2005年10月1日土曜日

わからない、ということ

多くの「わからないこと」の中で、重要なポイントは、それが「何であるのか」とうことの不明さよりも、「何でないのか」ということの不明さがもたらすのではないか、と思う。
何であるのかは、知っている人に聞けばたいていは答えてくれる。しかし何でないのかは、話題に上りにくい。それはたぶん、一見的はずれの答えのように見えるからだろう。

(091015)

2005年7月18日月曜日

感覚で判断するということ

デザイナーの能力を一言で言えば、あるモノなりコトなりに対して、それはありそうか、という観念を一瞬にして持てるかどうかということであると私は思う。
「それはありそうか」という問いは、そのモノやコトが存在としての正当性を持っているかどうか、ということである。それをいわば感覚的、さらにいえば嗅覚的にかぎ分けられるかということである。まさにアブダクションによるものといってよいと思う。
では何故、感覚的にそれを行わなければならないのか。正確にいうと感覚的に行わなければ「ならない」のではない。この判断にはスピードが要求されるので、感覚で処理しないと追いつかないということであると思う。
(一つの大きな命題に対して正当性を問うというのなら、時間をかけて論理的な実証を行えばいい。しかしここで問題にしていることは、もっと...)
また正当性を問うというときには、その正当さを判断するある基準が存在しなければなければならない。日本の国の法の下に正当であるのか、ある倫理性の下に正当であるのか、あるいは次に作るべき製品として正当であるのか。もっと現実的な例をいえば、この製品が若者に使われるとして、現在の若者嗜好傾向や、たった今流行している他の事象との関係や、...といったことから、この製品形状の案はヒット商品として正当でない、つまりあり得ない(または正当である=あり得る)、というような具合にある条件や基準下に判断は下されるのである。またこれらの判断を、これを一瞬に行うことを、たくさん積み重ねてデザイナーは仕事をしている。ここで重要なことは、判断基準そのものと正当性を「同時に」捕まえて断を下している点である。つまり問いと答えを対にした観念を持つということである。問いは与えられているのではない。つまり問いが自分の外からくるのではなく自分の中にある。通常は、問いを与えられて、その問いにどう答えるか、という形式をとる。「問い」それ自体の正当性は問われない。問いの正当性は何を基準に判断を下せばよいのか、ということを考えると、話はメタな方向に再帰してしまう。

デザインは、一つ一つの事象の正当性を論理的に検証して積み重ねる、いわゆる工学的なやり方とは大きく違う。
こういった瞬間的に正当性を判断する感覚をその人の持つ「リアリティ」に関する感覚と私は呼んでいる。
実際にこういった感覚はデザイナーに特に必要なもの、というだけではなく、広く一般に起きていることを、ほんの少しだけプロフェッショナルな視点で述べただけである。

感覚は論理性には負ける。
デザイナーは、論理性は重視しないで感覚的に判断する、という批判や賞賛がある。私は、論理的に検証されたことは、感覚による判断よりも絶対的に正しいと思う。ただ日常の会話(製品開発などの局面などでの)ソフト開発者やSEが下す多くの「論理的な判断」は、全然論理的でないことが多い。あるいは、問いを自分の外において(問いを既定の事実と「仮定」して)の判断であったり。そもそも問い(土台)が怪しいのに、その上にいくら緻密な理論を築いても何も立ちはしない。

(050718)

2005年1月22日土曜日

不動の視点

何事につけても視点というか見解を持っているということは重要なこと。それを我々は売ってもいる。
視点。大切なことは動かないということ。その視点が真実かどうか、ということよりも、その視点が不動のものであるということの方が上位のことなのだ。
不動のものを求めたその一つの結果を”真実”と呼んでいる。


いつであっても、どこであっても。
過去から未来永劫、地球のこちら側から向こう側であっても、さらに他の宇宙であっても、変わらない"もの"、あるいは"こと"というのは、何であるのか?


数学ー科学ー社会学ー... スパンや区切りはちがっても、求めているのは不動の点。


人々が求めているものも、やはり不動な何かなのだ。
(050122)

2004年5月25日火曜日

人間中心設計

図式:
自分の心と体にフィットしないモノやシステムが、気が付いたら自分の回りにあふれていた。つまり、コンピュータ関連のモノたちである。

これらには大きな効能があって、もはやそれなしの状態には戻れない。

これらは偶然の産物ではなく、人間が人間の役に立つようにと、わざわざ意図して作ったものである。それなのに、使うことによって得られるはずの満足感が得られなかったり、時には使うほどにストレスがたまったりする。

作られたシステムは常に十全ではありえない、とはいえ、これはどこかおかしいのではないか。

もっと人間を中心においたモノ作りをすべきである。そのための設計方法論を立てよう。
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設計方法論というものは、設計結果のモノで判断されるべきではないのか?
設計方法論の「正しさ」というのは、常にそのように計られてきたのではないか。
つまり、「人間中心設計」(プロセス)というものあったときに、それが正しいかどうかは、それによって作られたモノが本当に使いやすいものになったかどうかによって判断されるべきものと思う。
現状では、ISOで謳われているから、ノーマンやらニールセンという大先生がいったから、ということによって正しいとされているにすぎない、気がする。

