2010年3月1日月曜日

君はどう思うんだ?

電車の中でたぶん工学部生らしい大学生の会話。「今度のマシンは、あれがああでこれがこうなんだよ、すごいよな。」「でもクロック的にはこうなんじゃないの。結局は○○は××っていうぜ...。」なんだか、どれもどこかの雑誌かネットで出ているような情報ばっかり。つまり俺はこんなレアでディープな知識を知っているぞ競争。あるいはこういう判断がもっとも信憑性の高い優れた判断であることを俺は知っている、ということ。
私は工学部の出身で美大で教えているが、教えている学生にこういったパターンの会話はあまり聞かれないような気がする。
どうしてそうなるのか、考えたのだが、美大では最終的にはこう問われる。「...それで、君はいったいどう思うんだ?」と。
しかし普通、工学部ではそうは問われない。もし学生が「私はこう思うんです。」といったら、教授たちは「それは『君の』考えだろう。それは誰がどの論文でいっていることか。あるいは実験でそれを君はそれを証したのか?」というだろう。
私は、この教授と学生の発想のどちらか一方が正しいとは思わない。どっちもあるんだ。片方しかない、片方しか知らない、ということが問題だし、それこそが正しくない、というべきだろう。
(100301)

2010年2月27日土曜日

ハードなデザイン、ソフトなデザイン

ソフトなデザインとは、使い方からアプローチするデザイン。
ハードなデザインとは、作り方からアプローチすることと、おいてみよう。

ソフトウェアとハードウェアということとは、直接は関係しない。
これらのアプローチは、実際には相対的なものだ。ハードウェアとソフトウェアをしいて比べれば、その名の通りの位置づけになるかもしれないが、それぞれ中にもハード/ソフトはある。つまり南の街にも北の街にも、街の北側はあり南側もある、ということだ。

ハードウェアのデザインにおいて、そのものの使い手はどういう人で、使われる状況はどうであるか、と発想していくこととはソフトなデザインである。
それに対して、材質や設計方法からアプローチするのがハードなハードウェアのデザインアプローチである。あるいは競合機種やマーケット自体だけを見てデザインすることもこちらの範疇だといってよいと思う。
ハードなデザインを行うときにも、実際にはソフトな面をいっさい考えなければものはできない。スポーツカーがスポーツカーであるのは、スポーツ的に人が運転できること、といったソフト的な解釈が暗黙の前提にはある。
しかし、自動車を通したこんなスポーツの在り方もありうるのでは、と問うことはソフト的なアプローチである。もちろん、自動車そのもののソフトを問うことも可能だろう。

ソフトウェアにおいても、ハードなデザインはある。データ構造やアルゴリズムからアプローチすることはハードである。いわゆるユーザーインターフェースは、基本的にはソフトな面であるが、その中にすらハードよりの発想を指摘することができるかも知れない。人間も機械のように見なして、仕事の効率で効果を計ろうとすること。あるいは設計指針として守るべきことを10箇条のガイドラインとしてまとめて守らせようとするようなアプローチ。
ユーザーエクスペリエンスというのは、かなりソフトなアプローチに思える。

ソフトなデザインはそのものにとって、より根源的である。その道具とは何か、何故必要なのか、どのように我々を変えてくれるのか、を問うのだから。これなくして、ハードなデザインはありえない。

私はハードなアプローチは、否定されるべきとは考えない。むしろ非常に重要なものであって、欠かすことができない。多くのイノベーティブなものはハードなブレークスルーをともなわなければ可能にならない。
私が言いたいのは、その両方のアプローチの意義や重要性をよく理解して、どちらが正しいか、というような決着を求めるような議論をしないこと。まさしく車の両輪として働くように、多くの人ができるだけ高いレベルで両方を理解したうえでデザインすることが重要なことだと思う。
(100227)

