ランチしながら大切な議論をしたなぁ、デザインという営みは、他の人間活動や社会活動の中でもとりわけ重要なものなのに、どうして世の中の多くの人にそのことが理解されないのだろう、ああいう事例も、こういう事例もあるし、...あっ、たとえばこんな言葉で表したら、それはうまく伝わるかも知れない、...いや、それだとこういう誤解をが生じるかもしれない、けれど...。」私が、考えているっていうのは、こんなふうなことだ。
何かを考えねばと思って、すべての雑事をかたづけて、机に座ってリラックスした状態で、いざ考えようとすると、雑念の風が吹き荒れる。(今のちょうど外で吹いている強い風のように)
私の場合、考え事にもっとも適しているのは、朝シャワーを浴びているときなのだが、他には皿洗いをしているときとか、打ち合わせ先から帰る電車の中で景色を眺めながらとか、歩いているときとか。つまり何かの、それほど重要ではないが、かといってまったく無為にしていいわけでもない用事をしながら、というのがいい。だから「歩く」というのも、散歩のようにどうでもいい歩きよりも、どこからかオフィスにもどる帰り道などがちょうどよい。往くときはだめ。そういう意味では、シャワーも何もすることのない日曜の午後にゆったり浴びるシャワーはだめで、ウィークデイの朝、時間の限られたシャワーがよい。それからどれも、もちろん一人でいることがもっとも重要だ。
私はこれを皿洗いの法則と呼んでいる。「私はそういう大切なことを、皿洗いしながら考えた。」
(100401)
2010年3月29日月曜日
技術の進化
ケイタイですら、かなりいい写真がとれるようになってきている。特にカメラの性能を上げるような、はっきりした進化は、本当に日本人は得意なので、そこそこのよい写真をとるのは、お金もかからず手間も技術も不要というすごい事態になっている。その結果何がおきるか?
写真や写真をとる行為自体にデフレが起きる。相対的に価値が希薄になり、最終的に人々はそれに飽きてしまう。こういうのは行きすぎた進化なんだろうか。
(100329)
2010年3月11日木曜日
機能と構造
私がデザイナーとしてデザインを語るとき、その対象として見ているのは人が作り出すもの全般についてである。人が作り出すもの全般を指す言葉に人工物(artifact)という言葉がある。私はそれを機能体と置き換えてみたい。(英語でなんというかはわからないが。)
機械であれ、広告のようなものであれ、洋服、自動車、ロケット、芸術、あるいは制度としての家や政治や国、どれも機能を持つ「機能体」であると言える。人工でない機能体もあるかもしれない。例えば本当の(?)自然公園とか。しかし自然公園の機能(例えば「癒し」)は、人間がすでに存在する自然の中で発見した(というか付与した?)のだから、準人工といってよいと思う。
芸術の機能は、...。うーむ、それはおそらく、自分たち自身を知るという鏡のような機能なのだろうと思う。
とにかく、人工物の存在理由はその機能性にあるといってよいと思う。何らかの「働き」をするためにそれは作られた。意図的の場合もあるだろうし、無意識的な場合もあるかもしれない。それでこれを、明確にいうために「機能体」と呼んではどうかということだ。
(機能のない人工物、というのはあるのだろうか? 今はないと思えるが...。)
機能は構造に宿る、というのは本当のことのように思える。私にはそれはリアルだ。
養老孟司は「心とは、脳の作用である。」と言った。脳自体はある種の構造体である。頭蓋を開ければ目に見て手で触れることができる。しかしその機能である「心」は、見えないし触れられない。しかしそれはそこに確かにある。
一般に、構造から機能を想像することは難しい。簡単な機械仕掛け(構造体)なら、それがどういう働きを持つもの(機能体)であるかはわかるかもしれないが、仕掛けがその機能すべてとは限らない。昔社会科の教科書に、考古品の鼎は(どう見ても入れ物ではあるのだが)、何に使ったのかよくわかっていない、と書いてあった。もちろん入れ物には違いないのだが、それだけでは説明できない文様や形状的な特徴があるという話であった(気がする)。ましてや、脳の構造をいくら仔細に観察しても、それが発揮する機能を言い当てることはとても難しい。私たちは、人間がどういう思考回路や行動基準をもっているかをある程度知っているので、それをもとに脳の働きと構造を結びつけることも可能だろうが、まったく異なる生体系の宇宙人が脳を見て、その機能を言い当てるのは難しいだろう、と想像できる。(宇宙人が「脳」に相当する器官を持っていれば、少しは想像しやすいだろうとは思う。)
話をもどして、私たちデザイナーが扱おうとするのは、まさしくこの機能体である。私たちは「ある働きをする何か」を作ろうとしている。人は決してこれこれの「構造体」を必要としているのではない。構造はどうであってもよい。
しかし、機能が構造に宿るものである以上、また機能を直接見たり触れたりできない(つまり直接作れない)以上、ある「働き」自体を想念すると同時に、さらにそれを実現できる構造を発見し、発明することをしなければならない。これはなんともアクロバティックな所業であるといわざるを得ない。
まとめて見よう。
a. 構造(体)は、見て触れられる実体である。
b. 機能(体)は、直接に見たり触れたりできない、虚体(?)である。
c. 機能は構造に宿る。(機能は構造に宿る、という形でしか存在し得ない。)(←要論考)
d. 人が欲するもの、必要とするものは、機能(性)である。(人は直接に構造を欲することはない。)(←要論考)
デザイナーがすべきことはかなりクリアになってきたかな。
1. 人の欲する、必要とする、機能(働き)を知ること
2. その機能を発揮すべき構造を見いだすこと
いや、しかしまだ困難は続く。
1-1. 人の欲する機能を知ることが、むずかしい
それが本当に人に欲っせられるかどうか、それを判断すること自体がまず困難である。機能は構造体を通してしかやってこないのだから、構造を示した上で「この構造体が発すると思われる機能を、あなたは欲しますか?」と問わなければならない。
そもそも欲しいもの(機能)は何なのかを探って、その構造を作り出そうという戦略なのに、構造を示さないと機能を語れないのでは、何もはじめることができない。
まぁまぁまぁ。しかし、そうはいってもそれが実相であるし、人はずーっと昔からこういう状況の中でいろいろなものを作ってきた。したがって、今さら何も悲観する必要はないのだろう。
こういった構造的な困難さの中で活路を見いだす行為こそ、私がデザインと呼んでいるもの作りなのだと思う。
(100311)
2010年3月6日土曜日
定性的と定量的
定性的にわかることと、定量的に知っていることがあると、なんとなく定量的であることの方が、価値が高いように一般的には感じられる。しかし、私は必ずしもそうは思わない。
定量的であることを重んじるのは、より詳細でよりきめ細やかに事実を捉えていると感じるからであろう。それはそれで一応は理解はできる、しかし。
定性的な認識は定量的なそれに先立つ。それぞれになしえたことの大きさをもし測るとするなら、ゼロと非ゼロ、非ゼロと具体的な数値の差を測ることにことになるのだろうが、前者のジャンプの方が偉大ではないか、と思う次第である。
とはいえ、そんなものを誰が比べるのだろうか? いや私としては、それが初めて「在る」ことを指摘した人の貢献度をきちんとたたえたいと思っているのだ。
(100306)
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