2010年3月29日月曜日

技術の進化

ケイタイですら、かなりいい写真がとれるようになってきている。特にカメラの性能を上げるような、はっきりした進化は、本当に日本人は得意なので、そこそこのよい写真をとるのは、お金もかからず手間も技術も不要というすごい事態になっている。その結果何がおきるか?
写真や写真をとる行為自体にデフレが起きる。相対的に価値が希薄になり、最終的に人々はそれに飽きてしまう。こういうのは行きすぎた進化なんだろうか。
(100329)

2010年3月11日木曜日

機能と構造

私がデザイナーとしてデザインを語るとき、その対象として見ているのは人が作り出すもの全般についてである。人が作り出すもの全般を指す言葉に人工物(artifact)という言葉がある。私はそれを機能体と置き換えてみたい。(英語でなんというかはわからないが。)
機械であれ、広告のようなものであれ、洋服、自動車、ロケット、芸術、あるいは制度としての家や政治や国、どれも機能を持つ「機能体」であると言える。人工でない機能体もあるかもしれない。例えば本当の(?)自然公園とか。しかし自然公園の機能(例えば「癒し」)は、人間がすでに存在する自然の中で発見した(というか付与した?)のだから、準人工といってよいと思う。
芸術の機能は、...。うーむ、それはおそらく、自分たち自身を知るという鏡のような機能なのだろうと思う。
とにかく、人工物の存在理由はその機能性にあるといってよいと思う。何らかの「働き」をするためにそれは作られた。意図的の場合もあるだろうし、無意識的な場合もあるかもしれない。それでこれを、明確にいうために「機能体」と呼んではどうかということだ。
(機能のない人工物、というのはあるのだろうか? 今はないと思えるが...。)

機能は構造に宿る、というのは本当のことのように思える。私にはそれはリアルだ。
養老孟司は「心とは、脳の作用である。」と言った。脳自体はある種の構造体である。頭蓋を開ければ目に見て手で触れることができる。しかしその機能である「心」は、見えないし触れられない。しかしそれはそこに確かにある。
一般に、構造から機能を想像することは難しい。簡単な機械仕掛け(構造体)なら、それがどういう働きを持つもの(機能体)であるかはわかるかもしれないが、仕掛けがその機能すべてとは限らない。昔社会科の教科書に、考古品の鼎は(どう見ても入れ物ではあるのだが)、何に使ったのかよくわかっていない、と書いてあった。もちろん入れ物には違いないのだが、それだけでは説明できない文様や形状的な特徴があるという話であった(気がする)。ましてや、脳の構造をいくら仔細に観察しても、それが発揮する機能を言い当てることはとても難しい。私たちは、人間がどういう思考回路や行動基準をもっているかをある程度知っているので、それをもとに脳の働きと構造を結びつけることも可能だろうが、まったく異なる生体系の宇宙人が脳を見て、その機能を言い当てるのは難しいだろう、と想像できる。(宇宙人が「脳」に相当する器官を持っていれば、少しは想像しやすいだろうとは思う。)

話をもどして、私たちデザイナーが扱おうとするのは、まさしくこの機能体である。私たちは「ある働きをする何か」を作ろうとしている。人は決してこれこれの「構造体」を必要としているのではない。構造はどうであってもよい。
しかし、機能が構造に宿るものである以上、また機能を直接見たり触れたりできない(つまり直接作れない)以上、ある「働き」自体を想念すると同時に、さらにそれを実現できる構造を発見し、発明することをしなければならない。これはなんともアクロバティックな所業であるといわざるを得ない。

まとめて見よう。
a. 構造(体)は、見て触れられる実体である。
b. 機能(体)は、直接に見たり触れたりできない、虚体(?)である。
c. 機能は構造に宿る。(機能は構造に宿る、という形でしか存在し得ない。)(←要論考)
d. 人が欲するもの、必要とするものは、機能(性)である。(人は直接に構造を欲することはない。)(←要論考)

デザイナーがすべきことはかなりクリアになってきたかな。
1. 人の欲する、必要とする、機能(働き)を知ること
2. その機能を発揮すべき構造を見いだすこと

いや、しかしまだ困難は続く。
1-1. 人の欲する機能を知ることが、むずかしい

それが本当に人に欲っせられるかどうか、それを判断すること自体がまず困難である。機能は構造体を通してしかやってこないのだから、構造を示した上で「この構造体が発すると思われる機能を、あなたは欲しますか?」と問わなければならない。
そもそも欲しいもの(機能)は何なのかを探って、その構造を作り出そうという戦略なのに、構造を示さないと機能を語れないのでは、何もはじめることができない。


まぁまぁまぁ。しかし、そうはいってもそれが実相であるし、人はずーっと昔からこういう状況の中でいろいろなものを作ってきた。したがって、今さら何も悲観する必要はないのだろう。
こういった構造的な困難さの中で活路を見いだす行為こそ、私がデザインと呼んでいるもの作りなのだと思う。
(100311)

2010年3月6日土曜日

定性的と定量的

定性的にわかることと、定量的に知っていることがあると、なんとなく定量的であることの方が、価値が高いように一般的には感じられる。しかし、私は必ずしもそうは思わない。 定量的であることを重んじるのは、より詳細でよりきめ細やかに事実を捉えていると感じるからであろう。それはそれで一応は理解はできる、しかし。 定性的な認識は定量的なそれに先立つ。それぞれになしえたことの大きさをもし測るとするなら、ゼロと非ゼロ、非ゼロと具体的な数値の差を測ることにことになるのだろうが、前者のジャンプの方が偉大ではないか、と思う次第である。 とはいえ、そんなものを誰が比べるのだろうか? いや私としては、それが初めて「在る」ことを指摘した人の貢献度をきちんとたたえたいと思っているのだ。 (100306)

2010年3月1日月曜日

君はどう思うんだ?

電車の中でたぶん工学部生らしい大学生の会話。「今度のマシンは、あれがああでこれがこうなんだよ、すごいよな。」「でもクロック的にはこうなんじゃないの。結局は○○は××っていうぜ...。」なんだか、どれもどこかの雑誌かネットで出ているような情報ばっかり。つまり俺はこんなレアでディープな知識を知っているぞ競争。あるいはこういう判断がもっとも信憑性の高い優れた判断であることを俺は知っている、ということ。
私は工学部の出身で美大で教えているが、教えている学生にこういったパターンの会話はあまり聞かれないような気がする。
どうしてそうなるのか、考えたのだが、美大では最終的にはこう問われる。「...それで、君はいったいどう思うんだ?」と。
しかし普通、工学部ではそうは問われない。もし学生が「私はこう思うんです。」といったら、教授たちは「それは『君の』考えだろう。それは誰がどの論文でいっていることか。あるいは実験でそれを君はそれを証したのか?」というだろう。
私は、この教授と学生の発想のどちらか一方が正しいとは思わない。どっちもあるんだ。片方しかない、片方しか知らない、ということが問題だし、それこそが正しくない、というべきだろう。
(100301)