2010年2月9日火曜日

人間観察

人間中心にデザインを進めるということは、人間をよく観察するということにつきる。ユーザビリティのテストといっても、最後は人間観察に行き着く。
そして人間観察において重要なことがあるとすれば、それは自分自身を内省することなのだと思う。どんなに子細に使用者の言動を記録したところで、その言動が本当に何を意味しているのかを読み解く辞書は自分自身の内省によってしか得られない。この辞書を人から人へ教え伝えることも、またとても困難なことであるように思う。その辞書は、その人の生き様にストレートに関わるっていることだから。
被験者に、今何を感じたかを問うのはよいが、そこで得られた被験者の答えは、これこれの問いにこれこれの被験者はこう答えた、という客観的な事実の記述でしかない。被験者がそのように感じたと発言したことと、被験者がそのように感じたことを、混同してはならない。カスタマが欲しいと声を上げるものと、カスタマが本当に欲しいと感じているものとは基本的には一致しない。
犯罪者の自白は、証拠として採用しない、という考えがあると、ある弁護士から聞いたことがある。あくまで客観的な証拠によってのみ立証をするということであるらしい。

私たちデザイナーは特に、自分がこのように振る舞っていることには、どういう気持ちが潜んでいるのか?
こういう気分のときには、どう振る舞っていたいか、それらに人一倍敏感になるべきだろう。
(100209)

2010年2月2日火曜日

iPadのメッセージ

スティーブ・ジョブスによる "iPad" というメッセージは、コンピュータなんて本当に必要なのか? という問いかけのような気がする。
私たちにとって、コンピュータ(PC)は、たしかに便利でなくてはならないものに感じられるが、本当に私たちが必要としているのはこのPCなのだろうか。
PCは、それ自体が自己目的化している。特にIT関連の業界にいて、日々それに接してそれを作り出す側にいると、根本的な疑問を忘れてしまいそうになる。新しいよりよいPCが必要なのは、それはおそらく今使っているこのPCよりも速く強力だからだ。しかし、そもそもそれが不要だとしたら何のための強力化なのだろう。
本当に必要なものを見極めようとする眼を常に磨いておかなくてはならない。
(100202)

2010年1月30日土曜日

思うことだけをやる

俳優大滝秀治(84歳)に関するテレビの番組で、大滝秀治が先輩である故宇野重吉のつぎのような言葉を紹介していた。
「思いをこめれば、自然とそれは出てくるものだ。思ってもいないことをするな。」
前半部分は一つのなぐさめ、あるいは若輩への励ましの言葉で月並みに感じるが、問題は後半だ。下手は、(自分も含めて)思ってもいないことを、ついやってしまうものなのだ。
何かをするとき、本当にそれを思っているのかを自分に問うことは大切だ。わかることだけをやろう、思うことだけをやろうと思う。
(100130)

2010年1月24日日曜日

デザインはマジック

デザインは常にマジックである。
デザインで解決しようとする問題の中には必ず自明でないパスが存在する。問題に関わるいろいろな要素がすべて理論化されているとすれば、あとは計算通りに実施するだけだ。しかしその時そこに「デザイン」の入る余地はない。
現実の問題においては、理論化されていない部分があったとしても、とにかく何とかして答えを出すことが必要なんだ。そうでないと何もモノはできないし、コトは進まない。論理的に消化できていない問題にも、とにかくとっかかりを探して無理矢理答えらしきものをひねり出すことが必要だ。それはロッククライマーが、手を伸ばして微細なくぼみを指先で探りつつ岩を上っていくようなものだ。登り切って岩の上から見れば最適なルートも見つかるかも知れないが、現実はすべてクライミング中の出来事だ。
理論で捉えられないものに答えを見いだすのは、マジックと変わらない。
(100124)

2010年1月13日水曜日

デザインは理論を超えたい!

デザインは理論(セオリーやノウハウ)を超えようとする性向を持っている。
それはデザインが何の前提もおかずに「本当によいもの」を目指すという使命(自分がそう勝手に考えているだけかもしれないが)を帯びているからだと思う。
だからすでにノウハウ化、セオリー化した手法や評価にも疑問の眼を向けることになる。ある意味、そういったセオリーという名の判断停止、ないし判断を他にあずける行為自体、反デザイン的なものと感じるのだ、デザイナーにとって。

(100113)