ISO 13407 は、プロセス規格、ということである。
何らかのプロセスを守ることによって、結果のクオリティを保証しようとするのは、この場合特に危ういと思う。思考停止、判断停止こそ、この問題における解からは遠ざかることを意味するのではないか。
例えば、汚染物質を出さないために、最低限これだけの処理プロセスを遵守しなければならない、というような形でプロセスを規格化しようというのなら話はまだわかる。
また、プロセス規格というのは、最低限これだけは守りなさい、という下限を示すのにはよいかもしれないが、これを守るのが望ましい、とある意味で上限を示すのはおかしいような気がする。つまり、それを守らなくてももっと上位のレベルの結果が得られるかもしれないことを示唆していると捉えられる。

とにかく、産業界臭がする。

人間中心設計:当たり前すぎる
その中に、いろいろな「流派」や「思想」があってよい。それらのもっと具体的な「解決案」の方法論が1000個ほど出てこなければ、実りのあるものにはならない。

しかし、誰が一体に、これに反対できるのだろうか?

デザイナーというのは、ずっとそのように仕事をしてきたのだと思うし、そのように言うこと自体、デザイナーを馬鹿にしているような気がする。
デザイナーがそれを言うとすれば、自分が優れたデザインをできていませんでした、といっているようなもの、という気がする。
(040525)

2004年3月10日水曜日

オブジェクト指向

オブジェクト指向とは、人間が行っている事物に関する認識の仕方(=概念化)を、一つのモデルとして形式化した認識モデルである。
実際には、人間にかぎらず多少とも高等な動物が行っているであろうプリミティブな認識のパターンである。

動物が自然界で生き抜いていくためには、環境や状況の変化に対して適切に対応していかなければならない。逆にそういった変化に積極的に適応していく、ということが、動物の定義かもしれないが。

例えば人が犬を見るときに、実際に見ているのはポチやクロやチビといった個別の個体としての犬である。自然界に適応していくときに、一つ一つの個体を認識して、あの犬はこのように見えてこのように振る舞う、また別の犬は別の見えや振る舞いを持つ、とバラバラに識別していては実際に出会う犬の数だけ概念を用意しなければならない。これでは非効率なばかりでなく発展性がない。
そこで人間(動物)がとった戦略は、抽象化という戦略である。つまりポチやクロを直接扱う代わりに、「犬」という一つ上のレベルの型を想定する。犬という型は、うれしいと尻尾を振るものであって...とポチやクロをくくる枠組みを考える。同じように、タマやミケをくくる「猫」という型もあるだろう。犬と猫は型が違う。しかしこの抽象化は、さらに上のレベルの抽象化へと自然と進む。魚も一つの型を構成するけれど、犬や猫と並列に存在すると言うより、犬や猫の一つ上の型、結論から言えばほ乳類という抽象的な型で、いったんくくっておいてから、魚型を置いた方がうまく説明がつく。
これは、たぶん人間だけでなく、チンパンジーや犬自身も行っているであろう。例えばオオカミにとって、自分より小さい小動物は一個一個の個体として見ているのではなく、おそらく「食物」というくくりで捉えているだろう。

(040310)

2004年3月5日金曜日

音楽と雰囲気

音楽と雰囲気(匂い)、デザイン

遅めの朝をベッドで迎えて、ふと何か、昔体験した気持ちがよみがえってくることがある。なつかしくて、あるよい気分。具体的にどういう体験であったかはわからない。
そして、その瞬間が去るとつなぎ止めることはできない。言葉で説明できないし、そもそもそれを直接に示す言葉(名前)はないのか、行き着かない。ただ、それがやってくるのを待つだけ。
今言っているのは、"ひとつの気分"のことではない。そんな気分はたくさんある。またひとつひとつ特定できるものでもない。やってきた気分は2ヶ月前にやってきた、あるいは5年前にやってきた気分と同じなのか、ちがうのかよくわからない。でも、あぁまたひとつの気分がよみがえったと感じるだけ。
何が引き金になっているのか?
それもはっきりとはわからない。その時の気分。

(040305)

2004年3月2日火曜日

メディアはコンピュータ

要するに重要なことは、コンピュータはメディアである、ということ。極端にいうと、メディアはコンピュータである。

マルチメディアとかハイパーメディアとか、×××メディアと、新しさを強調する形容詞を何かとメディア(広告)は、つけたがるわけだが、マルチもハイパーも、はじめにA.Kayらが述べた時に入っていたわけだ。
たぶん、そう遠くない将来メディア(形容詞なし)は、ふつうにあるコンピュータのことをさして使うようになっているだろう。
それが本質的なものであるなら、一般名称になっていく。

テレビのことを、VISUAL RADIOといったとか、いわなかったとか。
テレビはテレビである。

(040302)