2011年12月12日月曜日

自意識


さっき電車の中で、自分のある考え方のパターンに思いいたって急いでメモをとった。それは画期的な自分自身に関する気づきであると思った。それはほんとうに小さいときから自分を支配している原理であって、自分を特色づけているものだ。なぜこのことにこの年齢になるまで意識を向けられなかったのかと思った。それはこうだ。

自分は何かを感じたときに、感じたままをストレートに発言したり行動したりすることができない。まずそう感じている自分自身を、自分として許せるかどうかというチェックを、どのような些細なことに対しても必ずおこなっている。こういうことを感じる自分は、かっこう悪くはないか? という自問。
その判断基準は、別に高尚なものではなく、ほんとうにかっこうよいか悪いかという表層的なレベルのものだ。自分にとってかっこうよいとは、つまりホンモノかどうかというような感じのリアリティ。これは強固なもので、絶対に踏み外してはならない自分の掟だ。自分に課しているということではなく、そうしないではいられない。そうしないと根源的に恥ずかしいと感じるような何か。しかし困ったことに、そのように自分自身の感覚と行動のあいだにギャップをもうけること自体を、もっともかっこうよくないと感じている自分がいる。

しかし今それをこうして書いてみると、あまりに普通のことであるように思えてきた。あんなに自意識の化けの皮をはいでやったと思ったのに。これはたぶん誰でも自然にやっているレベルのことだ。ときどきそんなこととは、ぜんぜん関係なく行動していると感じられるような人もいるけれど。

つまり「自意識」のことについて、遠回りして堂々巡りしたということだけなのかもしれない。たぶん問題は、この判断基準のありようそのものなんだろう。

それとも、電車の中で感じたことは、もっと別の要素があったのかもしれない。しかし、そうだとしてもその思いはもう失われてしまった。もう二度とそれはやってこない、誰にも、どこにも。
(111204)

道具を作る


「デザインは、意図をもって、道具を、作ることを考えること。」

道具:
人の役に立つ何か。用(はたらき)をもつもの。それによってできなかったことができたり、少しでもよくできたりするもの。人のもともと持っていた、手や脚や眼や脳のはたらきを拡張してくれるものやこと。
それは形のある、カナヅチやノコギリ、食器や家具、それに洋服や乗り物やコンピュータのようなものでもあるし、形のない、国や政治やいろいろな制度、それに言葉のようなものもある。道具は「人が造り出すもの」にほぼ等しい。

作ることを(考えること):
道具には作るという局面と、使うという局面があるのだが、デザインは主に作ることにかかわっている。
作るということをさらに細かく見ると、何をどう作ろうかと想像し、計画し、設計する段階と、実際に材料を集めて加工し組み上げる段階とがある。これらのうちの前半の段階をデザインといっている。犬小屋を作るにせよ、ビルを建てるにせよ、法律を作るにせよ、このステップは変わらない。ものをつくる会社における設計部門と製造部門が独立しているように、それぞれは独立したアクティビティ。デザインは立法に近く、行政や司法とは独立している。作ることを「考える」といったのは、そういう意味である。
また、「使う」という局面は作ることとは対称的なものであるが、「使い方」をデザインするという視点はありうる。使い方において開かれている道具(たとえばコンピュータ)において、「使い方」を考えることは、道具の新たな「はたらき」を発見し、発掘することである。これはいいかえれば、「道具Aの『使い方』」という(メタレベルの)道具Bと考えられる。そういうことから、「使い方」はデザインの対象と考えることができる。

意図をもって:
人は無意識にいろいろなものを作り出している。もっと初期的な道具である「ことば」については、意図に基づいて考え出したというより、自然発生的に生まれたものである。人が生活する中で作られたいろいろな暗黙のルールは意図して意識的に産んだものではなく、生まれたものである。これらは強固で有用な「道具」であるが、それができる過程をデザインとは呼ばない。(私はそういう立場をとりたい。)
(111130)

卒業制作について


教えている美術大学デザイン科の卒業制作最終審査会が終わって、もう彼らに何かを伝える機会がない、と思うと、あぁあれも言いたかった、これも言いたかったと思う。考えてみると去年も同じようなことを考えた気がする。でもまた、放っておけば忘れてしまう。ということで、今のうちにそれがどんなことかメモを残しておくことにする。

・工作に関して
工作が得意でない人がいて損をしている。教師はだいたいデザイン実践を経ているので、皆作り方はよく知っている。木材にしても金物にしてもデジタル制作についても。聞けば丁寧に答えてくれるかヒントをくれるはずだ。作り方は教えやすいので、よしきた、という感じ。ただし、何を作るのかはデザインする学生本人にしかわからないので、それはよく伝える。その上で作り方は興味を持って学んで欲しい。
自分は工作の精度自体は卒業制作において、第一義ではないと思っている。しかしどうやってモノが作られるのかを知っている、ということはデザイナーとして重要な能力である。だから、作り方を知らないためにうまく作れないのは問題である。作り方を知っているけれど、自分の手が器用でないのでうまくない、というのはしかたない。とはいえ、学生の場合たいていは作り方を知らないのだけれど。

・アイデアを先行させる
これは何度も言っていることだけれど、なかなか実践されない。コンセプトを立ててからアイデアを出すのでは遅いと思う。出たアイデアをくくるものがコンセプトである。ここでいうアイデアは、具体的な完成イメージの断片のようなもの。アイデアスケッチに描かれる内容である。しかし本来的な意味でのアイデアスケッチは、ほとんど描かれていないように見受ける。
はじめにイメージありき、であるべし。

・何がやりたいのかは自分に訊く
自分のやりたいことは、自分に訊くしかない。やるべきことを理詰めで追ってもたぶん、おもしろくない。だからそれは感覚的な発想でよいと思う。
ただし本当にやりたいことなのかどうかは、途中で何度も何度も自分に対して問わなければならないだろう。
本当に学生がそれをやりたいのかどうか、を教師は測っている。うわべだけの「やりたい」は、だいたい教師にはばれる、というかその点は教師は敏感である。

・チャレンジする
作品にせよ発表にせよ、私にとって一番印象がよくないのは、「なめた態度」である。「世の中こんなもん」と高をくくったもの。この程度でよい、ということを自分は知っている、と思っていること。
自分はこれを知っている、ということを、そもそもやってもしかたない。
できればそれが価値があるのかどうかよくわからないけど、惹かれるものやこと、にチャレンジしてほしいし、そういうチャレンジこそが卒業制作でやるべきことだろう。それをするために多くの時間をとっている。

ひとまずこんなところかな。また思いついたら書く。
(111211)