1991年1月1日火曜日

メディアについて

これからのコンピュータを考えるとき、コンピュータは道具というよりもむしろメディアとして捉えられるべきものではないだろうか。

道具とメディアの違いについて少し考えてみたい。例えば、紙とペンで何かを書き、伝えるときペンはものを書く「道具」といって差しつかえないだろう。しかし、紙はものを書く「道具」といいきるのにややためらわれる。道具という響きの中にそれを使って何かに積極的にはたらきかけて仕事をするものというイメージがある。紙はどちらかといえば、その仕事の結果を運ぶもの、あるいは仕事の結果を入れる容器のようなものである。そして仕事の結果を伝えるときの媒介、つまりメディアである。ここでは、仕事の結果と単純に無機的な言い方をしたが、時にこれは芸術作品であったり、超極秘の重大な情報であったりする。あらゆる情報(感情的なもの、事実をつたえるもの)はこのメディアをとおして伝えられる。逆にいえば、これらを伝えるものがメディアである。

そして、ときにメディアは中身の情報に大きな影響を与えることがある。メディアによって情報そのものの質が変わりうる。もっといえばメディアがあって初めて情報が存在し、意味を持つことすらある。そのメディアなくしては情報が存在さえしない。そう考えるとメディアはもう情報のいれものというよりも情報を支える一つの要素と考えるべきかも知れない。

例えば、北斎の残した芸術が版画という形でなかったらおそらく世界的な評価はそれなりに異なったものとなったであろう。北斎が版画を選択したそのことから北斎の芸術は始まっている。つまり、メディアを選択したそのことも、芸術の一部であったと考えるべきであろう。

さて、話はコンピュータに戻すことにしよう。一般的な意味からはコンピュータは大変便利な「道具」である。難解な計算をたちどころにやってくれる。文章をきれいな文字で印刷してくれる。細かい制御をして料理をおいしく作ってくれる・・・。確かに便利な道具であった。しかし、ここでいいたいのはもし文字をきれいに印刷してくれることが、そもそも文章を作ることに影響を与え、出来上がった文章に違いが出るとしたら、どうであろうか。

(91年頃)