2010年2月9日火曜日

人間観察

人間中心にデザインを進めるということは、人間をよく観察するということにつきる。ユーザビリティのテストといっても、最後は人間観察に行き着く。
そして人間観察において重要なことがあるとすれば、それは自分自身を内省することなのだと思う。どんなに子細に使用者の言動を記録したところで、その言動が本当に何を意味しているのかを読み解く辞書は自分自身の内省によってしか得られない。この辞書を人から人へ教え伝えることも、またとても困難なことであるように思う。その辞書は、その人の生き様にストレートに関わるっていることだから。
被験者に、今何を感じたかを問うのはよいが、そこで得られた被験者の答えは、これこれの問いにこれこれの被験者はこう答えた、という客観的な事実の記述でしかない。被験者がそのように感じたと発言したことと、被験者がそのように感じたことを、混同してはならない。カスタマが欲しいと声を上げるものと、カスタマが本当に欲しいと感じているものとは基本的には一致しない。
犯罪者の自白は、証拠として採用しない、という考えがあると、ある弁護士から聞いたことがある。あくまで客観的な証拠によってのみ立証をするということであるらしい。

私たちデザイナーは特に、自分がこのように振る舞っていることには、どういう気持ちが潜んでいるのか?
こういう気分のときには、どう振る舞っていたいか、それらに人一倍敏感になるべきだろう。
(100209)

2010年2月2日火曜日

iPadのメッセージ

スティーブ・ジョブスによる "iPad" というメッセージは、コンピュータなんて本当に必要なのか? という問いかけのような気がする。
私たちにとって、コンピュータ(PC)は、たしかに便利でなくてはならないものに感じられるが、本当に私たちが必要としているのはこのPCなのだろうか。
PCは、それ自体が自己目的化している。特にIT関連の業界にいて、日々それに接してそれを作り出す側にいると、根本的な疑問を忘れてしまいそうになる。新しいよりよいPCが必要なのは、それはおそらく今使っているこのPCよりも速く強力だからだ。しかし、そもそもそれが不要だとしたら何のための強力化なのだろう。
本当に必要なものを見極めようとする眼を常に磨いておかなくてはならない。
(100202)

2010年1月30日土曜日

思うことだけをやる

俳優大滝秀治(84歳)に関するテレビの番組で、大滝秀治が先輩である故宇野重吉のつぎのような言葉を紹介していた。
「思いをこめれば、自然とそれは出てくるものだ。思ってもいないことをするな。」
前半部分は一つのなぐさめ、あるいは若輩への励ましの言葉で月並みに感じるが、問題は後半だ。下手は、(自分も含めて)思ってもいないことを、ついやってしまうものなのだ。
何かをするとき、本当にそれを思っているのかを自分に問うことは大切だ。わかることだけをやろう、思うことだけをやろうと思う。
(100130)

2010年1月24日日曜日

デザインはマジック

デザインは常にマジックである。
デザインで解決しようとする問題の中には必ず自明でないパスが存在する。問題に関わるいろいろな要素がすべて理論化されているとすれば、あとは計算通りに実施するだけだ。しかしその時そこに「デザイン」の入る余地はない。
現実の問題においては、理論化されていない部分があったとしても、とにかく何とかして答えを出すことが必要なんだ。そうでないと何もモノはできないし、コトは進まない。論理的に消化できていない問題にも、とにかくとっかかりを探して無理矢理答えらしきものをひねり出すことが必要だ。それはロッククライマーが、手を伸ばして微細なくぼみを指先で探りつつ岩を上っていくようなものだ。登り切って岩の上から見れば最適なルートも見つかるかも知れないが、現実はすべてクライミング中の出来事だ。
理論で捉えられないものに答えを見いだすのは、マジックと変わらない。
(100124)

2010年1月13日水曜日

デザインは理論を超えたい!

デザインは理論(セオリーやノウハウ)を超えようとする性向を持っている。
それはデザインが何の前提もおかずに「本当によいもの」を目指すという使命(自分がそう勝手に考えているだけかもしれないが)を帯びているからだと思う。
だからすでにノウハウ化、セオリー化した手法や評価にも疑問の眼を向けることになる。ある意味、そういったセオリーという名の判断停止、ないし判断を他にあずける行為自体、反デザイン的なものと感じるのだ、デザイナーにとって。

(100113)

2009年12月13日日曜日

工学にむけて

言い古されていることだが、デザインは問題解決である。
問題解決において、論理的な因果律があるなら、それに従うべきである。しかし多くの問題は論理的なアプローチだけで解決することはむずかしい。なぜなら問題は人間が引き起こしているのだから。人間がいなければ問題もない。また別の意味で、論理的に解決できる種類の問題であるなら、そのこと自体「問題」ともいえない、ともいえる。
考えてみても世界には数十億の人間が住んでいるのだから、問題がなくなることはありえない。多くの問題は定式化していない、というか、定式化した時点で問題解決、すなわち問題がなくなるわけなので、問題として残っていることは定式化していない、ということである。この定式化していない問題をなんとか一つずつ定式化してきた、というのは客観的なもう一つの歴史の読みといえると思う。しかし新たな問題の解決があらたな問題を産む。知とは問題の終結でもあるが、問題のはじまりでもある。それはあたかも逃げ水のようなもので、私たちはいつも逃げ水を追いかけている。
論理的に道筋がわからない問題に何らかの答えを出そうとする行為を、私はデザインととらえている。間違えてはならないのは、デザインが非論理的なのではなく非論理的な問題にアプローチすることをデザインと呼ぶと言うことである。また感性(この言葉も怪しい言葉だが)と、最近しきりにいわれるのは、「理屈じゃなくて...」というそんな思いもあるのだろうと思う。
たとえば囲碁の勝負というのは、一つの純粋な問題である。これを完全情報のゼロサムゲームであり、どこまでも論理的に突き詰めていけると考えるなら、問題は霧消してしまう。もちろん事実はそうではあるのだが、答えがあまりに遠い場合の数の先にあるので、(今のところは)人間にとって答えは論理的にわからない範囲にある、という時点において問題なのである。だから囲碁にもデザインがありうる、と願いも交えて思う。そんなわけで、マルバツゲームにはデザインはない。
工学とはどこまでも論理的、実証的、記述可能性の中にあるものと考えている人がいるようだ。だからある意味でデザインは工学の枠の中には入らないと。またそういうふうに考えるデザイナーもいる。しかし世界にある問題は、たぶん上に書いたように定義からして非論理性をはらんでいる。もし工学が「人間の」問題解決の一翼を担おうとするなら、非論理的、非実証的、記述不可能性に向き合う覚悟をしないといけないのではないかと思う。
(091213)

2009年12月1日火曜日

マイクロソフトとアップル

ずいぶん前だが、大谷和利氏は「マイクロソフトは他者を乗り越えようとしているが、アップルは自分を乗り越えようとしている、そこがちがう。」と指摘していた。
私は「マイクロソフトにおいては技術の下にデザインが置かれているが、アップルでは技術の上にデザインがのっている。」と思う。
(091201)