2011年4月12日火曜日

絶対デザイン感

「絶対音感」という感覚があるように、絶対デザイン感(観?)というのものがあるようだ。自分自身は相対的な形でしかデザインを判断できないけれど、それがある人にはある。それは品質に関する絶対的な尺度といってもいい。
絶対的な尺度というのはいつも危うさを含んでいる。それを「説明」してはならない。説明は拒まれている。それは説明を超えたところにある。(「絶対」なんだから。)
「一つの系の中にいて、その系の正しさを証明することはできない。」という数学の大定理(*)を、私は100%支持する。その意味するところは「絶対性」の排除であると思うが、しかし私はそれを支持した上で、なお絶対的な「判断」というものを排除しない。
この相対性と絶対性の関係は、まだかなり考えを巡らす余地がある。今、その扉の前に立つ私は、か細い糸を右手につかんではいるが、それを語る十分な準備ができているとはいいがたい。
おそらくそれは「説明」によってではなく、「表現」によって語るということになるのだろうと思う、S先生流に言えば。
このあたりのことを、今度の論文の基本的な核にできればいいのだが。
(*)「ゲーデルの不完全性定理」

(110412)

2011年4月8日金曜日

だってそうなんだからしかたない

実際に自分の身に起こっていることなんだけれど、いろいろな局面で、いろいろなことが昔のようにはできなくなっている。記憶も印象もうっすらとうす味になっている(ふふふ、若い者にはわかるめい。)この成り行きは悲しいことではあるけれど、しっかりと味わおうと思う。
私の仕事は、きちんと気持ちよく使える道具やメディアを作るという仕事である。IT関係の"もの"や"こと"を中心に(今は)デザインをしている。そういった最先端の機器は、若者やビジネスマンが中心で、その人達がマーケットを引っ張っている。
でもその人達だけが利用者というわけではないし、個人的には「ビジネス」という切り口は、そろそろ自分の正面のテーマでないような気もしている。(もちろん、なんだってやりますけどね。)そういった中で今、自分に起こりつつあるこの自然のゆっくりとした変化は、悲しくとも大切な体験であるのだと思う。だから、しっかり目を見開いて自分自身に起きることを見つめていきたい。
「わからない」から「わかる」へ向かう、ある種の成長の過程は記録され研究もされていると思うが、「わかる」から「わからない」に向かう衰退の過程におけるUIのデザインという視点は、領域として新しいと思う。これ以上の臨床体験はない。そしてまたこのタイミングというのも絶妙なポイントのような気がする。たぶん、10年前でも10年先でもない、本当にジャスト今、この分野の成熟の具合と、自分の年齢の状況と、自分の経験値の三つが交差する地点のできごとは、偶然ではないのだと考えたい。

どうして機器が理解できなくなるのか/どうしてわかっていたのか。
どのように機器がわからないのか。
なぜ、なにが、学習を阻んでいるのか。
どうして忘れてしまうのか/どうして覚えていられるのか。

これから、できるだけ折に触れてそういうことを報告をしていこう。
(もし、覚えていたならだけど。)

「悲しみがとどまって寄る辺のない気持ちになるとき、その悲しみはどんな味がするのかを自分に問う。その味に神経を集中する、つまり味わおうとすると、気持ちがふっと冷静になれる。怒りに心をうばわれるときも。」

今日の言葉:「だってそうなんだからしかたない。」(S先生)

(110408)

2011年4月6日水曜日

デザインオーダー

知り合いの若手デザイナーが、デザインに対する適切なオーダーがなされないことに憤っていた。でももう長くデザインという仕事をしているけど、適切なオーダーが出されたことって、本当に数えるほどしかない。ある程度の的を射たオーダーが出されるケースというのは、だいたい元デザイナーかデザインに関係することが長くてデザイナーの生理がわかっている人にかぎられる。
私の到達した結論は、デザインのオーダーは、デザイナー自身が出すものだということ。もちろんなんらかの守らなければならない条件はあるかも知れないけど、デザイナーが必要としているデザインオーダーは、デザイナー以外には出せないものだと思う。
普通の感じとしてはせいぜい「なんか、こう、カッコイイやつやってよ!」というくらいだろうと思う。むしろ逆に事細かに、こういう感じでああいう感じじゃなくて、というオーダーが出てきたら、それこそ注意すべきだと思う。そのまま真に受けてデザインして何度痛い目にあったことか(思い出したくもないけど)。ちょっと悲観的すぎる表現をしてしまったかも知れない。うまくいっていたら、それはそれでもちろん結果オーライだけど、職業として考えるなら、細心の注意を払っといた方がよいよね。
そういういい加減なオーダーを責めてはいけないと思う。デザイナーはそれも含めて、「こんな感じのものが欲しいんでしょ、それはこれじゃない?」と、デザインを示さなければならない。言い方はともかく、内容としてはそのように、相手の心の指し示すところを、感じて、考えて、形にして差し出す、そこまでを含めて「デザイン」と呼ぶのだと思う。完璧なオーダーが出てきて、それを形にしてあげて差し出す、というのは幻想のような気がする。
前に一休さんの話をしなかったかな。屏風の虎が暴れ出すって言う話。困った坊さん達が、一休さんに救いを求め、一休さんは虎退治を引き受ける。屏風の前で、たすきを締めて長刀を構え、「じゃあ、退治するから虎を屏風からだしなさい」という。でも、どうして出てくるのかわからないことに困っているんだから、坊さん達も途方に暮れる...、といった話だった(違ったかな)。つまりなんかまずいこと(あるいは、いいこと)があることはみんな知っているんだけど、正体がわからないことが問題だと言うこと。デザイナーはこの一休さんのように、デザインしてあげるからオーダーをここに出しなさい、といっていてはいけないのだと思う。(もちろん一休はそのこともわかっていてるんだけど)
自分のあこがれている「優れたデザイン」のことを考えてみればわかると思うけれど、だれかのオーダーで作った「優れた」と名の付くデザインなんてないのじゃない?

(110406)